話を聞くということ
サミュエル・プライスは、リチャード・ジェンキンスさん。ヘレン・モリスはブライス・ダナーさんでお願いします。
2月12日、金曜日。リハビリテーション室の窓をみぞれが叩いていた。午後4時の時点で空は暗く、駐車場の車はどれもヘッドライトを点けている。暖房の効いた室内では、歩行訓練用の平行棒に手をかけた男性が、険しい顔で床を睨んでいた。
「もう一度、お願いします」
ルーク・アンダーソンが言ったが男性は返事をしない。
「今度は右足をもう少し前へ。そうすれば……」
「聞こえてるよ!」
鋭い声だった。ルークは口を閉じた。
男性の名前はサミュエル・プライス。62歳。3週間前に脳梗塞を起こし、右半身に軽度の麻痺が残っていた。以前は町の郵便局で配達員をしていたという。30年以上、毎日歩いて働いてきた人だった。
「一歩出すのに、いちいち説明してもらわなきゃならんとはな……」
プライスは右足を見下ろした。
「情けない話だ」
「そんなことありません。先週と比べれば、ずっと……」
ルークの言葉にプライスは反論する。
「先週の俺と比べてどうする。去年の俺は、このくらいの距離なら目をつぶって歩けた」
ルークは言葉を失った。近くで別の患者の記録を確認していたノア・ベネットが、2人の様子に気づいた。
「プライスさん。少し休憩しましょうか」
「まだ終わってない」
「ええ。ですから、休憩です。中止ではありません」
プライスは不機嫌そうにノアを見たが、やがて平行棒から手を離した。ノアは椅子を勧め、ルークに水を用意するよう頼んだ。
「今日は調子が悪いんですかね?」
プライスは椅子に腰を下ろし、右手を握ったり開いたりした。
「いや。体は悪くない」
「そうですか」
「頭に来てるだけだ」
「何かありました?」
プライスが鼻を鳴らした。
「妻が家の階段に手すりを付けると言い出した」
「退院後のためですか」
「そうだ。ついでに、寝室を1階に移すとか、風呂場を改装するとか。俺のいない間に、家を別物にする気らしい」
ノアは口を挟まずに聞いていた。
「息子まで電話してきた。『父さん、無理しないでくれ』だと。誰も彼も……俺がもう何もできないと思ってる」
「奥さんは、心配なんでしょうね」
「わかってる!」
プライスの声が室内に響いた。少し離れた場所にいた患者が振り返る。プライスはそれに気づき、口を結んだ。
ノアは声を落とした。
「家に帰りたいですか?」
「当たり前だ」
「どんなふうに帰りたいですか?」
プライスの表情が変わる。
「どういう意味だ?」
「例えば玄関から自分の足で入ること。台所でコーヒーを淹れること。庭に出ること。どれがいちばん大事でしょう?」
「全部だ」
「それなら、1つずつ目標にしましょう。ご家族にも、プライスさんが何をしたいのか、きちんと伝える必要があります」
プライスは黙り込んだ。
「手すりを付けるかどうかも、寝室を移すかどうかも、ご本人抜きで決めることではありません。ただ家の安全を確かめずに退院するわけにもいかない。そこは僕たちの仕事です」
ノアはプライスの右足を見た。
「それから……去年のご自分と比べて腹が立つのは、当然だと思います。でもだからといって今日できたことまで無かったことにするのは、もったいないですよ」
プライスは長い間黙っていたが、やがてぼそりと言った。
「庭にある鳥の餌台を直さなきゃならん」
「餌台ですか」
「去年の秋から傾いてる。妻は鳥なんぞ放っておけと言うが……冬場は餌が少ないんだ」
ノアは微笑んだ。
「では庭まで安全に歩けるようになることも目標ですね」
プライスは平行棒を見た。
「あと3往復、できるか?」
「今日は2往復にしておきましょう」
「いや3往復だ」
「2往復してから判断します」
プライスはノアを睨んだ。ノアは譲らなかった。やがてプライスが、ふっと笑った。
「若いくせに頑固だな、あんた」
「よく言われます」
少し離れた場所で、ルークが目を丸くしていた。
訓練が終わった後、ルークはノアを廊下に呼び止めた。
「ベネットさん、さっきはすみませんでした」
「何が?」
「僕、プライスさんの気持ちを考えてませんでした。歩ける距離を伸ばすことばかり考えていて」
「ルークが間違っているとは思わない。距離を伸ばすのも大事だからね」
「でもあの人はそれを望んでなかった……」
