鍵を返す日
同棲開始です。
1月9日、土曜日。ミラー商店のレジの上には、3つの段ボール箱が積まれていた。1つには「食器」。もう1つには「本」。最後の箱には、太い黒のマジックで「その他」と書かれている。
ウォルター・ミラーは、その最後の箱を見て顔をしかめた。
「この『その他』ってのが、いちばん信用できん」
エリンは笑った。
「なぜですか?」
「何が入ってるかわからんからだ。こういう箱に限ってやたら重い」
ウォルターは試しに持ち上げようとした。しかし箱はほとんど動かなかった。
「ほらな」
ノアが隣から手を伸ばした。
「僕が運びます」
「いや待て。まだ俺は持てないと決まったわけじゃない」
再び箱をウォルターが持ち上げようとしたとき、マーサが奥から声をかけた。
「腰を痛めたら、今度こそ病院に連れていくわよ」
ウォルターはゆっくりと箱から手を離した。
「若い者に任せるのも、年長者の大事な仕事だからな。決して持ち上げられないというわけではないぞ」
ノアは笑いながら箱を持ち上げた。
「そうですね」
エリンはその様子を感慨深く見つめていた。1年前の自分が、こんな日を想像できただろうか。自分の荷物を、誰かと一緒に運ぶ日。
それも逃げるためではなく。新しい暮らしを始めるために。
エリンがノアの家へ引っ越すことを決めたのは、年が明けて間もなくのことだった。
最初は春頃を考えていた。仕事の都合もあるし、部屋の片づけにも時間がかかる。何より急ぐ必要はなかった。
しかしある日の夕食後、2人でカレンダーを見ながら話しているうちに、エリンがあることに気づいた。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「今の家の契約、来月で更新なの」
ノアは顔を上げた。
「そうなんだ」
「うん。だから、もし一緒に暮らすなら、その前に決めたほうがいいかなって」
「なるほど」
「どう思う?」
ノアは微笑みながら答えた。
「僕はいつでもいいよ」
「本当?」
ノアは頷いた。そして少しだけ照れくさそうに笑った。
「君が来てくれるなら嬉しいから……」
エリンはそんなノアを愛しく思った。
「じゃあ……引っ越そうかな」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「決まりだね」
「うん!」
引っ越しの準備は思っていたより大変だった。エリンは自分の荷物がそれほど多くないと思っていた。しかしクローゼットを開けると、予想以上に服があった。本棚には看護学校時代の教科書や専門書。台所には食器や調理器具。そして、引き出しの奥からは、いつ買ったのかも覚えていない小物が次々に出てきた。
「こんなにあったんだ……」
エリンは床に座り込んでため息をついた。ノアが段ボール箱を組み立てながら笑った。
「一人暮らしでも、意外と増えるものだね」
「ノアの家とは大違い」
エリンが笑った。その後、一転して真面目な顔になった。
「私の荷物、全部入るかな?」
「大丈夫だと思う。使ってない部屋もあるから」
エリンは思わず笑った。
「またそれ!」
引っ越し当日。エミリー・カーターが手伝いに来ていた。彼女はエリンの服を畳みながら言った。
「それにしても早かったわね」
エリンが笑う。
「そう?」
エミリーは頷いた。
「付き合い始めて、まだ数ヶ月でしょう?」
エリンは少し考えた。
「そうだね」
エミリーが心配そうに彼女を見た。
「大丈夫?」
エリンは少し驚いた。
「何が?」
エミリーはなおも心配そうな表情を崩さない。
「無理してない?」
「してないよ。私が決めたことだから」
エミリーはホッとしたように頷いた。
「じゃあ、よかった」
そしてエリンの肩を軽く叩いた。
「幸せになりなさいよ」
エリンは笑った。
「ありがとう」
午後3時。最後の荷物がノアの車に積み込まれた。
エリンは空になった部屋を見回した。窓際に置いていた小さなテーブル。ベッド。本棚。それらがなくなった部屋は、思っていたより広かった。
マーサが玄関に立っていた。
「忘れ物はない?」
「はい。大丈夫です」
マーサはエリンが来た当日のことを思い出していた。
「最初に来たときは、ずいぶん緊張してたわね」
