トラウマは消えず……
怖いもの、苦手なものってなかなか克服は難しいですよね。
10月最後の金曜日。ウォルター・ミラーは、朝からひどく機嫌が悪かった。
「まったく、何を考えてるんだ。あの男は!」
店の奥から聞こえてきた怒鳴り声に、エリンは思わず足を止めた。マーサがレジカウンターから顔を上げる。
「あら、エリン。おはよう」
「おはようございます。ウォルターさん、どうかしたんですか?」
「放っておきなさい。朝から町議会に腹を立ててるのよ」
「町議会?」
「旧製紙工場の土地を売る話。昨夜の集会で揉めたんですって」
エリンは窓の外を見た。町の北側には、操業を停止して久しい製紙工場がある。錆びた煙突と赤茶けた建物は町のどこからでも見えた。
ウォルターが店の奥から出てきた。
「聞いてくれよ、エリン!」
「おはようございます」
「おはよう。工場跡地を開発する会社が、年内に調査を始めるって言うんだ」
「いいことじゃないんですか?」
「仕事が増えるならな。だがあいつらは何を造るかもはっきり言わない」
マーサが腕を組んだ。
「あなた、また会議で怒鳴ったんでしょう」
「怒鳴ってない!」
「今の声が、その証拠よ」
エリンは笑いをこらえた。ウォルターは不服そうだったが、やがて肩をすくめた。
「まあいい。コーヒーでも飲んでいきなさい」
「ありがとうございます。でも今日は早番なので」
「そうか。じゃあこれを持っていけ」
彼はカウンターに置かれた紙袋を差し出した。中には焼きたてのマフィンが2つ入っていた。
「マーサが焼いたんだ」
「あなたが1つ焦がしたから、焼き直したのよ」
「焦げ目も味のうちだ」
「炭の味でしょう」
エリンはとうとう笑ってしまった。この夫婦の言い争いは、いつも最後には笑い話になる。
かつてのエリンには、そんなことが信じられなかった。誰かが声を荒らげれば、次には物が飛んでくる。相手の機嫌を損ねないよう、言葉を選び顔色をうかがう。そういう毎日を過ごしてきた。
だがウォルターが怒鳴っても、マーサは怯えない。腹が立てば言い返すし、意見が違えば譲らない。それでも2人は、互いを大切にしている。
エリンは紙袋を受け取った。
「ありがとうございます。お2人とも、よい1日を」
「エリン」
マーサが呼び止めた。
「日曜日の夕方、空いてる?」
「ええ。何かあるんですか?」
「ハロウィンよ。店の前で子供たちにお菓子を配るの。手伝ってくれると助かるわ」
エリンは微笑んだ。
「もちろんです」
「ノアも誘ってちょうだい」
ウォルターが口を挟んだ。
「おお、そうだ。ノアには大事な仕事がある」
「何ですか?」
「去年買った、あの馬鹿でかいカボチャを運んでもらう」
マーサは呆れた。
「去年のカボチャは、とっくに腐ったでしょう」
「今年も買うんだよ」
「だったら最初から小さいのにしなさい」
エリンはまた笑った。
その日の病院は朝から慌ただしかった。救急外来には、交通事故で負傷した男性が搬送され、病棟では退院予定の患者が2人、検査結果を待っていた。エリンがナースステーションで記録を整理していると、エミリーが近づいてきた。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「来月新しいリハビリ機器が入るんだって」
「そうなの?」
「歩行訓練用の機械。昨日業者が下見に来たらしいわ」
エリンは頷いた。
「患者さんの選択肢が増えるならいいね」
「そうね。でもうちの病院に置く場所があるのかしら」
「リハビリ室、もういっぱいだものね」
そこへノアが現れた。
「おはよう」
エミリーは振り返った。
「噂をすれば!」
ノアは首を傾げた。
「何の話?」
