これからのこと
将来のことを考え始める2人。
10月の最初の土曜日。エリン・ウォーカーは、マーサ・ミラーの店で、2種類のジャムを見比べていた。ブルーベリーとラズベリー。どちらもマーサの手作りで、瓶には小さな布がかぶせられている。
「ノアはどっちが好きかな」
何気なく口にした言葉だった。
「あら、ノアにあげるの?」
振り返るとマーサが立っていた。エリンは少し笑った。
「だったら、ブルーベリーにしなさい」
「どうして?」
「この前うちで食べたとき、ブルーベリーのパイをおかわりしてたから」
エリンは少し驚いた。
「覚えてるんですか?」
マーサは胸を張った。
「お客さんの好みを覚えるのは、客商売をやってる人間の基本でしょう?」
エリンは笑った。
「なるほど」
マーサはブルーベリーの瓶を手に取りエリンに渡した。
「はい」
「ありがとうございます」
エリンが財布を出そうとすると、マーサは首を振った。
「いいわよ」
「でも」
「お祝いだから」
エリンは、少し驚いた。
「お祝い?」
マーサは、にっこり笑った。
「ノアと恋人になったんでしょう?」
エリンは耳まで真っ赤になった。
「どうして知ってるんですか?」
マーサは何でもないことのように答えた。
「エミリーが教えてくれたわ」
エリンがため息をつくと、マーサは声を上げて笑った。
「いいじゃない。嬉しいことなんだから」
「ありがとうございます」
マーサは彼女の肩を軽く叩いた。
「幸せになりなさいね」
エリンは静かに微笑んだ。
「はい」
その日の午後。エリンはノアの家を訪れた。玄関のベルを押すと、すぐにノアが扉を開けた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
エリンは紙袋を差し出した。
「これマーサさんから」
ノアは少し驚いた。
「ジャム」
エリンは笑った。
「ブルーベリーが好きなんでしょう?」
ノアは目を丸くした。
「どうして知ってるの?」
「マーサさんが覚えてたの」
ノアがマーサの記憶力に感心する。
「すごいな……」
エリンが笑った。
「本当にね」
ノアはお礼を言って紙袋を受け取りながら、エリンを家に招き入れた。
居間のテーブルには2冊の本が置かれていた。1冊は医学書。もう1冊はエリンが前回貸した小説だった。
エリンは、少し驚いた。
「もう読んだの?」
「うん」
「どうだった?」
「面白かった」
エリンは笑った。
「それだけ?」
「感想を言うのは、あまり得意じゃないんだ」
「じゃあ、好きだったところを教えて」
ノアは少し考える。返答を返す前に見せる思慮深さ。こうしたところもエリンは大好きだった。
「主人公が最後に故郷へ帰るところ」
「どうして?」
ノアは少し視線を落とした。
「帰る場所があるって、いいなと思って」
照れくさそうに笑うノア。
「変かな?」
エリンは首を振った。
「私もあそこが好き」
「そう?」
「主人公がやっと自分の居場所を見つけた気がして」
ノアは静かに頷いた。
「そうだね」
エリンは彼を見つめた。ノアにも帰る場所があるのだろうか。この家はきれいに片づいている。落ち着いた雰囲気もある。だがどこか仮住まいのようにも見えた。生活に必要なものは揃っているが、誰かと暮らしてきた痕跡がほとんどなかった。
「ノア、ここは好き?」
「この家?」
「うん」
ノアはしばらく考えた。
「好きだよ」
ノアは少しだけ笑った。
「静かだし、落ち着くから」
「1人でいるには?」
予想しないエリンの質問に少し驚くノア。意味を噛み締めながら苦笑する。
「そうかもしれない」
「じゃあ、これからは」
エリンが静かに微笑んだ。
「2人でいる場所にしてもいい?」
ノアは嬉しそうに表情を崩す。
「もちろん!」
夕方。2人は近所の公園まで散歩に出かけた。木々の葉は少しずつ赤や黄色に色づき始めていた。風は9月よりも冷たくなっていた。
エリンはノアの手を握っていた。ノアも優しく握り返していた。
しばらく歩いたところでエリンが言った。
「最近、すごく幸せなの」
微笑を返すノア。
「そうなの?」
エリンは頷いた。
「うん。自分でもびっくりするくらい」
エリンが続ける。
「この町に来たときは、もう誰かを好きになることなんてないと思ってた」
ノアは静かに頷いた。当時のエリンがどのような気持ちだったかを想像しているのか、少し悲しそうな表情をしている。
「でも今は違う」
エリンは彼を見て笑顔になる。
「ノアが一緒にいてくれて楽しい」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「僕も……」
「それにね……前より自分のことが好きになれた気がする」
「そうなんだ」
エリンは頷いた。そして静かに続けた。
「前は何か悪いことがあると、全部自分のせいだと思ってた」
ノアは黙って聞いていた。
「でも最近はそうじゃないって思えるようになった」
エリンは彼をまっすぐ見た。
