詰め寄るクーパー
過去のノアを知る男・クーパーがしつこいです。
11月12日、木曜日。グレース・ウィルソンの退院が決まった。その知らせを聞いたとき、グレースは真っ先にこう尋ねた。
「それで私はいつから庭仕事ができるの?」
ノア・ベネットは手にしていた退院時の運動指導書を机に置いた。
「まずは家の中を安全に移動できるようになることが先です」
「それはもうできるでしょう?」
「平らな床なら歩行器を使って歩けるようになりました。でも庭は別です。地面に凹凸がありますし、濡れた落ち葉も滑りやすいですから」
グレースは不満そうに唇を尖らせた。
「私の庭なのに」
「庭は逃げませんよ」
「雑草は待ってくれないわ」
「それは困りましたね……」
ノアが真面目な顔で答えるからグレースは吹き出した。
退院は翌週の火曜日。自宅の屋根には応急修理が施され、雨漏りの被害を受けた寝室も片づけられた。リンダ・フォスターが近隣の支援者と連絡を取り、当面は1階だけで生活できるよう家具を配置することになっている。グレースの隣人は、退院後しばらく買い物を手伝ってくれるという。そして何より灰色の猫・ミスティが帰りを待っていた。
「ベネットさん」
グレースは指導書を受け取りながら言った。
「入院したばかりの頃は、もう自分の家には帰れないんじゃないかと思ってたの」
ノアは椅子に腰を下ろした。
「夫が亡くなってから、あの家を離れたことなんてほとんどなかったから……。病院のベッドで目を覚ますたび、何もかも取り上げられたような気がしたわ」
グレースは窓の外を見た。
「でもみんなが助けてくれた。エリンさんも、リンダさんも、あなたも……」
以前の彼ならきっと「僕は仕事をしただけです」と答えていただろう。しかしこの日は違った。
「そう言っていただけると励みになります」
グレースは満足そうに頷いた。
「あなた、いいお嫁さんをもらいなさいね」
ノアは思わず咳き込んだ。
「どうして急に?」
「あなたみたいな人が1人で暮らしてるなんて、もったいないもの」
「そういう問題でしょうか?」
「そういう問題よ!」
グレースは胸を張った。
「私があと50歳若かったら、放っておかないわ」
ノアは笑った。
「光栄です」
「まあ50歳若くても、あなたにはまだ少し年上かしらね」
「年齢は気にしませんよ」
「口がうまいわねえ」
グレースは声を上げて笑った。
病室の入口では、書類を届けに来たエリンがその会話を聞いていた。彼女は笑いをこらえながらドアをノックした。
「失礼します」
グレースは顔を輝かせた。
「あら、エリンさん。ちょうどいいところに来たわ」
「何のお話ですか?」
「ベネットさんにお嫁さんを探してあげようと思って」
エリンはノアを見た。ノアは困った顔をしていた。
「それはなかなかの一大事業ですね」
エリンが言うとグレースは真剣に頷いた。
「そうなのよ。この人、遠慮ばかりしていそうでしょう?」
エリンはとうとう笑ってしまった。
「ええ。よくご存じですね」
ノアは2人を交互に見た。
「あの……僕のいないところで相談してもらえませんか?」
「本人がいないと決められないじゃない」
グレースの返答にエリンはまた笑った。
その日の昼過ぎ、エリンは思いがけない人物からの訪問を受けた。デスクの内線電話を取ると、受付の女性が言った。
「ウォーカーさんにお客様です」
「私にですか?」
「ええ。ミラー商店のウォルターさんという方です」
エリンは不思議に思った。ウォルターが病院を訪ねてくることは珍しい。
「すぐ行きます」
受付ロビーに降りると、ウォルターが椅子に座っていた。いつもの作業着ではなく、茶色のジャケットを着ている。膝の上には古い封筒が置かれていた。
「ウォルターさん?」
彼は顔を上げた。
「おお、エリン。仕事中にすまんな」
「何かあったんですか? マーサさんは?」
「マーサは元気だ。心配いらん」
エリンはホッとした。
「ではどうしたんですか?」
ウォルターは封筒を持ち上げた。
「これを届けに来た」
中には1枚の写真が入っていた。先日のハロウィンで撮ったものだ。大きなカボチャの前に、マーサとウォルター、エミリー、ノア……そしてエリンが並んでいる。
「マーサが写真屋で焼いてもらったんだ。店にも飾るがお前さんにも1枚やろうと思ってな」
エリンは写真を受け取った。
「わざわざありがとうございます」
「いや、それだけじゃない」
ウォルターはいつになく真面目な顔をした。
「今度の日曜日……店の裏の物置を片づけようと思ってる」
エリンは嫌な予感がした。
「まさか……ノアに手伝ってほしいとか?」
