合鍵
合鍵って特別感がありますよね。
12月最初の土曜日。エリン・ウォーカーは1枚の紙を前に30分ほど悩んでいた。紙には近隣の町にある家具店の名前と住所、それから簡単な地図が印刷されている。悩んでいる理由は家具を買うべきかどうかではなかった。問題は何を買うかだった。
「どうして、こんなに種類があるのよ……」
彼女はカタログをめくり、ため息をついた。
ベッドサイドテーブル。チェスト。キャビネット。収納付きベンチ。似たような家具が、似たような色で並んでいる。
しかも写真ではどれも素敵に見える。エリンは携帯電話を手に取り、ノアにメッセージを送った。
「今日、家具を見に行きたいんだけど付き合ってくれる?」
返事はすぐに来た。
「もちろん。何を買うの?」
「まだ決めてない」
数秒後。
「家具店に行ってから考えるんだね」
「そういうこと」
さらに返事が届いた。
「じゃあ、僕は荷物持ち担当かな」
「違うわよ。意見を聞くために誘ってるの」
「責任重大だね」
エリンは携帯電話を置いた。そしてもう一度カタログを眺めた。
本当は家具そのものが欲しいわけではなかった。最近ノアの家で過ごす時間が増えている。
一緒に料理をする。映画を見る。本を読む。何もしないで、ただ同じ部屋にいる。そんな時間がエリンには心地よかった。
だがノアの家には彼女のものがほとんどなかった。先日彼が空けてくれたキッチンの引き出しには、すでにエプロンと小さな調味料の瓶を入れてある。それだけでも嬉しかった。
だからもう少し何かを置いてもいいのではないかと思ったのだ。ただし……どこまでが「もう少し」なのか、自分でもよくわからなかった。
午前11時。ノアはエリンの家の前に車を停めた。玄関から出てきたエリンは、厚手のコートに赤いマフラーを巻いていた。
「おはよう」
「おはよう。寒くない?」
「大丈夫。車の中、暖かいよ」
エリンは助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
「ありがとう」
ノアは車を発進させた。しばらく走ったところで彼が尋ねた。
「それでどんな家具を探してるの?」
エリンは窓の外を見ながら答えた。
「小さな収納家具かな」
「収納?」
「うん。ノアの家に少し私のものを置いておきたくて」
エリンは少し照れくさくなった。
「迷惑だった?」
「全然!」
ノアは即答した。
「嬉しいよ」
エリンは微笑んだ。
「よかった」
ノアは少し考えた。
「でも家具を買わなくてもいいんじゃないかな」
「どうして?」
「使ってない引き出しがまだあるから」
エリンは笑った。
「ノア。あなたの家、使ってない場所が多すぎるのよ」
「そうかな?」
「そうよ」
エリンは指を折って数えた。
「食器棚の下、廊下の収納、寝室のチェスト。それに……客間なんてほとんど空っぽでしょう?」
「確かに」
エリンは笑った。
「空いているスペースに、少しは家具を増やしたほうがいいと思うの」
ノアは頷いた。
「なるほど」
そして少しだけ笑った。
「じゃあ今日は専門家の意見を聞こう」
エリンは眉を上げた。
「誰の?」
「エリン先生の」
彼女は吹き出した。
「私だって素人よ!」
家具店は町の中心部から車で40分ほどの場所にあった。広い店内にはソファやテーブル、ベッド、収納家具が並んでいる。エリンは入口で立ち止まった。
「広いね」
ノアも周囲を見た。
「迷子になりそうだ」
「大丈夫。ちゃんと連れて帰ってあげる」
「ありがとう、助かるよ」
2人はまず収納家具の売場へ向かった。エリンは白いチェストの前で立ち止まった。
「これ、どう思う?」
「いいと思う」
次にエリンは隣の木製キャビネットを指さした。
「じゃあ、こっちは?」
「それもいいね」
エリンはじっと彼を見た。
「ノア……」
「何?」
「全部いいって言うつもり?」
ノアは少し困った顔をした。
「違うよ」
エリンは腕を組んだ。
「じゃあ、ちゃんと選んで」
ノアは2つの家具を見比べた。そして真面目な顔で言った。
「白いほうは掃除がしやすそうだね」
エリンは笑った。
「そこ?」
「大事じゃない?」
「大事だけど……」
ノアは続けた。
「淡い色のほうは部屋の雰囲気に合いそう」
「そう思う?」
「うん。僕の家、家具が少ないから、こういう温かい色があってもいいと思う」
「じゃあ、これにしようかな」
ノアは微笑んだ。
「いいと思う」
エリンはノアを目を見ながら、笑って言った。
「今度は本当にそう思ってる?」
ノアは頷いた。
「さっきから本当にそう思ってるよ」
2人は笑った。
家具を選び終えた後、エリンは寝具売場の前で足を止めた。
大きなベッドが並んでいる。白いシーツ。柔らかな枕。厚手の毛布。エリンは何となく1つのベッドを見つめた。ノアも立ち止まった。
「どうしたの?」
エリンは赤くなっていた。
「何でもない」
「そう?」
「ただ……いつかこういうのも一緒に選ぶのかなって」
ノアも赤面する。それからエリンを見た。
「まだ先のことだろうけど……でも楽しみだね」
「うん」
真っ赤な2人は照れくさそうに笑った。
家具店を出たのは、午後2時過ぎだった。近くのカフェに入り、遅い昼食を取ることにした。窓際の席に座ると、エリンは温かいスープを注文した。ノアはサンドイッチとコーヒーを頼んだ。料理を待つ間、エリンが言った。