「新しい機械が入るんでしょう?」
「ああ、そのことか」
ノアは頷いた。
「まだ導入が決まったわけじゃないけどね。来月メーカーの担当者が説明に来る予定なんだ」
「便利になる?」
エリンが尋ねると、ノアは少し考えた。
「患者さんによっては、かなり役に立つと思う。ただ機械を使えば誰でも早く歩けるようになるというものじゃないから」
エミリーは笑った。
「いかにもノアらしい答えね」
「そう?」
「新しい機械が入るっていうのに、全然浮かれてない」
ノアは苦笑した。
「期待はしてるよ。でも患者さんに合うかどうかが先だから」
エリンは彼の横顔を見た。こういうところが好きなのだと思った。流行や評判より目の前の人間を見る。何ができるかを考え、できないことも正直に伝える。そんなノアの仕事ぶりをエリンは何度も見てきた。そのときスーザンが声をかけた。
「エリン、208号室の患者さんをお願い」
「はい」
エリンは立ち上がった。ノアも時計を見た。
「僕も行かないと」
エミリーが手を振った。
「はいはい。お2人とも、お仕事頑張って」
エリンは振り返った。
「エミリーもね」
「私はいつだって頑張ってるわよ。なんでこんなに頑張っているエミリーちゃんに彼氏がいないんだか……」
その言葉にノアが笑った。
午後2時過ぎ。病院の正面玄関に、1人の男が現れた。40代半ばくらいだろうか。濃いグレーのスーツを着て、黒い革の鞄を持っている。髪はきれいに撫でつけられ、靴もよく磨かれていた。
男は受付で何かを尋ねたあと、ロビーの椅子に腰掛けた。それだけなら特に目立つところはなかった。だが彼は何度も時計を確認し、玄関から入ってくる人々を注意深く見ていた。やがて廊下を歩いてきたノアの姿を見つけた。
男は立ち上がった。
「ベネット?」
ノアは足を止めた。
「はい?」
男は少しだけ目を細めた。
「ノア・ベネットだな?」
ノアは相手の顔を見た。
「そうですが……」
男は笑った。
「やっぱりそうか」
そして右手を差し出した。
「マーティン・クーパーだ。覚えてるか?」
ノアは男の顔をもう一度見た。
「すみません……。どちらでお会いしましたか?」
男は苦笑した。
「無理もない。もう何年も前だからな」
そして名刺を取り出した。
「クーパー建設。今はここの開発計画に関わってる」
ノアは名刺を受け取った。
「建設会社の方ですか」
「ああ。以前、別の町で仕事をしていたときに……君によく似た男を見かけたことがあってね」
「そうですか」
男は笑った。
「いや、すまない。人違いだったかもしれない」
「いえ」
ノアは名刺を返そうとしたが、男は手を振った。
「持っていてくれ。工場跡地の開発でこの病院とも付き合いができるかもしれない」
ノアは頷いた。
「わかりました」
男はもう一度ノアを見た。
「しかし本当によく似てるな……」
ノアは答えなかった。
男は笑った。
「失礼したね」
そう言って玄関へ向かった。ノアはその背中をしばらく見送ってから名刺をポケットにしまった。そして何事もなかったように歩き始めた。
午後4時。エリンは208号室の患者の点滴を確認していた。患者は60代の男性で、肺炎の治療を受けていた。
「今日は少し楽ですか?」
エリンが尋ねると男性は頷いた。
「ああ。昨日より息がしやすい」
「よかったです」
エリンは微笑んだ。
「でもまだ無理はしないでくださいね」
「わかってるよ」
男性は笑った。
「看護師さんには逆らえないな」
エリンも笑った。そのとき、廊下から大きな声が聞こえた。
「だから俺は何も悪くないって言ってるだろ!」
エリンは思わず身体を強張らせた。声はナースステーションの方向から聞こえていた。男性患者が表情を曇らせる。