「ノアがそう言ってくれたから……」
そう言うとエリンは、静かに微笑んだ。
「ありがとう……」
ノアはゆっくりと首を振った。
「僕は何もしてないよ」
「そんなことない! ノアがいてくれたから、今の私がいるんだよ」
ノアは胸の奥が温かくなった。そしてゆっくりと顔を上げた。
「エリン。僕も君に助けられてるんだ…………」
エリンは少し驚いた。
「そうなの?」
「君といると、普通のことが嬉しくなる」
ノアは愛おしそうに言葉を紡ぐ。
「一緒に食事をしたり、散歩をしたり」
少しだけ笑った。
「本の話をしたり」
エリンも笑った。
「そういう時間が好きなんだ」
「私も!」
2人は手を繋いだまま、ゆっくりと歩いた。公園の奥には小さな池があった。水面には色づいた葉が浮かんでいた。エリンは足を止めた。しばらく2人は黙って景色を眺めていた。
やがてエリンが言った。
「1つ訊いてもいい?」
ノアは頷いた。エリンは少し迷いながら、勇気を出して言った。
「私たちこれからどうなるのかな?」
ノアの動きが完全に止まったのを見て、エリンは慌てて続けた。
「ごめん! 変なこと聞いて」
ノアは首を振った。エリンは少しだけ視線を落とした。
「ただ……」
言葉を探した。
「今が幸せだから、これからのことも考えちゃうの」
エリンは続ける。
「ずっと一緒にいられたらいいなって……」
ノアはゆっくりと息を吸った。
「僕も……そう思ってる」
そこで少し間を置いた。
「でも……」
エリンは彼を見た。
「でも?」
ノアは少しだけ視線を落とした。
「僕にはまだ話せていないことがある」
エリンは静かに頷いた。
「そうだね」
ノアは続けた。
「それが君を傷つけることになるかもしれない……だから怖いんだ」
エリンはノアの気持ちが痛かった。そして嬉しかった。真剣に自分のことを考えてくれているのが。
「ノア……私も怖いよ」
エリンは続けた。
「また誰かを好きになることが」
少し間を置いた。
「また傷つくかもしれないことが」
ノアは黙って聞いていた。エリンは静かに微笑む。
「でもね……怖いからって何もしなかったら。何も始まらないでしょう?」
エリンは彼の手を握り直した。
「だから私は少しずつ進みたい」
エリンは静かに続けた。
「ノアと一緒に」
ノアはゆっくりと頷いた。
「うん」
そして静かに微笑んだ。
「僕も」
帰り道。2人は手を繋いだまま歩いていた。夕日が木々の間から差し込んでいた。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「今度の休み、何かしたいことある?」
ノアは少し考えた。
「ノアがやりたいことなら何でもいいよ」
エリンの言葉にノアは小さく笑った。
「じゃあ……一緒に料理を作らない?」
「料理?」
「うん。今度は2人で」
エリンが嬉しそうに笑った。
「いいね!」
エリンは少し考えた。
「何を作ろうか?」
「あまり難しくないものがいいな」
エリンは笑った。
「じゃあパスタは?」
「それならできそう」
「決まりね」
その夜。エリンはキッチンでノアと作る料理のことを考えていた。
パスタ。サラダ。それからデザート。何を作ろうか。どんな材料を買おうか。そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。
以前なら誰かと一緒に料理をすることなど考えられなかった。でも今はその時間が楽しみだった。
エリンは静かに微笑んだ。そしてぼんやりと思った。
「いつかノアと同じ家で暮らす日が来るのだろうか」
「朝一緒に起きる」
「仕事へ行く」
「夜帰ってきて一緒に食事をする」
「そんな日々が、いつか」
エリンは頬を赤くした。
「まだ早いよね」
そう思いながらも笑みがこぼれた。
同じ頃。ノアは居間でソファに座っていた。テーブルにはエリンが貸してくれた小説が置かれていた。主人公が長い旅の末に故郷へ帰る物語。
ノアは最後のページを開いて静かに読み返した。
帰る場所がある。待っている人がいる。それはどんな気持ちなのだろう? 以前はそんなことを考えなかった。
エリンの顔が頭に浮かんだ。
彼女と一緒に食事をする。
散歩をする。
本の話をする。
そんなごく普通のこと。
ノアはゆっくりと目を閉じた。いつものように否定的な考えが首をもたげる。頭を振って、それらを考えないようにした。
ノアはもう一度小説を見た。そして静かに呟いた。
「帰る場所……か」
その言葉が胸に残った。
彼はゆっくりと本を閉じ窓の外を見た。夜空には星が浮かんでいた。
ノアはしばらくその星を見つめていた。やがて小さく呟いた。
「僕にもできるのかな?」
誰もいない部屋にその声が響いた。答えはなかった。
その夜、ノアは初めて誰かと一緒に暮らす未来を少しだけ想像していた。
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