「今日はありがとう」
ノアは微笑んだ。
「こちらこそ……ありがとう」
「何が? 私の買い物に付き合ってもらったのに、どうしてノアがお礼を言うの?」
ノアは少し考えた。
「一緒に家具を選べて、楽しかったから」
しばらく2人は黙り込んだ。しばらくしてエリンが言った。
「私……最近、思うことがあるの。前よりずっと普通のことが楽しい」
ノアは静かに頷いた。
「うん。買い物とか、料理とか、映画を観たりすること」
少し間を置いた。
「前は……そういう時間を楽しむ余裕がなかったから」
エリンは続けた。
「でも、今は違う。ノアと一緒にいると、何でもない時間がすごく大切に思える」
ノアが笑顔で答える。
「僕もだよ。君と一緒にいると、普通の1日が特別な日になる」
エリンは思わず顔を伏せてしまう。
「それ……ずるい!」
「何が?」
「そういうこと、急に言うから……」
ノアは少し困ったように笑った。
「ごめん……」
エリンは首を振った。
「謝らないで……嬉しいから」
午後4時。2人はノアの家へ戻った。購入したキャビネットは、翌週配送されることになっていた。エリンは玄関でコートを脱ぎながら言った。
「楽しみだね」
ノアは頷いた。エリンは期待に満ちた表情で言った。
「何を入れようかな」
「好きなものを入れたらいいよ」
「そうする」
2人はキッチンで夕食の準備を始めた。今日は簡単なパスタ。エリンが野菜を切り、ノアがソースを作る。
しばらくしてノアが言った。
「エリン」
「何?」
「1つ聞いてもいい?」
「もちろん」
ノアは緊張した面持ちで話した。
「僕の家に……もっと君のものを置いてほしいと思ってる」
「え?」
ノアは続けた。
「家具だけじゃなくて、服とか、本とか。いつでも来られるように……」
エリンは泣きそうな顔になった。
「嬉しい……」
ノアは微笑んだ。
「それって……私がいつでも来ていいってこと?」
ノアは頷いた。
「もちろん!」
エリンはノアを見つめながら、静かに言った。
「じゃあ……」
少し間を置いた。
「合鍵、もらってもいい?」
「合鍵?」
エリンは頷いた。
「うん!」
そしてイタズラっぽく笑った。
「ノアがいないときでも、来られるように」
ノアはしばらく黙っていた。エリンは少しだけ不安になった。
「駄目?」
ノアはすぐに首を振った。
「むしろ……僕から渡そうと思ってた」
「そうなの?」
ノアは頷いた。エリンが明るい顔になる。
「嬉しい……」
ノアも微笑んだ。
「僕も……」
夕食の後。ノアは書斎の引き出しから小さな鍵を取り出した。
銀色の鍵。それをエリンに差し出した。
「これ……」
エリンは大切そうに、そっと受け取った。
「ありがとう……」
エリンは鍵を手のひらに載せた。小さな金属の感触。思っていたよりずっと重く感じられた。エリンはゆっくりと顔を上げた。
「これで本当にいつでも来られるね」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「うん」
エリンは鍵を握りしめながら、ゆっくりと口を開く。
「私もノアに渡したいな……私の家の合鍵」
エリンは続けた。
「いつでも来ていいよ」
ノアはしばらく何も言えなかった。不安に思ったエリンがノアを見ると、彼は目に涙を溜めていた。
「ありがとう……」
それ以上は言葉にならなかった。エリンはノアを優しくハグして、頭をゆっくりと撫でた。
その夜。エリンが帰った後、ノアは居間に座っていた。テーブルにはエリンが置いていった小さな紙袋があった。中には彼女が使うために買った新しいマグカップが入っていた。
淡い青色のカップ。ノアはそれを取り出した。そしてキッチンの棚に置いた。自分の白いカップの隣に。
2つのカップが、並んだ。ノアはしばらくそれを見つめていた。優しい目でいつまでも見つめていた。
同じ頃。町を離れたマーティン・クーパーは、高速道路沿いのサービスエリアで車を停めていた。彼は携帯電話を手に取った。画面には知らない番号からの着信履歴が残っていた。クーパーは不審に思いながら折り返した。
呼び出し音が続いた。やがて男の太い声が聞こえた。
「クーパーか?」
「誰だ?」
「余計なことはするなと言ったはずだ」
クーパーは顔をしかめた。
「またあんたか」
男は続けた。
「あの男にはもう関わるな」
「わかってるよ。町は出た」
電話の向こうで沈黙があった。
「それならいい」
クーパーは男に疑問をぶつけた。
「あいつ、今は何をしてるんだ?」
「理学療法士だ。病院で会っているなら知っているだろう」
「本当か? 本当にそれだけか?」
男は続けた。
「ノア・ベネットは理学療法士だ。それ以上でも以下でもない」
そして電話が切れた。
クーパーはしばらく携帯電話を見つめていた。
「理学療法士? それだけなはずがないだろう!」
彼はエンジンをかけ、高速道路へ戻っていった。
ノアはキッチンの明かりを消す前に、もう一度マグカップを見た。
白いカップと、淡い青色のカップ。2つ並んでいる。
ノアは静かに息を吐いた。
「おやすみ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。そして部屋の明かりを消した。
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