空いた引き出し
幸せな時間と不穏な時間……両方がノアに訪れます。
午後3時。2人はノアの家へ戻り、買ってきた食料品を片づけていた。
エリンは冷蔵庫を開けた。
「本当に多いね……」
「言ったでしょう」
「でも1週間分はないわよ」
「そうかな?」
「ノアがちゃんと食べれば、3日でなくなるわ」
エリンは保存容器を取り出し、冷蔵庫の中を整理し始めた。ノアは隣で野菜を洗っていた。しばらくしてエリンが言った。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「ここ、もう少し使いやすくできると思う」
ノアは顔を上げた。
「冷蔵庫?」
「ううん。キッチン全体」
エリンは棚を指さした。
「調味料があちこちにあるし、鍋も取り出しにくいでしょう?」
ノアは、少し考えた。
「確かに……」
エリンは笑った。
「よかったら、整理してもいい?」
ノアは頷いた。
「もちろん」
2人は棚の中身を取り出し始めた。使いかけの調味料。古い保存容器。ほとんど使っていない鍋。エリンは、1つずつ確認しながら並べ替えていった。ノアは彼女の指示に従って、棚を拭き重いものを下段へ移した。
「これ、何?」
エリンが小さな瓶を持ち上げた。ノアは覗き込んだ。
「たぶん……クミンかな」
「いつ買ったの?」
「覚えてない」
エリンは蓋を開け匂いを嗅ぐと顔をしかめた。
「もう使わないほうがいいと思う」
ノアは苦笑した。
作業は1時間ほど続いた。やがてキッチンは見違えるほど使いやすくなった。エリンは満足そうに棚を眺めた。
「よし。これで完成!」
ノアも頷いた。
「すごいね」
エリンは笑った。
「そんな大げさな」
「いや本当に。どこに何があるか、すぐわかる」
「これなら料理するのも楽になるでしょう?」
ノアは微笑んだ。
「うん」
そのときエリンは食器棚の一番下の引き出しに気づいた。そこだけ何も入っていなかった。
「ここ、空いてるんだ」
ノアは少しだけ顔を向けた。
「ああ」
エリンは引き出しを開けた。中はきれいに拭かれていた。
「何を入れる予定だったの?」
ノアは少し考えた。
「特に決めてなかった」
エリンは頷いた。
「そうなんだ……」
そして何気なく言った。
「じゃあ、今度何か入れようかな」
ノアは彼女を見た。
「エリンのもの?」
エリンは驚いた。
「え?」
ノアは引き出しを見た。そして静かに言った。
「ここにエリンのものを置くのはダメかな? いつも料理を手伝ってくれるし、何か置いておきたいものがあれば」
エリンはゆっくりと彼を見た。
「いいの?」
ノアは頷いた。
「もちろん!」
エリンが笑顔になる。
「じゃあ……今度エプロンを持ってこようかな」
ノアは微笑んだ。
エリンは、もう一度引き出しを見た。何も入っていない小さな空間。それなのにそこには不思議な温かさがあった。
夕方。2人はキャロルからもらった七面鳥を使ってスープを作った。エリンが野菜を切り、ノアが鍋をかき混ぜる。
「ねえ」
エリンが言った。
「今日、店に来た人」
ノアは、鍋をかき混ぜる手を止めた。
「うん」
「何だか変な人だったね」
「そうだね」
エリンは続けた。
「ノアのこと見てた気がした」
「そう?」
エリンは頷いた。
「うん」
そして小さく笑った。
「最近、そういう人が多いね」
エリンは少しだけ首を傾げた。
「何か心当たりある?」
「昔、いろんな町に住んでいたから」
ノアは続けた。
「どこかで見かけたことがある人なのかもしれない」
エリンはそれ以上聞かなかった。そして彼の横顔を見ながら思った。
「ノアにはまだ話していないことがある」
それは以前から知っていた。それを今は無理に聞くつもりはなかった。
「いつか彼が話したくなったときに聞けばいい」
そう思っていた。
その夜。エリンはノアの家を出る前にもう一度キッチンへ向かった。食器棚の一番下の引き出しを開ける。
中には何も入っていなかった。エリンはそっと笑った。そして静かに引き出しを閉めた。
ノアが玄関から声をかけた。
「エリン?」
「今行く」
エリンはキッチンを出た。玄関ではノアがコートを持って待っていた。
「寒いからこれ着て」
エリンは笑った。
「自分のコートがあるよ」
ノアはハッとした顔をした。
「そうだった!」
エリンは彼の手を握った。
「でもありがとう」
ノアが微笑んだ。
「うん」
そして玄関のドアを開けた。冷たい夜の空気が流れ込んできた。エリンはノアを見た。
「また来るね」
ノアは頷いた。
「いつでも」
エリンはノアに笑顔を向けた。
「今度はエプロン持ってくる」
ノアも笑った。
「待ってる」
その夜遅く。ノアは、キッチンの引き出しを開けた。何も入っていない小さな空間。彼はしばらくそれを見つめていた。そして静かに閉めた。
居間に戻ると携帯電話が震えた。知らない番号からだった。ノアは画面を見た。少し考えた後、電話に出た。
「はい」
電話の向こうで男の声が聞こえた。
「ノア・ベネットか?」
「どちら様ですか?」
男は少しだけ笑った。
「久しぶりだな」
男は続けた。
「お前……今は随分まともな仕事をしてるらしいじゃないか」
ノアはゆっくりと息を吐いた。
「何の用でしょう?」
男は少しだけ声を落とした。
「安心しろ。別に何かをするつもりはない」
ノアは、黙っていた。男が続けた。
「ただ昔のことを覚えてるかと思ってな」
「人違いです」
男は笑った。
「そうか」
少し間を置いた。
「じゃあ、そういうことにしておこう」
そして電話が切れた。
ノアはしばらく携帯電話を見つめていた。やがて静かに机の上に置いた。窓の外では冷たい風が吹いていた。
ノアはゆっくりと目を閉じた。そして、静かに息を吐いた。
「まだ終わっていないのか……」
その言葉が胸の奥に深く沈んでいった。
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