恋人という名前
ノアとエリンがついに!
土曜日。エリンとノアは、町から車で30分ほど離れた湖へ出かけた。ノアが以前から気に入っている場所だという。
湖の周囲には遊歩道が整備され、木々の間から水面を眺めることができた。9月の空は高く、風には夏の名残があった。
エリンは車を降りると、思わず声を上げた。
「綺麗!」
ノアは微笑んだ。
「気に入ってもらえた?」
「うん。こんな場所があったんだね」
「休日にときどき来るんだ」
「1人で?」
「そうだね」
ノアは少し笑った。
「ここに来ると落ち着くんだ」
エリンは湖を見た。
「わかる気がする」
2人は並んで歩き始めた。釣りをする人。犬を散歩させる人。小さな子供を連れた家族。穏やかな休日の風景だった。
エリンはノアの手を握っていた。最初に手を繋いだ日から、まだそれほど時間は経っていなかった。それなのに今では自然なことのように感じられた。しばらく歩いたところでエリンが尋ねた。
「ノア、ここにはよく来るの?」
「うん」
「何をするの?」
「歩いたり、本を読んだり」
エリンは笑った。
「やっぱり本なんだ」
ノアも笑った。
「そうだね」
エリンは少し考えた。
「寂しくない?」
「寂しい?」
「うん。1人で来ると」
ノアはしばらく考えてから答える。
「あまり考えたことがなかった……」
ノアは続けた。
「1人でいるのが、普通だったから」
エリンの胸の奥がチクリとした。
「そうなんだ……」
ノアは微笑んだ。
「うん」
「じゃあ、これからは私も一緒に来ていい?」
エリンが少しだけ頬を赤くしながら質問する。ノアは足を止めた。エリンも立ち止まった。ノアはが彼女を見つめながら穏やかに答える。
「もちろん」
少し間を置いて付け加えた。
「一緒に来てくれたら嬉しい」
エリンは胸の奥が温かくなるのを感じた。
2人はまた歩き始めた。湖の反対側には小さな展望台があった。木製の階段を上ると、湖全体を見渡すことができた。エリンは手すりに寄りかかった。
「本当に綺麗」
しばらく二人は黙って景色を眺めていた。やがてエリンが口を開く。
「ノア」
「うん?」
「私ね……」
エリンは少しだけ息を吸った。
「あなたと一緒にいる時間がすごく好き」
エリンは続けた。
「仕事のときも、こうして出かけるときも」
正直な気持ちを打ち明けるエリン。
「何でもないことが楽しいの」
エリンは少し不安になった。
「変なこと言ったかな?」
ノアはゆっくりと首を振って微笑んだ。
「僕も同じだよ」
「本当に?」
「うん」
ノアは頷いた。
「エリンといると楽しい」
エリンは胸が高鳴るのを感じた。
ノアは少しだけ視線を落とした。そして静かに続けた。
「それにもっと一緒にいたいと思う」
ノアは少し困ったように笑った。
「変かな?」
今度はエリンがゆっくりと首を振った。
「嬉しい」
2人はしばらく黙っていた。湖面を渡る風が髪を揺らした。エリンはノアの手を握っていた。ノアも優しく握り返していた。切なく、甘く、優しい時間が流れていく。
やがてエリンが言った。
「ノア」
「うん?」
「1つ、訊いてもいい?」
「うん」
「私たちって、今どういう関係なんだろう?」
ノアが驚いた顔をしたので、エリンは慌てて続けた。
「ごめん! 変なこと聞いて……」
エリンは少しだけ視線を落とした。それから少し迷ったが、静かにしかしはっきりと言った。
「ただ……私、ノアのことが好きだから」
ノアは動かなかった。
「ちゃんと伝えておきたかったの」
ノアはしばらく何も言わなかった。胸が痛いくらい心臓が早くなっているのを感じるエリン。
怖かった。もし同じ気持ちではなかったら。もし今までの時間が自分だけにとって特別なものだったら。そんな不安が胸をよぎった。それでも目は逸らさなかった。
ノアはゆっくりと息を吸った。
「エリン」
「うん……」
「僕は君が好きだよ」
エリンは息を止めた。
「最初はただの仕事仲間だった」
少しだけノアが笑う。
「一緒に働いていて安心できる人だと思ってた」
エリンは黙って聞いていた。
「でも少しずつ……もっと話したいと思うようになった」「仕事が終わっても会いたいと思うようになった」
エリンの目に涙が浮かんだ。ノアは少し照れくさそうに笑った。
「それで気づいたんだ」
ノアは静かに言った。
「僕はエリンが好きなんだって」
エリンは笑いながら涙を拭った。
「ありがとうノア。本当にありがとう……」
ノアは優しく微笑んだ。だがその笑顔は長く続かなかった。エリンはその変化に気づいた。
「ノア?」
「でも……」
「でも?」
ノアは自分を落ち着かせるように、静かにゆっくりと言葉を発する。
「僕は君が思っているような人間じゃないかもしれない……」
エリンは何も言わなかった。
「僕には話せていないことがあるんだ……」
ノアは視線を落としたままだった。
「君が僕のことをいい人だと思ってくれているのは嬉しい」