エリンも思い出しながら言った。
「そうでした?」
マーサは頷いた。
「何かに怯えてるような顔をしてた」
そしてマーサは続けた。
「でも、今は違う。いい顔になったわ」
エリンは目を潤ませた。この夫妻がどれだけ助けになったかわからない。右も左もわからなかった自分を温かく迎えてくれた。そのことが大きな助けとなっていたことに思いを馳せ、心からのお礼を言った。
「ありがとうございます……」
マーサは彼女の手を握った。
「こちらこそありがとう……。あんたが来てくれて、楽しかったのよ」
エリンは嬉しさのあまり、何も言えなかった。そんな彼女をマーサは彼女を抱きしめた。
「いつでも遊びに来なさい」
エリンは頷いた。やはり言葉が出てこなかった。
玄関の外では、ウォルターがノアと話していた。
「ノア。エリンを頼むぞ」
いつになく真剣なウォルターの様子に、ノアは背筋が伸びた。
「はい」
ウォルターは続けた。
「あの子はいい子だ。幸せになるべき子だ」
ノアはエリンの大家がこの夫妻で本当に良かったと感じていた。
続けてウォルターが言う。
「もちろん、お前さんもだ。エリンの幸せばかり考えて、自分のことを考えないのは違う。エリンもお前さんも幸せにならないといけないんだ」
以前、ヌクミズにも同じことを言われたことをノアは思い出していた。この町の人たちは本当に温かい。ノアは感謝のあまり目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……。エリンを幸せにします。もちろん僕も幸せになります」
「それでいい。困ったことがあったら、いつでも来なさい」
ノアの肩を叩きながら、ウォルターが優しく声をかけた。
午後4時半。ノアの家にエリンの荷物が運び込まれた。
居間には段ボール箱が並び、寝室には新しい衣類が増えた。エリンは玄関で靴を脱ぎながら言った。
「ただいま」
「おかえり」
エリンがクスリと笑う。
「何だか変な感じ……」
ノアは少し首を傾げた。
「そう?」
エリンは頷いた。
「うん。でも嬉しい……」
ノアは微笑んだ。
「僕も」
その夜。2人は段ボール箱に囲まれながら、夕食を食べた。料理を作る余裕がなかったので、近くの店で買ってきたピザだった。
エリンが紙皿を手に笑った。
「引っ越し初日の夕食がピザだなんて」
ノアも笑った。
「悪くないと思うけど」
2人は笑いながら食事を続けた。
「ねえ、ノア」
「何?」
「これから、よろしくね」
「こちらこそ」
エリンにはまだこの状況が信じられないようだった。
「一緒に暮らすんだね……」
ノアは頷いた。
「うん」
「こんな幸せな日が来るなんて夢みたい」
「僕も……」
幸せにはなれない。幸せを望んではいけない。長くそう考えていた2人は、今最高の幸せを感じていた。
翌朝。エリンはノアより先に目を覚ました。カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。
隣ではノアが眠っていた。エリンはしばらく彼の寝顔を見つめた。思わず笑顔になる。
そっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、牛乳が1本入っていた。
「ちゃんと1本だ」
律儀に約束を守るノアのことを思うと、エリンは笑ってしまった。
「覚えていてくれたんだ……」
彼女がコーヒーを淹れ始めると、しばらくして背後から声が聞こえた。
「おはよう」
エリンは振り返ると、ノアが少し眠そうな顔で立っていた。
「おはよう」
ノアは、キッチンを見回した。
「いい匂い……」
「コーヒー、もうすぐできるよ」
「ありがとう」
エリンはカップを2つ並べた。白いカップと、淡い青色のカップ。2つ並んでいる。
ノアは彼女の隣に立った。
「エリン」
「何?」
ノアは少しだけ笑った。
「おはよう」
「それはさっき言ったじゃない?」
「何度でも言いたくなるんだ。これまで朝の挨拶を交わせる人が家にいたことがなかったから……」
エリンは嬉しくなって、ノアに抱きつきキスをした。窓の外では、冬の朝日が静かに町を照らしていた。
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