うまいこと言う
ロバートはマイケル・ファスベンダーさん。サラはセイディー・シンクさんを想像しながら読んでください。美形親子すぎるかもしれませんが……。
9月最初の月曜日。エリン・ウォーカーは出勤して、すぐ主任看護師のスーザン・ハリスに呼び止められた。
「エリン、ちょっといい?」
「はい」
スーザンはナースステーションの奥にある小さな会議室へ彼女を案内した。机の上には患者の記録と退院支援計画書が広げられていた。
「エヴァンスさんのことなんだけど……」
「ロバートさんですか?」
「ええ。明後日の退院を希望しているの」
エリンは眉を寄せた。
「明後日?」
ロバート・エヴァンスは、建設現場での転落事故によって右脚を骨折した52歳の男性だった。手術後の経過は良好だったが、松葉杖での移動にはまだ不安が残っていた。
「ご本人はもう十分歩けると?」
「そう言ってるわ。担当医は、退院自体は不可能ではないと考えている。ただし条件があるの」
スーザンは書類を指さした。
「自宅の安全確認。通院手段の確保。それから……少なくとも当面は仕事に戻らないこと」
エリンは素直に懸念事項を口にする。
「でもロバートさんは仕事に戻りたがっています」
「そうなのよ」
スーザンは眼鏡を外した。
「昨日も現場から何度も電話があったそうよ。退院したらその足で会社へ行くつもりらしいわ」
「それは困りますね……」
「ノアにも相談してちょうだい。リハビリの観点から、どこまでできるのか確認したいの」
「わかりました」
エリンが立ち上がると、スーザンはもう一度声をかけた。
「それと……エリン」
「はい?」
「患者さんが無理を言っても、頭ごなしに否定しないでね」
スーザンは続けた。
「自分の身体が思うようにならないとき、人は思っている以上に不安になるものよ」
エリンは静かに頷いた。
「まぁあなたなら大丈夫だと思うけど」
スーザンは微笑んだ。
「よろしくね」
午前10時。エリンがリハビリテーション室を訪れると、ノアはロバートの歩行訓練を行なっていた。
「そうです。右脚に体重をかけすぎないように」
ノアの声が聞こえた。ロバートは松葉杖を使い、ゆっくりと歩いていた。額には汗が浮かんでいた。
「こんな調子じゃ、仕事にならねえな」
ロバートが吐き捨てるように言った。ノアが彼の横を歩きながら答える。
「今は仕事に戻るための準備をしているところですから」
「準備、準備って……」
ロバートは顔をしかめた。
「もう何週間も準備ばかりだ」
ロバートはそこから数歩進んだところで立ち止まった。
「もういい……」
「少し休みましょうか」
「ああ」
ノアは椅子を寄せた。ロバートは腰を下ろし、長く息を吐いた。そこへエリンが近づいた。
「お疲れさまです、ロバートさん」
ロバートは顔を上げた。
「ああ、エリンか」
「調子はいかがですか?」
「見てのとおりだよ」
ロバートは苦笑した。
「歩くだけでこんなに苦労するとは思わなかった」
エリンは隣の椅子に腰掛けた。
「でも少しずつよくなっていますよ」
「そう言われてもな」
ロバートは視線を落とした。
「現場の連中はもう俺抜きで仕事を進めてる」
エリンは彼を見た。
「それが気になるんですね」
ロバートはしばらく黙っていたが小さく頷いた。
「ああ」
ノアも静かに話を聞いていた。
「俺がいなくても、現場は回るんだ」
ロバートは苦笑した。
「30年もあそこで働いてきたのにな」
エリンは胸の奥が少し痛んだ。ロバートが退院を急ぐ理由は、単に仕事が好きだからではなかった。自分が必要とされなくなることが怖いのだ。
「ロバートさん」
エリンが静かに、しかしはっきりとした口調で言葉を発する。
「現場の皆さんが仕事を続けられるのは、ロバートさんが今まで教えてきたことがあるからじゃないでしょうか」
ロバートが顔を上げた。
「だから今は安心して任せてもいいんじゃないかと思います」
ロバートは何かを考えるようにして黙ったが、しばらくして小さく笑った。
「あんた、うまいこと言うな」
エリンも笑った。
「本当にそう思ったんです」
ノアはその様子を見ていた。そして静かに微笑んだ。
訓練が終わった後、エリンはノアに退院の話をした。
「明後日、退院したいそうなの」
ノアは頷いた。
「聞いてるよ」
「どう思う?」
ノアは少し考えた。
「身体の状態だけを見れば、退院は可能だと思う」
エリンは頷いた。
「でも仕事に戻るつもりなら心配だね」
「そうよね」
ノアは記録を確認した。
「自宅での移動はもう少し練習したい。特に浴室と玄関の段差が気になる」
エリンは少し考えた。
「退院後の生活を、具体的に確認したほうがよさそうね」
