明日も
ノアとエリン、急接近です。
その日の夕方。エリンはリハビリテーション室の前でノアを待っていた。彼が出てくると、待ちきれなかったというように声をかけた。
「ノア!」
ノアは微笑んだ。
「どうしたの?」
「今日、時間ある?」
ノアは頷いた。
「じゃあ、少し歩かない?」
「いいよ」
2人は病院から少し離れた川沿いの遊歩道を歩いた。9月の夕方は、8月よりも少し涼しくなっていた。木々の葉はまだ緑色だったが、ところどころに黄色が混じり始めていた。
エリンはゆっくりと歩いていた。ノアはその隣を歩いていた。しばらくしてエリンが言った。
「ロバートさん、よかったね」
ノアは頷いた。
「これからが大事だけど」
そこから2人は、しばらく黙って歩いた。無言の時間さえも心地よかった。
やがてエリンが言った。
「私ね、最近少し考えることがあるの」
ノアは顔を向けた。
「何を?」
エリンが穏やかな口調で言う。
「これからのこと……」
エリンは続けた。
「この町に来たときは、ただ逃げたかっただけだった」
ノアは静かに頷いた。
「誰にも見つからない場所で、静かに暮らせれば……それでいいと思ってた」
エリンは川を見つめた。
「でも……最近は少し違うの」
エリンは微笑んだ。
「ここでちゃんと暮らしていきたいと思うようになった」
ノアは静かに頷いた。
「いいことだね」
エリンは彼を見た。
「それに……」
ノアが首を傾げた。
「それに?」
エリンが言葉に詰まった。胸が高鳴った。それでも今は逃げたくなかった。
「1人じゃなくてもいいかなって……」
ノアが足を止めた。エリンも立ち止まった。彼女はノアを見た。ノアは何も言わなかった。
エリンは少しだけ頬を赤くした。
「変なこと言った?」
ノアはゆっくりと首を振った。そして静かに微笑んだ。
「嬉しいよ」
エリンが安堵する。
「よかった」
ノアはしばらく彼女を見つめてから静かに言った。
「僕も最近少し考えることがあるんだ」
「何を?」
ノアは少しだけ視線を落とした。
「これからのこと……」
エリンは静かに微笑んだ。
「そうなんだ」
ノアは頷いた。
「以前はあまり考えなかったんだけど。最近は少しだけ……」
そこで言葉を止めた。エリンは彼を見た。
「少しだけ?」
「明日のことを考えるようになった」
エリンは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「いいことだね」
ノアは、静かに笑った。
「そうだね」
2人は再び歩き始めた。川沿いの道には夕日が差していた。エリンはノアの横顔を見て、意を決したように言葉をかける。
「ノア」
「うん?」
「手、繋いでもいい?」
ノアは少し驚いた顔をした。エリンは緊張していたが目を逸らさなかった。
「うん……」
エリンはそっと手を伸ばした。ノアも手を差し出した。2人の手が触れた。
大きな手だった。古い傷跡があった。温かかった。エリンは静かにその手を握った。ノアも優しく握り返した。
2人は何も言わなかった。ただ並んで歩いた。夕日が川面を赤く染めていた。
エリンはずっと抱えていた恐怖が溶けていくような感覚を覚えた。不安がまったくないわけではなかった。それでもこの手を離さずにいたら、そうした恐怖や不安は吹き飛ぶような気がした。だからノアの手を離したくなかった。
遊歩道の終わりに小さな橋があった。2人はその橋の手前で立ち止まった。エリンはノアを見た。
「ノア」
「うん?」
「私、あなたと一緒にいると安心する」
エリンは続けた。
「それだけじゃなくて……」
少しだけ息を吸った。
「楽しい」
エリンは少し照れくさそうに笑った。
「何でもないことが楽しいの」
ノアはゆっくりと頷いた。
「僕もエリンといると楽しい」
エリンは胸が高鳴るのを感じた。
「本当に?」
「うん」
ノアは頷いた。そして少しだけ真面目な顔になった。
「だから……これからも一緒に歩けたら嬉しい」
ノアの言葉にエリンは喜びを隠せなかった。
「私も!」
ノアは安心したように笑った。エリンは彼の手をもう一度握った。ノアも優しく握り返した。
2人はしばらくそのまま立っていた。
帰り道。2人は手を繋いだまま歩いた。特別な言葉は交わさなかった。でもエリンは感じていた。
自分が少しずつ変わっていることを。以前は誰かに触れられることが怖かった。誰かを信じることが怖かった。誰かと未来を考えることが怖かった。けれど今は。ノアと一緒なら少しだけその先を見てみたいと思えた。
そしてノアも。何も言わなかったけれど。その手を離さなかった。
病院の駐車場に戻ったとき、エリンは足を止めた。
「ノア」
「うん?」
「明日も会えるね」
ノアは小さく笑いながら答えた。
「同じ病院だからね」
エリンも笑った。
「そうだけど……」
少しだけ頬を赤くした。
「それでも嬉しいの!」
ノアは静かに微笑んだ。
「僕もだよ」
「よかった……」
2人はゆっくりと手を離した。エリンが車のドアを開けた。そして振り返った。
「おやすみ、ノア」
「おやすみ、エリン」
エリンは車に乗った。エンジンをかける。窓を開けるとノアがまだ立っていた。
エリンは手を振った。ノアも手を振った。そしてエリンは車を走らせた。
その夜。ノアはキッチンで夕食の皿を洗っていた。窓の外はもう暗くなっていた。
彼はふと手を止めた。そして自分の右手を見た。
今日エリンが握ってくれた手。
「手、繋いでもいい?」
その声が耳に残っていた。
ノアは静かに息を吐いた。以前なら考えられなかったことだった。誰かと手を繋いで歩く。明日のことを考える。その人とまた会えることを楽しみにする。そんなごく普通のこと。
ノアは自分の胸に手を当てた。胸の奥が温かかった。だが同時に少しだけ痛んだ。
彼女は何も知らない。自分の過去を。自分がどんな人間だったのかを。
「いつか話さなければならない……」
そう思った。
でも今はまだその勇気がなかった。エリンが自分の手を怖がる姿を想像したくなかった。もう一度右手を見た。
「明日も会えるね」
エリンの言葉が頭に浮かんだ。ノアは静かに微笑んだ。
「うん……」
小さく呟いた。
「明日も」
そして再び皿を洗い始めた。
その夜、ノアは久しぶりに翌朝が来るのを楽しみにしていた。
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