エリン宅での料理
エリンさん、料理上手です。
週末。エリンはノアを夕食に誘った。今度はミラー夫妻の家ではなく、自分の家だった。
誘うまでに何日も迷った。
「ノアと2人で食事をしたい」
そう思ったのは本当だった。それでも自分の家に男性を招くことには、まだ少し抵抗があった。デレクと暮らしていた頃の記憶が、完全に消えたわけではない。
だから最初はレストランにしようかとも考えた。だがエリンは自分の家で食事をすることを選んだ。誰かに言われたからではない。ノアに喜んでもらいたいと思ったからだ。そして自分の家をもう一度安心できる場所にしたかったからだ。
土曜日の夕方。ノアは約束の時間ちょうどにやって来た。手には小さな紙袋を持っていた。
「こんばんは、エリン」
エリンは微笑んだ。
「どうぞ、入って」
ノアは玄関で立ち止まった。
「本当に、お邪魔していいの?」
エリンは少し笑った。
「もちろん」
「ありがとう」
ノアは靴の汚れを確かめてから、家に入った。エリンはその様子を見て微笑んだ。
「そんなに気を遣わなくていいよ」
ノアは少し困ったように笑った。そして紙袋を差し出した。
「これ、よかったら」
中には小さなベーカリーで買ったパンが入っていた。
「夕食に合うかわからないけど」
エリンは笑った。
「ありがとう。ちょうどパンが欲しかったの」
ノアはほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
エリンは紙袋を受け取り、キッチンへ向かった。ノアは居間に立ったまま、静かに部屋を見回していた。小さなソファ。本棚。窓際の観葉植物。テーブルにはエリンが買ったばかりの花が飾られていた。
「いい家だね」
ノアが言った。エリンは振り返った。
「そう?」
ノアは微笑んだ。
「落ち着く」
エリンは、少し嬉しくなった。
「ありがとう」
そして、ふと思った。
「この家を誰かに褒めてもらうのは初めてかもしれない」
夕食はチキンのトマト煮込みだった。付け合わせには、グリーンサラダとパン。エリンは少し緊張していた。
「味、大丈夫かな?」
ノアは一口食べて顔を上げた。
「美味しい」
エリンはホッとした。
「本当?」
ノアは微笑んだ。
「すごく美味しい」
エリンは笑った。
「よかった」
ノアはもう一口食べた。そして少し考えた。
「もしかして……トマト、あのときの?」
エリンは驚いた。
「覚えてたの?」
「うん」
ノアは笑った。
「スーパーで選んでもらったから」
エリンは声を上げて笑った。
「あれはノアのトマトでしょう?」
「そうだった」
ノアも笑った。
「じゃあ、別のトマトだね」
「そうよ」
2人は笑った。その笑い声が、エリンの小さな家に響いた。
彼女は、ふと気づいた。この家でこんなふうに誰かと笑ったことがあっただろうか。マーサやウォルターを招いたことはあった。エミリーが遊びに来たこともあった。しかし男性と二人で食卓を囲むのは初めてだった。
以前なら考えられなかったことだった。それなのに……今は怖くなかった。
食後。ノアが当然のように食器を片づけ始めたので、エリンは笑った。
「お客様なんだから、座ってていいのに」
ノアは首を振った。
「料理を作ってもらったから」
「でも」
「洗い物くらいはさせて」
エリンは少し考えた。そして微笑んだ。
「じゃあ、お願い」
ノアは頷いた。
2人は並んでキッチンに立った。エリンが洗い、ノアが拭く。ミラー夫妻の家と同じだった。だが今日は少し違った。ここはエリンの家だった。
彼女が1人で暮らしてきた、小さな家。そこにノアがいる。そのことが不思議だった。そして嬉しかった。
食器を片づけ終わると、2人は居間でコーヒーを飲んだ。ノアはソファの端に座り、エリンは少し離れたところに腰を下ろした。
しばらく仕事の話をしていたが、やがてエリンが言った。
「ノア、今日は来てくれてありがとう」
ノアは微笑んだ。
「こちらこそ。ごちそうさま」
エリンは少し考えた。そして静かに言った。
「私ね……」
ノアは顔を向けた。
「以前はこういうことができなかったんだ」
ノアは黙っていた。エリンはカップを見つめた。
「誰かを家に招いて、一緒にご飯を食べて」
少し笑った。
「そんな普通のことが……」