「うん」
ノアは頷いた。
「ご家族にも、話を聞けるといいんだけど」
「娘さんが午後に来る予定よ」
「じゃあ一緒に話そうか」
エリンは微笑んだ。
「お願い」
ノアも微笑んだ。
「うん」
2人は自然に顔を見合わせた。以前ならこんなときにも少し距離があった。だが今は違う。互いの考えを伝えることに遠慮がなくなっていた。
午後3時。ロバートの娘、サラ・エヴァンスが病院を訪れた。30歳前後の女性で、父親によく似た目元をしていた。
彼女は少し疲れた顔をしていた。
「父が明後日退院したいと言っているそうですね」
サラは開口一番そう言った。エリンは頷いた。
「はい」
サラはため息をついた。
「まったく……」
ノアは静かに話を聞いていた。
「家に帰るのはいいんです。でも仕事に戻るつもりなんですよ!」
サラは首を振った。
「会社から電話が来るたびに、俺が行かなきゃって」
エリンは少し考えた。
「お父様は仕事をとても大切にされているんですね」
サラは苦笑した。
「大切というより、仕事しか知らないんです」
そして少し声を落とした。
「母が亡くなってから、ずっと……」
「そうだったんですね」
サラは頷いた。
「母が亡くなったのは6年前です」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「それから父はますます仕事ばかりするようになりました」
ノアは静かに尋ねた。
「お父様は休日には何をされていたんですか?」
サラは少し考えた。
「庭の手入れとか」
「庭ですか」
「ええ。母が花を育てるのが好きだったので。今でも母が植えたバラだけは、毎年きちんと世話をしてるんです」
ノアは少し考えてから、思い当たった節があるように言った。
「退院後の目標を少し変えてみませんか?」
「目標?」
「はい」
ノアは微笑んだ。
「仕事に戻ることだけではなくて、まずはご自宅で安全に暮らせるようになることを」
エリンも頷いた。
「庭の手入れも少しずつできるようになるといいですね」
サラは意外な提案を受けたと言わんばかり少し驚いていた。
「父がそんな話を聞くかしら」
ノアは微笑んだ。
「聞いていただけるように、僕たちも考えます」
翌日。ノアはロバートの歩行訓練を終えてから彼に尋ねた。
「ロバートさん、庭にバラがあるそうですね」
ロバートは少し驚いた。
「サラから聞いたのか?」
「はい」
ロバートが相好を崩した。
「ああ。女房が植えたんだ」
「そうなんですね」
「毎年、春になると咲くんだよ」
ロバートが懐かしそうな顔をした。
「俺は花なんて何がいいのかわからなかったんだが……」
「今はどうですか?」
ロバートは小さく笑った。
「悪くないと思ってる」
窓の外を見ながらロバートが遠い目で言う。
「今年も咲いたんだ……」
少し間を置いた。
「来年も咲かせてやらないとな」
ノアは静かに微笑んだ。
「そのためにも今はしっかり回復しましょう」
ロバートが苦笑する。
「うまいこと言うな、あんたも」
ノアは笑った。
「エリンほどではありませんが」
ロバートは声を上げて笑った。
「違いない!」
退院は予定より3日延びた。ロバートは最初こそ不満そうだった。しかし娘と話し合い、当面は仕事を休むことを受け入れた。ノアは自宅の間取りに合わせた移動訓練を行ない、エリンは退院後の服薬や生活上の注意について説明した。
退院当日。ロバートは松葉杖をつきながら、病棟の出口で立ち止まった。
「世話になったな」
エリンは微笑んだ。
「お大事になさってください」
ノアも気遣う言葉を発する。
「無理はしないでくださいね」
ロバートは苦笑した。
「わかってるよ」
そして少し真面目な顔になった。
「あんたたちには感謝してる」
ロバートは続けた。
「俺は仕事に戻ることしか考えてなかった」
少し間を置いた。
「でも帰る場所があるってことを、忘れてたんだな」
ノアとエリンは静かに頷いた。
ロバートはそんな2人を見て言った。
「あんたたちも、身体には気をつけろよ」
2人が笑いながら、同じ言葉を発した。
「「ありがとうございます」」
ロバートは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「それと2人とも」
「はい?」
エリンが尋ねた。
「仕事ばかりしてないで、たまには遊べよ」
エリンは少し頬を赤くした。ノアは困ったように笑った。ロバートは満足そうに笑った。
そして娘に付き添われて病院を後にした。
ご意見、ご感想、いいね、ブックマーク登録などいただけると励みになります。よろしくお願いいたします。




