守ること、尊重すること
大事にすればいいってものでもありません。難しいですね。
午前11時。一行は別の住宅へ移動した。そこでは窓ガラスが割れ、室内に雨が吹き込んでいた。住人の女性が困った顔で立っていた。
「本当にすみませんねえ」
エリンは微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
ノアは消防団員と一緒に割れたガラスの周囲を確認した。
「ここは、まだ破片が残っていますね」
消防団員が頷いた。
「ええ。まずは安全を確保しましょう」
ノアは近くにいたエリンに声をかけた。
「エリン、少し下がってて」
エリンは頷いた。
「わかった」
作業が始まった。割れたガラスを慎重に取り除き、窓枠に応急用の板を取りつける。エリンは住人の女性と一緒に、濡れた家具を移動させていた。そのときだった。
「あっ!」
女性が声を上げた。エリンが振り返ると、床に置かれていた小さな棚が傾いた。棚の上には古い写真立てが並んでいた。
エリンはとっさに手を伸ばした。写真立てを受け止める。しかしその拍子に足元の濡れた床で滑り、身体が傾いた。
「エリン!」
ノアの声が響いた。
次の瞬間、彼は彼女のそばにいた。腕を伸ばし身体を支える。エリンは何とか転ばずに済んだ。
「大丈夫?」
ノアが尋ねた。エリンは頷いた。
「うん。ありがとう」
ノアは彼女の足元を見た。
「滑りやすいから気をつけて」
「うん」
エリンは微笑んだ。しかしノアは心配そうな顔をしている。
「無理しないでね」
エリンは少し驚いた。そこまで心配するようなことだろうか?
「無理はしてないよ」
「でも危なかった」
エリンは少しだけ表情を曇らせた。
「わかってる……」
ノアは静かに頷いてから作業へ戻った。エリンはその背中を見つめた。胸の奥に小さな違和感が残った。
昼休み。ボランティアたちは、消防署に戻って昼食を取っていた。商工会が用意したサンドイッチとスープが配られていた。エミリーは紙皿を手にして言った。
「疲れた!」
エリンは笑った。
「まだ午後もあるよ」
「わかってるわよ」
エミリーはスープを一口飲んだ。そして少しだけ声を落とした。
「ねえ、エリン」
「何?」
「さっきノアと何かあった?」
エリンは驚いてエミリーを見る。
「どうして?」
「何となく……」
エリンは少し考えた。そして静かに言った。
「ちょっと、心配されすぎかなって……」
エミリーは頷いた。
「なるほど」
エリンは続けた。
「もちろん、助けてくれたのは嬉しかったんだけど……」
エミリーは黙って聞いていた。
「でも私だって、自分でできることはあるし」
エミリーは少しだけ笑った。
「言えばいいじゃない!」
エリンは彼女を見た。
「何を?」
「そのまま」
エミリーは肩をすくめた。
「ノアならちゃんと聞いてくれると思うけど」
エリンは、少し考えた。そして静かに頷いた。
「そうね」
エミリーは微笑んだ。
「恋人になったからって、何でもわかり合えるわけじゃないもの」
エミリーは続けた。
「むしろ、これからじゃない?」
エリンは少しだけ笑った。
「そうかもしれない」
午後の作業が終わったのは、16時を少し過ぎた頃だった。ボランティアたちは消防署の前で解散した。
エミリーは大きく伸びをした。
「こりゃ明日は筋肉痛ね」
エリンは笑った。
「私も」
ノアも微笑んだ。
「お疲れさま」
エミリーは2人を見て、にやりと笑った。
「じゃあ私は先に帰るわね」
エリンは少し驚いた。
「一緒に帰らないの?」
エミリーは首を振った。
「ちょっと寄るところがあるの」
そして小声で言った。
「ちゃんと2人で話しなさい」
エリンは顔が赤くなった。
「エミリー!」
エミリーは笑いながら去っていった。
エリンとノアは消防署の駐車場に並んで立っていた。夕方の空には薄い雲が広がっていた。エリンは逡巡しながらも言葉を発した。
「ノア、今日のことなんだけど……」
エリンは静かに言った。
「助けてくれて、ありがとう」
ノアは微笑んだ。
「でもね……」
ノアの表情が少しだけ変わる。エリンはゆっくりと言葉を選んだ。
「私、自分でできることは自分でやりたいの」
ノアは黙って聞いていた。
「もちろん危ないときに助けてもらえるのは嬉しい」
エリンはまっすぐ彼を見た。
「でも何でも先回りして守ろうとされると、少しだけ苦しくなる」
ノアはしばらく何も言わなかった。そして静かに頷いた。
「ごめん……」
エリンは首を振った。
「謝ってほしいわけじゃないの」
エリンが続けた。
「ただ知っておいてほしかった」
ノアはゆっくりと頷いた。
「僕、心配しすぎたね……」
エリンはクスリと笑った。
「ちょっとだけ」
ノアも苦笑した。
「そうか……」
エリンは彼の手を握った。
「でも嬉しかったよ。私のこと、大切に思ってくれてるんだってわかったから」
ノアは静かに頷いた。
「これからはちゃんと聞くようにする」
エリンは微笑んだ。
「ありがとう」
ノアは少し考えた。そして静かに言った。
「エリン、僕も1つお願いしていい?」
ノアは少しだけ俯いた。
「危ないと思ったときは、ちゃんと言ってほしい」
ノアは続けた。
「無理して大丈夫って言わなくてもいいから」
エリンはしばらく考えてからゆっくりと頷いた。
「うん」
ノアは微笑んだ。
「ありがとう」
エリンも微笑んだ。
「こちらこそ」
2人は手を繋いだまま、しばらく立っていた。
その夜。エリンは居間で、今日のことを思い返していた。
ノアと初めて少しだけ意見がぶつかった。それなのに不思議と嫌な気持ちは残っていなかった。むしろ安心していた。
自分の気持ちを伝えた。ノアはちゃんと聞いてくれた。怒らなかった。責めなかった。そして自分の気持ちも話してくれた。
エリンは、静かに微笑んだ。
「こういうことなんだ」
「誰かと一緒に生きていくということは」
「何でも同じように考えることではない」
「違う気持ちを持っていても話し合えること」
エリンはゆっくりと目を閉じた。ノアを好きになってよかったと心から感じていた。
同じ頃。ノアはキッチンで夕食の準備をしていた。包丁を手にしながら、今日のエリンの言葉を思い返していた。
「私、自分でできることは、自分でやりたいの」
ノアは静かに息を吐いた。自分は彼女を守りたいと思っていた。だけど守ることと、相手の意思を尊重することは同じではない。ノアは少し考えた。そして静かに頷いた。
「エリンは強い人だ」
「傷ついた過去があっても、自分の足で立とうとしている」
「自分がその歩みを妨げてはいけない」
ノアは包丁を置いた。そして、ふと自分の手を見た。大きな手。傷の残る手。エリンが大好きだと言ってくれた手。ノアはしばらくその手を見つめていた。
そして静かに呟いた。
「大切にしないと……」
ノアは再び料理を始めた。窓の外には秋の夜が広がっていた。
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