絡む男
ノアの過去を知る男が詮索してきます。
11月の第2週に入ると、町の朝は急に冷え込むようになった。病院の駐車場には霜が降り、正面玄関の植え込みでは夏の終わりまで咲いていた花がすっかり姿を消していた。エリン・ウォーカーは、コートの襟を立てながら通用口へ向かった。
午前7時40分。まだ空は薄暗かった。建物に入ると、廊下の暖かさにほっとした。更衣室へ向かう途中、リハビリ室の前を通りかかる。扉が少し開いていた。中ではノア・ベネットが歩行器の高さを調整していた。
エリンは軽くノックした。
「おはよう」
「ああ、エリン。おはよう」
「早いね」
「今日、午前中に退院前の評価が2件あるから」
「忙しそう」
「でも順調だよ」
エリンは彼の手元を見た。歩行器の脚には、新しいゴムキャップが取りつけられていた。
「それ、交換したの?」
「うん。少し摩耗してたから」
エリンは笑った。
「ノアってこういうところ本当に細かいよね」
ノアが首を傾げた。
「そうかな?」
エリンは微笑んだ。
「でも、いいことだと思う」
「ありがとう」
そのとき廊下の向こうから、ルーク・アンダーソンが歩いてきた。
「おはようございます!」
エリンが振り返った。
「おはよう、ルーク」
ルークはノアを見た。
「ベネットさん、また一番乗りですか」
ノアは笑った。
「今日はたまたまだよ」
ルークはエリンに向かって肩をすくめた。
「この人、いつもそう言うんですよ」
エリンは笑った。
「知ってる」
ノアは少し困ったように笑った。
午前10時。グレース・ウィルソンはリハビリ室で歩行訓練をしていた。ノアは彼女の横につき、歩行器の動きを確認していた。
「いいですよ。少しずつ進みましょう」
グレースは真剣な顔で一歩を踏み出した。
「これでいい?」
「はい。次は右足です」
グレースはゆっくりと足を動かした。ノアは彼女の身体の傾きを見ながら声をかけた。
「焦らなくて大丈夫です」
グレースが笑った。
「あなた、いつも同じことを言うのね」
ノアも笑った。
「大事なことですから」
グレースは歩行器を押した。そして数歩進んだところで立ち止まった。
「疲れたわ」
「少し休みましょう」
グレースは椅子に腰掛けて、静かに息を吐いた。
「昔はこんなこと考えもしなかったのに……。歩くなんて当たり前のことだったでしょう?」
ノアは静かに頷くと、グレースは少しだけ笑った。
「でも今は一歩進むだけで大仕事」
ノアが穏やかな笑みを湛えて言う。
「でも……その一歩が大切なんです」
ノアは続けた。
「昨日より少し長く歩けましたよ」
グレースはしばらく黙っていた。そして少しだけ笑った。
「じゃあ明日はもっと歩けるかしら?」
ノアは微笑んだ。
「状態がよければ、挑戦してみましょう」
グレースが嬉しそうに頷いた。
昼休み。エリンは病院の中庭に面した休憩スペースでサンドイッチを食べていた。窓の外では落ち葉が風に舞っていた。そこへエミリーがやって来た。
「隣、いい?」
エリンが頷いたので、エミリーは椅子に座った。そして少し声を落とした。
「ねえ……この前、ノアのことを訊いてきた男の人、覚えてる?」
「クーパーさん?」
エミリーが頷いた。エリンは少しだけ眉を寄せた。
「どうしたの?」
「昨日、病院の外で見かけたの」
「そうなの?」
「うん。駐車場の近くで誰かと電話してた」
「工事の関係じゃない?」
エミリーは肩をすくめた。
「そうかもしれないけど……」
少し間を置いた。
「何だかノアのことを見てた気がして」
「ノアを?」
エミリーは頷いた。
「気のせいじゃない?」
「そうだといいけど……」
エリンは窓の外を見た。落ち葉が風に舞っていた。
その日の午後。ノアはリハビリ室で患者の記録を整理していた。ルークは隣の机で書類を確認していた。
「ベネットさん」
「何?」
「ウィルソンさん、退院はいつ頃になりそうですか?」
ノアは少し考えた。
「まだ決まってないよ。歩行能力だけじゃなく、自宅の環境も確認しないと」
「そうですよね」
ノアは続けた。
「屋根の修理もあるし、退院後の支援についてソーシャルワーカーと相談する必要がある」
ルークが笑う。しかしそれは馬鹿にしたものではなく、尊敬が込められていた。
「ベネットさんって、本当に患者さんのことをよく考えてますよね」
「そうかな?」
ルークは頷いた。そして真剣な顔つきになった。
「僕……時々、早く結果を出そうとしすぎるんです」
ルークは続けた。
「患者さんが歩けるようになると嬉しくて……。もっとできるんじゃないかって思っちゃう」
ノアは静かに頷いた。
「わかるよ。でも僕たちの仕事は、患者さんを早く歩かせることだけじゃないから」
ルークがより一層真剣な眼差しをノアに向ける。
「その人が退院してからどう暮らすか。何をしたいか。そこまで考える必要があると思う」
ノアは微笑んだ。
「焦らなくていいよ」
ルークはホッとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます」
午後5時。ノアが病院を出ると、駐車場の端に黒いセダンが停まっていた。車のそばにはマーティン・クーパーが立っていた。
ノアは足を止めた。クーパーが顔を上げた。
「ベネットさん」
ノアは軽く会釈した。
「こんにちは」
クーパーは微笑んだ。
「ちょうどよかった。少し話せるか?」
ノアは少しだけ周囲を見た。
「仕事の件ですか?」
クーパーは否定した。
「いや個人的な話だ」
ノアはしばらく黙ってから静かに言った。
「何でしょう?」
「君、以前は東海岸のほうに住んでいたことはないか?」
「あります」
クーパーは目を細めた。
「やっぱりな。俺も昔は向こうで仕事をしてたんだ」
「そうですか」
クーパーは少しだけ声を落とした。
「ある男を知ってる」
クーパーは続けた。
「名前はパトリック・オルーク」
ノアの表情は変わらなかった。だが彼の指先がほんの少しだけ動いた。クーパーはそれを見逃さなかった。
「知ってるか?」
ノアはしばらく黙っていた。静かに口を開く。
「その名前は聞いたことがありません」
「そうか」
ノアは彼を見た。
「それだけですか?」
クーパーは肩をすくめた。
「いや、すまない。人違いだったみたいだ」
ノアは静かに頷いた。
「では」
ノアはそう言い残すと歩き始めた。クーパーは背中を見送りながら小さく呟いた。
「嘘が下手だな……」
ノアは自分の車に乗り込んだ。ドアを閉める。エンジンをかける。しかしすぐには発進しなかった。
彼はハンドルに両手を置いたまま、しばらく動かなかった。
パトリック・オルーク。
その名前を最後に聞いたのはいつだっただろう。
ノアはゆっくりと息を吐いて目を閉じた。暗い記憶が頭によみがえってくる。嫌な記憶……忘れたくても忘れられない。また否定的なことが頭をよぎる。けれど彼はそれを押し戻した。
「今は考えるな」
ノアは静かに目を開けて車を発進させた。
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