新たな生命
コウノトリさん、良い仕事してます。
2月22日、月曜日。午前7時40分。エリン・ウォーカーは、台所の流しに手をつき眉間に皺を寄せていた。目の前には、半分ほど残ったコーヒーがある。いつもと同じ豆。いつもと同じ牛乳。淹れたのはノアで、味も普段と変わらないはずだった。それなのに2口目を飲もうとした瞬間、胃の奥から不快なものが込み上げてきた。
「エリン?」
振り向くとノアが心配そうに食卓の向こうから彼女を見ていた。
「顔色が悪いよ」
「ちょっと気持ち悪くなっただけ。大丈夫」
エリンはコーヒーを流しに捨て水を飲んだ。ノアが椅子から立ち上がる。
「熱は?」
「ないと思う」
「昨日も疲れてるって言ってたよね」
「そうだった?」
「夕食の後ソファで寝てた」
「それはあなたが選んだ映画が退屈だったから」
ノアが足を止めた。
「そうだったの?」
エリンが悪戯っぽく笑った。
「冗談よ。映画は面白かった」
「最後まで観てなかったけど……」
「また観るんだから結末は教えないでね」
ノアは彼女の顔をもう一度不安そうに見た。
「今日は休んだほうがいいんじゃないかな?」
「そこまでじゃないわ。午後には新人研修もあるし」
「無理はしないで」
「わかってる」
エリンは彼の頬にキスをした。
「本当に具合が悪くなったら、ちゃんと休むから」
ノアはそれ以上言わなかったが、彼女が出勤するまで、何度も様子を確かめていた。
午前11時。病院の処置室で、エリンは薬品棚の在庫を確認していた。消毒液のボトルを手に取ったところで、再び吐き気に襲われた。棚に手をつき呼吸を整える。
「ちょっと、エリン!」
背後からエミリーの声がした。
「何、その顔」
「どんな顔?」
「少なくとも、これから楽しい昼休みを迎える人の顔じゃないわね」
エリンは苦笑した。
「朝から少し気持ち悪くて」
「熱は?」
「ないと思う」
「食欲は?」
「朝はあまり食べられなかった」
エミリーは彼女の手から在庫表を取り上げた。
「座って!」
「大げさだって……」
「看護師が自分の体調を軽く見てどうするの」
エリンは反論しかけたがあまりに真剣なエミリーの表情を見て、おとなしく椅子に座った。
エミリーは水を持ってきて、彼女の前に置いた。
「最近、忙しかったものね。研修の準備もあったし」
「たぶんそれだと思う」
「睡眠は取れてる?」
「取れてる。むしろいくらでも眠れそう」
エミリーは何か言いかけ口を閉じた。それからエリンの顔をじっと見た。
「ねえ、生理はいつだった?」
エリンは水のグラスを持ったまま固まった。
「え?」
「最後に来たの……いつ?」
「ちょっと待って……」
エリンは記憶をたどった。先月の勤務表。引っ越し。冬の海への旅行。新人研修。頭の中で日付を並べてみる。そして思い当たった。
「あれ?」
エミリーは椅子を引いて向かいに座った。
「遅れてる?」
「たぶん」
「どのくらい?」
「1週間以上……かも」
エミリーはしばらく黙った。それから声を落とした。
「エリン。もしかして、妊娠してるんじゃない?」
エリンはグラスを机に置いた。周囲の音が遠くなった気がした。
妊娠
その言葉を自分に結びつけて考えたことがなかったわけではない。ノアと一緒に暮らし始めてから、2人の将来について考える機会は増えていた。いつか結婚するのだろうか。子どもを持つのだろうか。そんな想像をしたこともある。だがそれはもっと先の話だった。先の話だったはずだ。
「まだ、わからないよ」
エリンは言った。
「そうね。症状だけじゃ判断できない」
エミリーは落ち着いた声で答えた。
「でも確認してみてもいいと思う」
エリンは頷いた。エミリーは彼女の手に触れた。
「1人で考え込まないでね」
「ありがとう」
「それと午後の研修は私が代わってもいいから」
