冬の海
後輩の指導って難しいですよね。
1月最後の金曜日。エリンは病院の休憩室で、エミリーに旅行の計画を打ち明けた。
「海? こんな寒い時期に?」
エミリーはサンドイッチを持ったまま固まった。
「冬の海って、きれいでしょう」
「きれいなのは認めるけど、寒いものは寒いわよ」
「ノアにも同じことを言われた」
「でしょうね。あの人、まともだもの」
エリンは笑った。
「でも付き合ってくれるって」
「そりゃ付き合うでしょうよ。あなたが砂漠に行きたいって言っても、あの人なら日焼け止めを3本買ってくるわ」
「そんなに買わないわよ」
「じゃあ2本」
エリンは言い返そうとして、やめた。先月、ノアが自分のために牛乳を2本買ってきたことを思い出したからだ。
「あり得るかも……」
エミリーは勝ち誇ったように頷いた。
「それでどこに泊まるの?」
「海辺の小さなホテル。灯台の近くなんだって」
「いいじゃない。2人で旅行するのは初めてでしょう?」
「うん」
エリンは印刷した予約確認書を鞄から取り出した。ホテルの名前の下に2人の名前が並んでいる。それを見たエミリーが、少し意外そうな顔をした。
「エリンが予約したの!」
「そうだけど?」
「ノアが全部手配しそうなイメージだったから……」
「私が行きたいって言った旅行だもの。自分で調べたかったの」
「なるほどね」
エミリーはサンドイッチを頬張りながら、エリンを見つめる。
「楽しそう」
「楽しみだよ」
「旅行のことだけじゃなくて、最近のあなた自身がよ」
エリンは一瞬返事に詰まった。それを見てエミリーは笑った。
「ここのところ仕事のこともよく話すようになったでしょう。来月の新人研修、指導役に立候補したんだって?」
「スーザンさんに勧められたの。まだ正式には決まってないけど……」
「前だったら、たぶん遠慮してたんじゃない?」
「そうかもしれない」
エミリーが悪戯っぽく笑う。
「ノアと暮らし始めたから?」
「それだけじゃないよ」
エリンは答えた。
「この町に来て仕事をして、いろんな人と知り合って……自分で何かを決めるのが、前より怖くなくなったんだと思う」
エミリーは満足そうに笑った。
「だったらなおさら旅行を楽しんできなさい。ただし、風邪をひいて月曜日に欠勤するのは禁止」
「厳しいなあ」
「人手不足なんです!」
エミリーはそう言って、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。
翌朝、2人は日の出から1時間ほど経った頃に出発した。エリンは助手席に座り、膝の上に道路地図を広げていた。車のナビゲーションも使っていたが、彼女は紙の地図を見るのが好きだった。
「次の分岐、右よ」
「わかった」
「その先に魚料理の美味しい店があるんだって」
「朝ご飯、さっき食べたばかりじゃない?」
「朝食じゃなくて、昼食の下見」
「まだ8時半だよ」
「計画性があるって言って」
ノアはクスクス笑った。
「計画性があるね」
「心がこもってない」
「僕なりに精いっぱいだったんだけど」
車内にはラジオから古いロックが流れていた。エリンが音量を上げる。
「この曲、好き」
「知ってるよ」
「どうして?」
「君、料理をしながらよく歌ってるから」
「私、そんなに歌ってる?」
「サビは毎回」
「音程は?」
ノアは少し考えた。
「楽しそうだよ」
「それ、答えになってない!」
エリンが笑いながら彼の肩を軽く叩いた。
高速道路を降りると、景色は少しずつ変わっていった。住宅地が途切れ、畑と低い林が続き、やがて空の色が広くなる。
最初に海が見えたのは、緩やかな坂を越えたときだった。冬の日差しを受けた水面が、銀色に光っている。
「見えた!」
エリンは思わず身を乗り出した。ノアも視線を向けた。
「本当だ」
「ねえ、すごくきれいでしょう?」
「うん」
「寒そうだけど……」
ノアは笑った。
「それは言わない約束じゃなかった?」
「私は言っていいの」
「なるほど」
海岸沿いの道を走りながら、エリンは何度も窓の外を見た。ノアはその横顔を見るたびに嬉しくなった。
ホテルに荷物を預けた後、2人は岬の灯台まで歩いた。海風は想像以上に強かった。エリンはマフラーを鼻のあたりまで引き上げた。
「寒い…」
ノアは何も言わず、じっとエリンを見つめる。
「言いたいことがあるなら言っていいわよ」