「何だ? 騒がしいな」
エリンはゆっくりと息を吸った。
「ちょっと確認してきますね」
廊下に出ると、1人の男性が受付カウンターの前で怒鳴っていた。どうやら面会時間を過ぎていることに腹を立てているらしい。スーザンが落ち着いた声で説明していた。
「お気持ちはわかりますが、今日はもう面会時間が終わっています」
「5分くらいいいだろう!」
男はカウンターを叩いた。大きな音が響いた。
エリンは足を止めた。胸が急に苦しくなった。視界の端が少し暗くなる。あの声。あの音。怒鳴る男。叩かれる家具。かつての記憶が突然よみがえった。
エリンは、壁に手をついた。
「大丈夫」
そう思おうとした。だが呼吸が浅くなった。そのとき……
「エリン?」
背後から声がした。振り返るとノアが立っていた。彼はエリンの顔を見ると、すぐに表情を変えた。
「大丈夫?」
エリンは何とか頷いた。
「……うん」
ノアは少しだけ周囲を見た。そして静かに言った。
「ここ、少し離れようか」
エリンは首を振りかけた。仕事中だ。自分にはやるべきことがある。けれどノアは続けた。
「無理に動かなくてもいいよ。スーザンさんが対応してる」
エリンは彼を見た。ノアは手を差し出さなかった。ただ彼女の返事を待っていた。エリンはゆっくりと息を吐いた。
「少しだけ……」
ノアは頷いた。
「うん」
2人は廊下の奥にある小さな休憩スペースへ向かった。窓際の椅子に腰を下ろすと、エリンは両手を膝の上に置いた。指先が少し震えていた。ノアは隣の椅子に座った。
「水、飲む?」
エリンは頷いた。
「……お願い」
ノアは紙コップに水を汲み彼女に渡した。エリンはゆっくりと飲んだ。しばらく2人は黙っていた。やがてエリンが言った。
「ごめん……」
ノアは首を振った。
「謝らなくていいよ」
エリンが自虐的に笑った。
「また、こうなっちゃった……」
「うん」
エリンは驚いた。以前のノアなら、すぐに「大丈夫だよ」と言ってくれただろう。でも今日は違った。ノアは彼女の言葉を否定しなかった。エリンはゆっくりと息を吸った。
「悔しいな……前よりずっと平気になったと思ってたのに」
ノアは少し考えてから慎重に言葉を選ぶ。
「怖いものは、怖いんだと思う。でも今日は自分でここまで歩いてきた」
ノアが続ける。
「水も飲めたし、今は少し落ち着いてる。それも本当のことだよ」
エリンはゆっくりと頷いた。
「うん……」
ノアは少しだけ微笑んだ。
「それに怖くなったからって、今まで頑張ってきたことがなくなるわけじゃない」
エリンはしばらく黙っていたが、少し口を尖らせて言った。
「ノア。あなた、時々ずるいよね」
意外な言葉にノアは驚いた。
「え?」
エリンは微笑んだ。
「私が一番聞きたいことを、ちゃんと言ってくれるから」
ノアは少し困ったように笑った。
「そうかな?」
エリンは頷いた。
「うん!」
そしてゆっくりと手を伸ばした。ノアの手にそっと触れる。ノアは優しく握り返した。
10分ほど経った頃、エリンは立ち上がった。
「もう大丈夫」
「そう?」
「うん」
「仕事に戻らないと」
ノアは頷いた。
「わかった」
エリンは彼を見た。
「ありがとう」
ノアは微笑んだ。
「どういたしまして」
そして少し考えた。
「エリン。今日のこと、スーザンさんにも伝えておいたほうがいいと思う」
エリンは少し驚いた。
「どうして?」
ノアは穏やかに答えた。
「また同じようなことがあったとき、誰かが気づけるように」
エリンは少し考えた。そして頷いた。
「そうだね」
ノアは微笑んだ。
「うん」
2人は廊下へ戻った。
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