「違うよ、望んでいないわけじゃない。僕たちが見ているものと、プライスさんが見ているものが違ったんだと思う」
ルークは考え込んでから言った。
「僕たちは歩行距離を見ていて、あの人は家に帰った後の生活を見ていた?」
「そういうことだね」
ルークは深く頷いたが、すぐに顔を上げた。
「でも、ベネットさん。さっき2往復で止めましたよね。あれはどうしてですか?」
「疲労が出ていたから。右足の運び方が最後のほうで乱れていた」
「本人は3往復できるって」
「本人の希望は尊重する。でも転倒の危を無視するわけにはいかないよ」
ルークは感心したように息を吐いた。
「難しいですね……」
「難しいよ。だから毎日考えるんだと思う」
そこへ白衣のポケットに両手を突っ込んだケンジ・ヌクミズが通りかかった。
「何が難しいんですか?」
ルークが事情を説明すると、ヌクミズはしばらく天井を見上げた。
「患者さんの希望と……医療者の判断の両立ですか」
「はい」
「それは難しいですね」
ルークは少し驚いた。
「先生でもそう思いますか?」
「もちろんです。私は昼食を何にするかさえ、毎日判断に苦しんでいますから」
ノアが笑った。
「先生、それと同じですか?」
「重大さは違いますが、構造は似ています。本人の希望、周囲の意見、現実的な制約。どれも無視できません」
ヌクミズは真顔で続けた。
「ちなみに今日、私はハンバーガーを希望しました。しかし財布の中身という現実的な制約によって、サンドイッチになりました」
「先生、昨日も同じことを言ってませんでした?」
「昨日も同じ制約がありました」
ルークはとうとう吹き出した。ヌクミズは2人を見比べた。
「笑い事ではありません! 給料日はまだ先です」
そう言い残して廊下を歩いていった。
同じ頃、エリンは病棟で退院を翌日に控えた女性患者の荷物を整理していた。患者の名前はヘレン・モリス。74歳。肺炎で入院していたが、治療が順調に進み、明日には自宅へ戻れる予定だった。
「ウォーカーさん、これもお願いできる?」
ヘレンはベッド脇の引き出しから、小さな紙袋を取り出した。エリンが受け取ると、袋の中から毛糸が覗いた。
「編み物ですか?」
「ええ。孫に帽子を作ってたの。でも、途中で入院しちゃって……」
ヘレンが苦笑する。
「もう冬も終わりかけてるのにね……」
「まだ寒い日が続きますよ。きっと喜びますよ!」
「そうだといいけど……」
ヘレンは窓の外を見た。
「家に帰ったら、まず何をしようかしら……」
「楽しみですね」
「そうね。でも、ちょっと怖いの」
エリンは手を止めた。
「何がですか?」
「また具合が悪くなったらと思うと……。病院にいれば、誰かが見ていてくれるでしょう。でも家では、そうはいかないから」
エリンは椅子を引き、ベッドの横に座った。
「ご自宅には、娘さんがいらっしゃるんでしたね」
「ええ。でも、娘にも仕事があるし、いつも頼るわけにはいかないわ」
エリンは頷いた。
「退院後に気をつける症状や、薬の飲み方は、明日もう一度確認しましょう。それから、困ったときの連絡先も書いておきます」
ヘレンはほっとしたように笑った。
「ありがとう」
「全部を一度に覚えようとしなくて大丈夫ですよ。ご家族にも一緒に説明しますから」
ヘレンはエリンの顔をまじまじと見つめた。
「あなた……いい看護師さんね」
エリンが照れた。
「ありがとうございます」
「若いのに、ちゃんと私たち患者の話を聞いてくれる」
エリンは研修で新人たちに伝えた言葉を思い出した。安心は説明することだけでは生まれない。そのことを教えたのは自分だった。だが実際には患者たちから教わることのほうが、ずっと多い気がした。
その夜、2人はいつもより遅く帰宅した。みぞれは雪に変わり、玄関先には薄く白いものが積もっていた。エリンはコートを脱ぎながら、肩を回した。
「今日は疲れた……」
ノアは彼女の鞄を受け取った。
「夕食、簡単なものにしようか」
「賛成。冷凍庫にスープがあったでしょう?」
「あるよ。パンも残ってる」
「完璧!」
ノアはキッチンへ向かい、エリンは居間のソファに腰を下ろした。少しして彼女は棚の上に飾られた写真を見た。
冬の海。灯台。風に髪を乱しながら笑っている2人。
その隣には小さな白い貝殻が置かれている。エリンは立ち上がり、写真立てを手に取った。
「ねえ、ノア」
キッチンから返事があった。
「何?」
「この写真、寝室にも飾りたいな」