「いや……特に」
「絶対あるでしょう?」
「冬の海はきれいだね」
エリンが目を細めた。
「あなた、意外と意地悪よね?」
「最近、よく言われる」
「誰に?」
「君に」
2人は笑った。
灯台の下には先客が数組いた。犬を連れた夫婦、写真を撮る若者たち、ベンチに座って温かい飲み物を飲む老人。エリンは手すりの近くに立ち、海を見下ろした。遠くで貨物船がゆっくりと進んでいる。波が岩にぶつかるたび、白い飛沫が上がった。
「来てよかった」
彼女が言った。
「そうだね」
「海って、不思議」
「どうして?」
「ずっと見ていられる。何も起きてないように見えるのに、同じ形の波は1つもないんだもの」
自分にはなかった視点なので、ノアは感心した。
「確かに」
エリンはコートのポケットから小さなカメラを取り出した。
「写真、撮ろうよ」
「僕が撮る?」
「違う。2人で写るの」
ノアが近くにいた年配の女性に声をかけると、彼女は快く引き受けてくれた。
「もう少し寄って。そう、そのくらい」
女性はカメラを構えた。エリンがノアの腕にしがみつく。
「笑って、ノア」
「笑ってるよ」
「もっと!」
シャッターが切られた。女性は画面を確認し、満足そうに頷いた。
「いい写真よ。お2人とも、とても幸せそう」
エリンは礼を言ってカメラを受け取った。画面には、風に髪を乱された2人が写っていた。
エリンは大きく笑っている。ノアも笑っていた。普段の控えめな微笑ではなく、目尻に皺を寄せた屈託のない笑顔だった。
「この笑顔、好き!」
エリンが元気良く言った。ノアは画面を覗き込んだ。
「僕……髪がひどいね」
「そこがいいのよ!」
「そうかな?」
「うん。ちゃんと旅行に来たって感じがする」
昼食は港の近くにある小さな食堂で取った。店内には漁船の写真が飾られ、窓際には古いストーブが置かれていた。エリンは魚介のスープ、ノアは白身魚のフライを注文した。
「一口交換しない?」
エリンが言った。
「いいよ」
彼女はスープを小皿に取り分けた。ノアも魚を一切れ分けた。エリンはフライを食べ、満足そうに頷いた。
「美味しい」
「スープも美味しい」
「でしょ?」
「どうして君が得意そうなの?」
「私が選んだ店だから」
ノアは笑った。
食事を終えた頃、エリンの携帯電話が鳴った。病院からだった。彼女は画面を見て、少し表情を変えた。
「ごめん。ちょっと出てもいい?」
「もちろん」
エリンは店の外へ出た。数分後、戻ってきた彼女は椅子に座り、深く息を吐いた。
「何かあった?」
ノアが尋ねた。
「来月の新人研修のこと。スーザンさんからだった」
「どうなったの?」
「指導担当に決まったって」
ノアの顔がパッと明るくなった。
「おめでとう!」
「ありがとう。でも……思ってたより責任が重そう。研修の内容を考えて、資料を作って、実技も見なきゃいけないんだって」
「確かに大変そうだね」
「うん。正直、少し不安」
ノアはすぐに励まそうとはしなかった。
「どのあたりが?」
エリンは考えた。
「教えたことがうまく伝わるかどうかかな? 患者さんに説明するのと、後輩に教えるのって違うでしょう?」
「違うね」
「ノアはルークに教えるとき、どうしてる?」
「まず何がわからないのか聞くようにしてる」
エリンは大きく頷いた。
「それは大事ね」
「それと……僕が説明したことを理解してもらえなかったら、別の伝え方を考える。教える側にも責任があるから」
エリンは少し考え込んだ。
「なるほど」
「でもエリンならできると思うよ」
彼女は顔を上げた。
「どうして?」
「君は患者さんが何を言おうとしているのか、最後まで聞ける人だから。新人にとっても、それは大きいと思う」
「ありがとう」
エリンは少し考えてノアに言った。
「1つお願いしてもいい?」
「何?」
「資料を作ったら、一度見てほしいの。教え方の参考にしたいから」
「もちろん!」
エリンは笑いながら追加した。
「ただし、厳しく見てね」
「努力するよ」
「ノアの『努力する』は、ちょっと信用できないな」
「どうして?」
「私が作ったもの、何でも褒めそうだから」
ノアは少し考えた。
「じゃあ赤いペンを用意する」
「そうして」
彼女は満足そうに笑った。
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