10月の雨の日
グレース・ウィルソンはキャシー・ベイツさんでお願いします。
10月の第3木曜日。午前6時40分。エリン・ウォーカーは、激しい雨音で目を覚ました。
寝室の窓を叩く雨粒が、ひっきりなしにガラスを震わせている。外はまだ薄暗く、庭の木が強い風に揺れていた。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。隣家のゴミ箱が横倒しになり、蓋が道路を転がっていった。
「ひどい天気……」
テレビをつけると、地元のニュース番組が暴風雨への警戒を呼びかけていた。今夜にかけて、さらに雨が強くなるという。
エリンは携帯電話を手に取った。ノアからメッセージが届いていた。
「おはよう。今日は道路が滑りやすそうだから気をつけて」
ノアの気遣いにエリンは微笑んだ。
「おはよう。ノアも気をつけてね」
少し考えてから、もう1行加えた。
「ちゃんと朝ご飯を食べること!」
返信はすぐに来た。
「もう食べたよ。トーストと卵」
「野菜は?」
少し間が空いた。
「トマトを1切れ」
エリンは画面を見て吹き出した。
「ヌクミズ先生に言いつけようかな」
「それは勘弁して!」
雨音の中でエリンはしばらく笑っていた。
午前8時15分。病院の正面玄関には、濡れた傘を持った人々が次々と入ってきていた。エリンが病棟に着くと、主任看護師のスーザン・ハリスが電話を切ったところだった。
「エリン、ちょうどよかった」
「何かありましたか?」
「北側の道路が一部冠水しているそうよ。午後から交通規制が入るかもしれない」
スーザンは勤務表を確認した。
「夜勤のスタッフが予定どおり来られるかわからないの。今日は少し忙しくなると思って」
「わかりました」
エリンは制服の袖を整えた。
「何から始めましょう?」
「まず、214号室のグレース・ウィルソンさんをお願い」
「はい」
「昨夜から、少し落ち着かない様子なの」
グレース・ウィルソンは78歳。自宅で転倒し、大腿骨近位部を骨折して手術を受けたばかりだった。夫に先立たれて5年。現在は一人暮らしをしている。
エリンは記録を確認した。夜間、何度もナースコールを押していた。理由は「トイレに行きたい」「毛布が欲しい」「水が飲みたい」とさまざまだった。ただどの用事も看護師が病室へ行く頃には必要なくなっていることが多かった。
エリンは病室のドアをノックした。
「ウィルソンさん、おはようございます」
ベッドの上で小柄な女性が顔を向けた。
「ああ、エリンさん」
「昨夜はあまり眠れなかったそうですね」
グレースは窓の外を見た。
「雨がうるさくてね……」
「すごい雨ですものね」
エリンは椅子に腰掛けた。
「何か気になることはありますか?」
グレースはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「家が心配なの」
「ご自宅ですか?」
「ええ」
グレースは頷いた。
「古い家でね。屋根を直さなきゃいけないと思ってたんだけど、つい後回しにしてしまって」
エリンは静かに聞いていた。
「こんな雨でしょう。雨漏りしてるんじゃないかって」
「そうだったんですね」
「それに猫もいるの」
エリンは少し驚いた。
「猫を飼っていらっしゃるんですか?」
「ミスティっていうのよ。灰色の気の強い猫」
グレースは少し笑った。
「近所の人がご飯をあげに来てくれてるんだけど……。あの子、私以外にはあまり懐かなくて」
「心配ですね」
グレースはゆっくりと息を吐いた。
「こんなところで寝てる場合じゃないのに……」
エリンは少し考えた。
「ご近所の方に連絡してみましょうか?」
グレースはが顔を上げた。
「いいの?」
「ええ。今のうちに様子を確認できれば、少し安心できるんじゃないですか?」
グレースは見るからに安堵した様子であった。
「ありがとう」
エリンは連絡を取ることを約束して病室を出た。
廊下に出ると、ちょうどノアが歩いてきた。
「おはよう、エリン」
「おはよう」
ノアは彼女の顔を見た。
「忙しそうだね」
「今日は朝からいろいろあって」
エリンはグレースのことを簡単に説明した。ノアは頷いた。
「ウィルソンさん、今日の午後に初回の歩行評価をする予定なんだ」
「そうなの?」
「うん。術後の状態が安定していれば、少しずつ立つ練習を始めたい」
エリンは少し考えた。
「ノア」
「うん?」
「ウィルソンさん、家のことがすごく心配みたい」
「家?」
「雨漏りと飼ってる猫のこと」
エリンは続けた。
「だからリハビリのときも、少し不安が強いかもしれない」
「わかった。ありがとう」
「よろしくね」
2人はそれぞれの仕事へ戻った。
正午を過ぎた頃、雨はさらに強くなった。病院の窓には横殴りの雨が叩きつけられていた。廊下では濡れた床を拭く清掃スタッフが忙しく動いていた。