少し間を置いた。
「でも僕がそれに応えられる人間なのかわからない」
エリンは静かに息を吐いて、ゆっくりと尋ねた。
「それは……私には話したくないこと?」
ノアが顔を上げた。
「そういうわけじゃない」
「じゃあ話せないこと?」
ノアはしばらく黙っていたが小さく頷いた。
「今は……」
エリンは彼を見つめた。彼の表情は苦しそうだった。
「ノア。私もまだ話していないことはあるよ」
ノアは少し驚いた顔をした。
「デレクのことだって全部話したわけじゃない」
ノアが沈黙する。
「話したくないこともあるし、思い出したくないこともある」
エリンはゆっくりと息を吸った。
「でもそれを話していないからって、今の私が嘘になるわけじゃないでしょう?」
エリンは静かに微笑んだ。
「私はそう思う」
エリンは続けた。
「もちろん、何も知らなくていいって言ってるわけじゃないよ」
ノアは少しだけ顔を上げた。
「もしこれから一緒に生きていくなら、話さなきゃいけないこともあると思う」
エリンは確かな意志を込めて言葉にする。
「でも今すぐ全部を話せなきゃ誰かを好きになっちゃいけないとは思わない」
エリンは黙り込む彼の手を握り直した。
「ノア、私は今まで一緒に過ごしてきたあなたを知ってる」
ノアは彼女を見た。
「患者さんのために一生懸命考えるところも」
エリンは微笑んだ。
「子供のために下手な猫の絵を描くところも」
ノアは小さく笑った。
「あれは……ひどかったね」
エリンも笑った。
「うん。ひどかった」
そして静かに続けた。
「私のために料理を何度も練習してくれたところも」
ノアが再び無言になる。
「そういうノアを私は好きになったの」
エリンは彼を見つめた。
「だから今のあなたを好きだっていう気持ちは嘘じゃないよ」
ノアは胸の奥が苦しかった。エリンの言葉は嬉しかった。けれど同時に痛かった。
彼女は何も知らない。自分がどんな人間だったのかを。
ノアは静かに息を吐いた。
「エリン」
「うん」
「僕は君を傷つけたくない」
エリンは静かに頷いた。
「うん」
ノアは続けた。
「君には幸せになってほしい」
エリンは少しだけ眉を寄せた。
「ノア」
「うん?」
「それは私も同じだよ」
エリンは静かに言った。
「私だってあなたに幸せになってほしい」
ノアは何も言わなかった。
「それにね……」
エリンは少しだけ笑った。
「私が誰と一緒にいたいかは、私が決めることだと思う」
エリンは力強くはっきりと言った。
「あなたが私を大切にしてくれるのは嬉しい。でも私の代わりに私の幸せを決めないで」
その言葉はノアの胸に深く届いた。エリンは表情を和らげて不安そうに尋ねる。
「ごめん。ちょっと偉そうだった?」
ノアはゆっくりと首を振った。
「君の言うとおりだと思う」
ノアはしばらく彼女を見つめていた。緊張していた。これほど緊張するのはいつ以来だったかもわからないほど。もしかしたら生まれてから、いちばん緊張しているのかもしれない。そしてゆっくりと息を吸った。
「エリン」
「うん」
「僕と付き合ってくれないかな?」
ノアは続けた。
「まだ話せていないことがある……」
少し間を置いた。
「でも君を大切にしたいという気持ちは本当なんだ」
エリンは何も言わなかった。というよりも何かが言える状態ではなかった。聞きたくて仕方なかった言葉……でも聞けないかもしれないと不安になっていた言葉。それが今ノアの口から出たのだから。
「それだけは信じてほしい」
エリンはゆっくりと頷いた。
「信じるよ……。信じる! 大好きな人が言っているんだもん」
ノアは彼女を見つめた。エリンは少しだけ息を吸った。そしてはっきりと言った。
「はい」
ノアは動かなかった。エリンが微笑んだ。
「よろしくお願いします」
ノアはしばらく何も言わなかった。そしてゆっくりと笑った。
「ありがとう」
エリンも笑った。
「こちらこそ」
2人は手を繋いだまま、しばらく立っていた。湖面を渡る風が静かに吹いていた。
帰り道。2人は車の中でラジオを聴いていた。窓の外には夕暮れの景色が広がっていた。エリンは助手席からノアを見た。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「さっきのことなんだけど……」
ノアは少し緊張したように顔を向けた。
「うん」
エリンは嬉しそうに笑った。
「私たち……恋人になったんだよね」
ノアもニッコリと笑った。
「そうだね」
エリンが楽しそうに頷く。
「エミリーに話したら、きっと大騒ぎするね」
ノアは苦笑した。
「そうだろうね」
エリンは笑った。
「ヌクミズ先生も」
ノアは少しだけ顔をしかめた。
「あの先生は、もっと大変そうだ」
エリンは声を上げて笑った。ノアも笑った。
2人の笑い声が車の中に響いた。
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