エリンは首を振った。
「研修はやる。座って進められる内容だし、具合が悪くなったらお願いするね」
「約束よ」
「約束」
エミリーは立ち上がりかけて振り返った。
「ノアには?」
「まだ、何も」
「そう」
エミリーはそれ以上尋ねなかった。
仕事を終えたエリンは帰り道に薬局へ寄った。妊娠検査薬の棚の前に立つ。小さな箱がいくつも並んでいた。
彼女は1つを手に取り、説明を読んだ。それから別の箱と見比べる。
普段なら患者に検査について説明するときは落ち着いていられる。検査でわかること、わからないこと、結果が出たあとの対応。そうした話は仕事の一部だった。しかし自分のことになると、簡単にはいかなかった。
エリンは結局1つの箱を買った。レジの女性は特に何も言わず、ほかの商品と一緒に紙袋へ入れてくれた。
店を出ると冷たい風が頬を打った。エリンは紙袋を鞄にしまい、駐車場へ向かった。車に乗ってから、しばらくエンジンをかけられなかった。
「もし、妊娠していたら」
「ノアはどう思うだろう?」
「喜ぶだろうか」
「驚くだろうか」
「それとも困るだろうか?」
いろいろな考えが頭に渦巻く。
彼はいつも優しい。エリンの考えを尊重し、彼女が望むことを一緒に考えてくれる。しかし子どもについて、2人はまだ具体的に話したことがなかった。
エリンはハンドルに両手を置いた。そして自分に問いかけた。
「私はどうしたいんだろう?」
答えはすぐには出なかった。ただ、胸の奥に不思議な温かさがあった。
午後6時半。エリンが帰宅すると、ノアは台所で夕食を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
ノアは彼女を見た。
「体調はどう?」
「朝よりいいよ」
「よかった。今日は消化のいいものにしたんだ」
鍋の中では、鶏肉と野菜のスープが煮えていた。エリンはその匂いを嗅ぎホッとした。
「美味しそう」
「食べられそう?」
「うん!」
エリンは鞄を寝室へ運び、薬局の紙袋を取り出した。箱を見つめる。今すぐ確認することもできた。だが彼女は首を横に振って箱を引き出しにしまった。
「先に夕食を食べよう。落ち着いてから、考えよう」
食事中、ノアは職場であったことを話した。
「プライスさん、今日は階段の練習を始めたんだ」
「本当? 順調ね」
「うん。ただ、本人はもう家に帰れると思ってる」
「焦ってるのかな」
「そうだね。奥さんとも少し意見が食い違ってるみたいで」
エリンはスプーンを置いた。
「退院後の生活を考えると、家族の気持ちもわかるけど……」
「うん。でも、プライスさんが自分でできることまで奪わないようにしたい」
エリンは頷いた。
「難しいね」
「そうだね」
ノアはスープを一口飲んだ。
「エリン」
「何?」
「今日は何かあった?」
彼女は一瞬、動きを止めた。
「どうして?」
「いつもより口数が少ないから」
エリンは苦笑した。
「そんなにわかりやすい?」
「君のことが大好きで、よく見てるからね」
ノアが軽く胸を張るので、エリンは笑ってしまった。
「話したくないことなら、無理に聞かないけど」
ノアの優しい言葉が胸に響いた。
「少し……考えてることがあるの」
「うん」
「まだ、ちゃんと整理できてないから……」
ノアは頷いた。
「わかった」
それだけだった。何を考えているのか、誰のことなのか、何か問題が起きたのか。彼は何も尋ねなかった。
エリンはスープをもう一口飲んだ。温かかった。
その夜、ノアがシャワーを浴びている間にエリンは検査薬を取り出した。説明書を読み、時計を確認する。手順に従って検査を終えると、洗面台の端に置いた。判定までの数分間が、ひどく長く感じられた。
エリンは鏡の中の自分を見た。疲れた顔をしている。けれどどこか落ち着いてもいた。