ウォルターは目を丸くした。
「何でわかった?」
エリンは笑った。
「誰でもわかります」
「古い棚を動かしたいんだが、俺1人じゃどうにもならん」
「マーサさんには相談したんですか?」
「したとも」
「何て?」
「『業者を呼びなさい』だと」
エリンは笑いをこらえた。
「それが正解だと思います」
ウォルターは不満そうだった。
「お前までマーサの味方か」
「ノアは理学療法士ですけど、引っ越し業者じゃありませんから」
ウォルターはしばらくエリンを見つめた。そして大きな声で笑った。
「なるほど! 言うようになったな、エリン」
「そうでしょうか?」
「ああ。初めて会った頃は何を言っても遠慮してた。今じゃマーサと同じ口をきく」
エリンが苦笑する。ウォルターは立ち上がり、ジャケットを整えた。
「いいことだ」
それだけ言うと彼は手を振って帰っていった。
エリンは写真を見つめた。写っている自分は心から笑っていた。
午後4時。病院の会議室では、新しい歩行訓練機器の導入に関する打ち合わせが行なわれていた。ノアはルークとともに参加していた。施設管理責任者、事務長、機器メーカーの担当者。そして建設会社の代表としてマーティン・クーパーも席についていた。
メーカーの担当者が資料を広げた。
「こちらの機器は、体重を一部免荷しながら歩行訓練を行なうことができます。従来の平行棒での訓練に比べ、介助者の身体的負担を軽減できる可能性があります」
ルークは興味深そうに資料を見ていた。ノアは機器の仕様書を確認した。
「対象となる患者さんの体格、使用できない条件について詳しく教えていただけますか」
担当者は頷き説明を始めた。ノアは質問を重ねた。安全装置の作動条件。緊急停止の方法。転倒リスクのある患者への適応。スタッフの研修体制。一つひとつ丁寧に確認していく。
クーパーはそんなノアを黙って見ていた。やがて事務長が言った。
「では設置場所についてはどうでしょう?」
施設管理責任者が図面を広げた。
「現在のリハビリ室の奥を想定しています。ただし床の補強が必要になる可能性があります」
クーパーが口を開いた。
「その点は弊社で確認できます。工場跡地の調査も進めていますし、機材の搬入には慣れていますから」
ノアは図面を見た。
「この位置だと車椅子の通路が狭くなりませんか?」
施設管理責任者が定規を当てた。
「確かに……少し余裕がないですね」
ノアは続けた。
「機器を使っている間も他の患者さんが安全に移動できる必要があります」
クーパーが笑った。
「ベネットさんは慎重だな」
ノアは顔を上げた。
「患者さんの安全に関わることですから」
「もちろん、悪い意味じゃない」
クーパーは両手を広げた。
「ただ何事にも多少のリスクはあるだろう?」
ノアは穏やかな声で答えた。
「避けられるリスクは、避けたいと思っています」
会議室が一瞬、静かになった。事務長が頷いた。
「ベネットさんの指摘はもっともですね。配置案をもう一度検討しましょう」
クーパーは笑顔を崩さなかった。
「了解しました」
しかしその目は笑っていなかった。
会議が終わるとノアは資料をまとめて席を立った。廊下へ出たところでクーパーが追いついてきた。
「ベネットさん」
ノアは振り返った。
「何でしょう?」
「さっきは失礼した。別に君の意見を軽く見たわけじゃない」
「わかっています」
「そうか。それならよかった」
クーパーはポケットから煙草を取り出しかけ、病院内であることに気づいて戻した。
「ところで少し訊いてもいいか?」
ノアは黙って相手を見た。
「君、ずいぶん変わったな」
「何のことでしょう?」
「昔の君は今みたいに穏やかに話す男じゃなかった」
ノアは何も答えなかった。クーパーは続けた。
「もっと……何というか、近寄りがたい雰囲気だった」
「人違いです」
「そうかもしれないな」
クーパーは笑った。
「だがもし本人だったら、ずいぶん立派になったもんだと思ってね」
ノアは資料を抱え直した。
「失礼します。次の患者さんが待っていますので……」
クーパーは彼の前に半歩出た。
「待ってくれよ」
ノアが足を止めた。クーパーは声を落とした。
「パトリック・オルークのこと……本当に知らないのか?」
ノアの顔から表情が消えた。ほんの数秒だった。だがクーパーはその変化を見ていた。
ノアは静かに言った。
「仕事の話でなければ、これで失礼します」
そして歩き始めた。クーパーは追わなかった。ただその背中を見つめていた。
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