ノアは静かに聞いていた。
「でも今日は楽しかった」
エリンは顔を上げた。
「すごく」
ノアは少しだけ微笑んだ。
「僕も」
エリンは彼を見た。ノアは続けた。
「誰かと食事をするのが、こんなに楽しいと思えるなんて……」
エリンは胸の奥が温かくなった。
「そう?」
ノアは頷いた。
「ありがとう、エリン」
エリンは微笑んだ。
「どういたしまして」
帰り際。ノアは玄関で靴を履いた。
「今日は、本当にありがとう」
エリンは笑った。
「もう3回目だよ」
ノアは少し驚いた。
「そう?」
「うん」
エリンは微笑んだ。
「そんなにお礼を言わなくてもいいのに」
ノアは少し困ったように笑った。
「癖なんだ……」
エリンは彼を見た。そして少しだけ真面目な顔になった。
「ノア」
「うん?」
「また来てね」
ノアは少し驚いた。エリンは続けた。
「今度はもっと簡単な料理になるかもしれないけど」
ノアは微笑んだ。
「それでも嬉しいよ」
ノアは少し考えてから言った。
「今度は僕が作ろうか?」
エリンは目を丸くした。
「え?」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「あまり上手じゃないけど」
「トマトと卵の炒め物?」
「それならできると思う」
エリンは頷いた。
「楽しみにしてる!」
ノアは微笑んだ。
「……うん」
2人はしばらく互いを見つめていた。そしてノアが静かに言った。
「おやすみ、エリン」
エリンは微笑んだ。
「おやすみ、ノア」
ノアは家を出た。エリンは彼の車が見えなくなるまで、玄関先に立っていた。
その夜。エリンは食卓に残った2つのコーヒーカップを見つめていた。片づけ忘れたわけではなかった。ただ何となく、すぐに洗う気になれなかった。
今日のことを思い返す。スーパーで偶然会った日のこと。ミラー夫妻の食卓。そして今日の夕食。
ノアと一緒にいると、時間がゆっくり流れるような気がした。無理に話題を探す必要がない。沈黙が続いても気まずくならない。何かを断っても嫌な顔をされない。それはエリンにとって初めての感覚だった。
「こんなふうに誰かと一緒にいられるんだ」
彼女は静かに微笑んだ。そしてふと思った。
「もし、これからも……」
そこまで考えて、胸が高鳴った。
ノアと一緒に食事をする。休日に出かける。仕事が終わったら、今日あったことを話す。そんな日々がこれからも続いたら……。
エリンはゆっくりと息を吐いた。怖くないわけではなかった。でもその未来を少しだけ想像してみたかった。
同じ頃。ノアは自宅のキッチンに立っていた。
冷蔵庫を開ける。卵。トマト。牛乳。チーズ。それから、少しだけ残ったパン。
ノアはしばらく中を見つめていた。そして冷蔵庫を閉めた。
「練習しないと……」
小さく呟いた。
エリンに今度は自分が料理を作ると言ってしまった。あまり考えずに口にした言葉だった。その言葉を聞いて、エリンは嬉しそうに笑っていた。
「楽しみにしてる」
その声を思い出すと、胸の奥が温かくなった。
ノアはキッチンの棚からフライパンを取り出した。そして少し考えた。
「トマトと卵だけじゃ寂しいかな」
誰もいない部屋。そんなことを真剣に考えている自分に気づき思わず笑った。以前なら考えもしなかったことだった。誰かのために料理を作る。その人が喜ぶ顔を想像する。そんなごく普通のこと。
ノアはフライパンをコンロに置いた。そして静かに息を吐いた。
「こんな時間が続けばいいな」
そう思った。
けれどすぐに胸の奥が痛んだ。彼は自分の右手を見た。古い傷跡。深い皺。エリンが「大好き」と言ってくれた手。
「僕には……」
いつもの言葉が、浮かびかけた。
「幸せになる資格なんて……」
ノアは目を閉じた。だがその夜は最後まで考えなかった。代わりにエリンの笑顔を思い浮かべた。
そして冷蔵庫から卵を取り出した。明日の夕食は、少し失敗しても構わない。今度エリンに食べてもらうときまでに、もう少し上手になればいい。
ノアはそう考えた。
そのことが、彼自身にも不思議だった。ずっと先のことを考えるのは、久しぶりだったからだ。
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