やがて彼女は検査薬に目を向けた。判定窓には陽性を示す線が現れていた。
エリンは息を止めた。もう一度、説明書を確認する。そして判定窓を見直した。線は消えなかった。
「本当に?」
声に出した途端、急に現実味が増した。エリンは洗面台の縁に手を置いた。胸の奥でいくつもの感情が重なった。
驚き
不安
戸惑い
そして喜び
彼女はお腹に手を当てた。まだ何も変わっていない。外から見れば、いつもと同じ体だ。それでもここに新しい命が宿っているかもしれない。エリンはしばらくその場から動けなかった。
浴室から出てきたノアは、寝室の明かりがついていることに気づいた。エリンはベッドの端に座っていた。両手を膝の上に置き、何かを考えているようだった。
「エリン?」
彼女は顔を上げた。
「ノア……」
「どうしたの?」
エリンは答えようとして言葉を探した。ノアは彼女の隣に腰を下ろした。
「具合が悪い?」
「ううん。違うの」
エリンは深く息を吸った。
「話したいことがある」
「うん」
エリンはしばらく彼の顔を見つめていた。そして……ゆっくりと言った。
「私、妊娠したかもしれない……」
エリンは続けた。
「今日、検査薬を使ったの。陽性だった」
ノアは彼女の言葉を理解しようとするように何かを考えるようにしていた。
「妊娠?」
エリンは頷いた。
「うん。まだ病院で確認したわけじゃないけど」
ノアは視線を落とした。
「本当に?」
「うん」
彼は何か言おうとした。しかし言葉が出てこなかった。
「ノア?」
「ごめん。驚いて……」
エリンは小さく笑った。
「私も」
ノアは彼女の手を取った。
「エリンはどう思ってる?」
その質問に、彼女は少し驚いた。
「私?」
「うん」
エリンは正直に答えた。
「怖い」
ノアは頷いた。
「うん」
「仕事のこともあるし、私たち、まだ一緒に暮らし始めたばかりだし」
彼女は言葉を探した。
「子どもを育てるって……簡単なことじゃないでしょう?」
「そうだね」
「私にできるのかな?って思う」
ノアは黙って聞いていた。
「でもね……」
「うん」
「嬉しいとも思ったの。検査薬を見たとき、驚いたし、どうしようって思った。でも……」
エリンは自分のお腹に視線を落とした。
「この子に会ってみたいって思った」
ノアは長い間、何も言わなかった。
「ノアは?」
「僕も、嬉しい」
エリンの目が潤んだ。
「本当?」
「うん」
ノアは微笑んだ。
「正直に言うと、まだ実感がない。でも、君と……僕たちの子どもが生まれるかもしれないって考えたら」
彼は言葉を切った。そして照れくさそうに笑った。
「すごいことだね」
エリンは思わず笑った。
「それだけ?」
「今はそれしか出てこない」
「理学療法士なのに?」
「理学療法士は、こういうときの言葉を習わないんだ」
エリンは笑いながら涙を拭った。ノアも笑った。やがて彼は真剣な表情になった。
「まず病院で確認しよう」
エリンは頷いた。
「うん」
「それから、2人で考えよう。仕事のことも、これからの生活のことも」
「うん」
ノアは彼女の手を握った。
「エリン、1人で全部背負わなくていいからね」
その言葉を聞いた瞬間、エリンの目から涙がこぼれた。
「ありがとう」
ノアは彼女を抱き寄せた。エリンは彼の胸に顔を埋めた。
しばらくしてノアが言った。
「1つ、聞いてもいい?」
「何?」
「今……抱きしめても大丈夫?」
エリンは顔を上げた。
「もう抱きしめてるじゃない」
ノアは自分の腕を見た。
「そうだった……」
エリンは声を上げて笑った。そして彼の首に腕を回した。
「大丈夫。もっと強く抱きしめて」
ノアはありったけの愛情を込めて彼女を抱きしめた。
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