「同じ写真を?」
「うん。もう1枚印刷して」
ノアが顔を出した。
「いいと思うよ」
エリンは笑いながら彼を見た。
「またいいと思うって言った!」
ノアは笑った。
「今回は理由もあるよ」
「聞かせて」
「朝起きたときに、君が笑ってる写真を見られるから……」
エリンは耳まで真っ赤になって写真立てを棚に戻した。
「そういうこと……さらっと言うの、ずるい」
「そうかな?」
「そうよ」
彼女はキッチンへ向かい、ノアの背中に腕を回した。
「お腹すいた」
「もうすぐできるよ」
「早く〜」
「はいはい」
ノアはスープを温めながら、彼女の手に自分の手を重ねた。
夕食後、エリンはダイニングテーブルに書類を広げていた。新人研修の第2回に向けた資料だった。ノアは向かいに座り、赤いペンを持っていた。
「ここ」
彼が1枚目を指さした。
「説明が少し長いかもしれない」
エリンは身を乗り出した。
「どこ?」
「この段落。大事なことは書いてあるけど、一度に伝えるには情報が多いと思う」
「なるほど」
エリンがペンを取り、余白に書き込んだ。
「ほかには?」
ノアは次のページをめくった。
「この事例は、もう少し具体的なほうがいいかな」
「例えば?」
「患者さんが不安を訴えたとき、どういう言葉を使ったのか。そこまで書いてあると、新人さんも考えやすいと思う」
エリンは頷いた。
「確かに」
彼女は資料を見直した。
「ノア、結構厳しいね」
ノアが意外そうな顔をした。
「厳しく見てって言ったのは君だよ」
「そうだけど……」
エリンは笑った。
「ここまでちゃんと直されるとは思わなかった」
「嫌だった?」
「ううん」
エリンは首を振った。
「嬉しい。ちゃんと読んでくれてるってことだから」
ノアはほっとしたように笑った。
「それならよかった」
エリンは赤い印のついた資料を見た。そして、ふと尋ねた。
「ねえ、ノア。あなたはどうして理学療法士になろうと思ったの?」
ノアのペンが止まった。
「前にも少し聞いたけど、改めて知りたくなったの。今日、患者さんと話していてね。人が元の生活に戻るのを支える仕事って、すごく大切だなって思ったから」
ノアはペンを机に置いた。
「そうだね」
「何か、きっかけがあった?」
しばらくの沈黙を挟んで、ノアはゆっくり話し始めた。
「昔、いろいろあってね……。自分が何をしたいのか、よくわからない時期があったんだ」
ノアは噛み締めるように言葉を発する。
「でも誰かの役に立てる仕事がしたいとは思ってた。それで大学に入ってから、いろんなことを調べたんだ」
「そこで出会ったのが、理学療法士?」
「うん。怪我や病気で、今までできていたことができなくなった人を支える仕事だと知って……。そういう仕事なら、僕にもできるかもしれないと思った」
エリンは彼を愛おしそうに見つめた。
「ノアらしいね……」
ノアは苦笑した。
「そうかな」
「うん。そういう他人を思いやれるところ……大好き!」
エリンは彼の手を取った。以前、喫茶店で初めてこの手に触れた日のことを思い出した。
大きくて、皺が多くて、いくつもの古い傷がある手。
あのとき、彼女はその手を好きだと言った。今もその気持ちは変わらない。
「あなた、この仕事に向いてると思う」
「どうして?」
「今日、プライスさんの話を聞いたの。ルークからね。怒っていた患者さんが、最後には自分から訓練を続けたいって言ったんでしょう?」
「プライスさん自身が、目標を見つけたんだよ」
「それを手伝ったのは、あなたでしょう?」
エリンは微笑んだ。
「そういうところ、尊敬してる」
一転して真剣な表情になったエリンは、彼の手を握ったまま言った。
「でもね、私、あなたに一つお願いがあるの。仕事で疲れたときは、ちゃんと疲れたって言ってほしい」
「どうして?」
「あなた……人のことばかり気にするから。自分のことは後回しにしそうで」
ノアは少し考えた。
「そんなことないよ」
エリンが疑いの眼差しを向ける。
「本当に?」
「たぶん……」
「ほら!」
ノアは笑った。エリンは彼の手を軽く揺らした。
「私たち、一緒に暮らしてるんだから……。どっちか1人が頑張る必要はないでしょう?」
「そうだね」
エリンが満足そうに笑った。
「よろしい!」
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