午後1時。スーザンがナースステーションにやって来た。
「エリン、ちょっといい?」
「はい」
「ウィルソンさんの件なんだけど」
エリンは顔を上げた。
「何かありましたか?」
「ご近所の方から折り返しの連絡があったそうよ」
エリンは少し安心した。
「お家は大丈夫でしたか?」
スーザンは少しだけ表情を曇らせた。
「それが……」
エリンは胸がざわついた。
「何かありましたか?」
「屋根の一部が壊れて、雨漏りしているらしいの」
エリンは息を呑んだ。
「猫は無事で、近所の方が預かってくれているそうよ」
少しだけホッとするエリン。
「それはよかったです」
スーザンは頷いた。
「ただ、ウィルソンさんには、まだ詳しく話していないの」
「私からお話ししましょうか」
「お願い」
エリンが病室に入ると、グレースは窓の外を見つめていた。
「エリンさん、何かわかった?」
エリンは椅子に腰掛けた。落ち着いた口調で現状を報告する。
「ご近所の方から連絡がありました」
グレースは少し身を乗り出した。
「家は?」
「屋根の一部が壊れて、雨漏りしているそうです」
グレースは顔を曇らせた。エリンは続けた。
「でもミスティは無事です。ご近所の方が預かってくださっています」
グレースは少しだけ安心したように息を吐いた。しばらく何かを考えていたようだったが、少しして口を開いた。
「帰らなきゃ」
エリンは彼女を見た。
「家が壊れちゃう……」
グレースは少し声を震わせた。
「夫が建ててくれた家なの」
エリンは黙って聞いていた。
「若い頃、2人で少しずつ直してね。壁も塗り直して庭も作って……」
グレースの目に涙が浮かんだ。
「あの人がいなくなってから、私が守ってきたのに……」
グレースが涙を拭った。
「ここにいたら何もできない」
エリンは落ち着かせるように穏やかな口調で話した。
「ウィルソンさん。今はまずお身体を治すことが大切です」
「でも……」
「お家のことは私たちも一緒に考えます」
グレースは驚いた顔で彼女を見た。この看護師は治療のことだけではなく、自分の生活も心配してくれている。
「ご近所の方やご家族、それから町の支援制度もあるかもしれません」
グレースは小さく頷いた。
「そうね……」
エリンは静かに微笑んだ。
「1人で全部、何とかしようとしなくてもいいんですよ」
「ありがとう」
午後3時。ノアはグレースの病室を訪れた。
「こんにちは、ウィルソンさん」
グレースは少し疲れた顔をしていた。礼儀正しい彼女から挨拶が返ってこない。ノアはベッドの横に椅子を寄せた。
「今日は少し立つ練習をしてみようと思うんですが」
グレースは首を振った。
「今日はやめておくわ。そんな気になれなくて……」
ノアは静かに頷いた。
「そうですか」
「ごめんなさいね」
「謝らなくていいですよ」
ノアは微笑んだ。
「何か気になることがありますか?」
「家が壊れちゃうの……」
事前にエリンから事情は聞いていたが、ノアは改めてグレースから話を聞く。
グレースは、まず屋根のことを話した。それから夫のこと。庭のこと。猫のこと。家を守ってきた年月のこと。これらを一気に話した。
途中で口を挟まずノアは黙って聞いていた。
「大切なお家なんですね」
「ええ」
ノアは少し考えてから穏やかに言った。
「ウィルソンさん」
「何かしら?」
「お家に帰るために、今できることを一緒に考えませんか?」
ノアは続けた。
「今日、無理に歩く必要はありません」
少し間を置いた。
「でも少しずつ身体を動かせるようになれば、その分だけ早く安全に帰れるようになります」
グレースはしばらく考えた。そして小さく頷いた。
「そうね」
ノアは微笑んだ。
「じゃあ、今日はベッドの上でできる運動から始めましょうか」
グレースは少しだけ笑った。
「それなら、できそう……」
ノアも笑った。
「よかった」
夕方5時。病院の外は、さらに暗くなっていた。雨が弱まる気配はなかった。スーザンがナースステーションにやって来た。
「エリン」
「はい」
「夜勤のスタッフが2人、来られなくなったわ」
予想の範囲内だったので、エリンは驚かなかった。
「道路の冠水ですか?」
「ええ」
スーザンは少し疲れた顔をしていた。
「他のスタッフにも連絡しているけど、すぐには難しそうなの」
エリンは力強く言った。
「私、残れます」
「いいの?」
エリンはしっかりと頷いた。
「はい。今日は特に予定もありませんから」
スーザンは安心したように笑った。
「助かるわ」
エリンは微笑んだ。
「大丈夫です」
スーザンは両手でエリンの手を握りながらお礼を言った。
「ありがとう」
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