食事の約束
エリン、食事の約束を取り付けます。
8月の第1日曜日、ノア・ベネットはスーパーの青果売り場で2つのトマトを見比べていた。どちらも同じくらい赤く、同じくらいの大きさだった。1つ手に取り、もう1つを戻す。やはり気になって、戻したほうを手に取る。そんなことを3度ほど繰り返していると背後から声がした。
「そんなに難しい問題?」
振り返るとエリンが立っていた。
ノアは手元のトマトを見た。
「何を作るの?」
「トマトと卵の炒め物を」
「じゃあこっち」
エリンはノアが最初に戻したほうを指した。
「少し柔らかいほうがいいと思う」
ノアが素直にトマトを籠に入れるのを見てエリンは笑った。
「私が間違ってたらどうするの?」
「そのときは、そのときだよ」
「ずいぶん簡単に信用するのね」
ノアは少し考えた。
「エリンのほうが、料理は詳しそうだから」
エリンは声を上げて笑った。ノアもつられて笑った。
2人が仕事以外の場所で会うのは数えるほどしかなかった。ミラー夫妻の店、独立記念日、カフェと川沿いの散歩。そして今日は偶然のスーパーだった。
もっともエリンにとっては少し残念な偶然でもあった。彼女は今朝ノアに電話をかけようかと迷っていたのだ。先週一緒に散歩をした後、ノアからは特に誘いがなかった。
病院では毎日顔を合わせている。以前よりずっと親しく話すようになった。それでも休日の約束となると、ノアは不思議なくらい慎重だった。
「嫌われているわけじゃないと思うんだけど……」
そう考えていたところへ、トマトを持った本人に出くわしたのだ。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「今日のお昼、もう決めてる?」
「これから作るつもりだけど」
「じゃあ一緒に食べない?」
ノアは瞬きをした。
「一緒に?」
「うん。私、これからマーサさんのお店に寄るの。お昼を食べていきなさいって誘われてて」
「ああ、そうなんだ」
「ノアも来ない?」
彼は少し迷った。エリンはその表情を見て付け加えた。
「もちろん、予定がなければ」
「予定はないよ」
「じゃあ」
ノアは、ようやく微笑んだ。
「お邪魔してもいいなら」
「マーサさん、喜ぶと思う」
エリンはそう言ってから少し笑った。
「でもたぶん食器洗いを手伝わされるわよ」
「それなら得意だよ」
「本当?」
「料理よりは」
エリンはまた笑った。
ミラー夫妻の店は、日曜日には午後2時までの営業だった。エリンとノアが着いたとき、ウォルターは店先の木製ベンチを修理していた。片方の脚がぐらつくため、金具を取り替えているところだった。
「おや、2人揃って」
ウォルターは顔を上げた。
「こんにちは」
エリンが挨拶すると、彼はノアを見た。
「よく来たな。飯は大勢で食べるほうが美味いからな」
ウォルターは工具を置いた。
「この前、ノアに俺の膝を見てもらっただろう。あれから調子がいいんだ」
「無理はしないでくださいね」
「わかってるさ」
ウォルターは立ち上がろうとして少し顔をしかめた。ノアは手を差し出しかけたが、ウォルターは先に立ち上がった。
「大丈夫だ。まだ自分で立てる」
「ええ」
ノアは笑って手を下ろした。
「そのほうがいいですね」
ウォルターは満足そうに頷いた。
「それよりマーサに見つかる前に、このベンチを直してしまいたいんだが」
「もう見つけたわよ!」
店の中から声が飛んできた。マーサが花柄のエプロン姿で現れた。
「何をこそこそやってるの?」
「ベンチの修理だ」
「それは見ればわかるわ」
「じゃあ聞くなよ」
「暑い中で無理しないでって言ったでしょう!」
エリンは笑った。
ウォルターはノアに向かって小声で言った。
「ほらな。見つかった」
「聞こえてるわよ」
マーサは呆れたように言った。そしてエリンとノアを見た。
「あら2人とも。ちょうどよかった」
「こんにちは、マーサさん」
「さあ、入って。もうすぐお昼よ」
ノアは少し遠慮がちに言った。
「突然お邪魔して、すみません」
「何を言ってるの」
マーサは彼の背中を軽く叩いた。
「食べる人間が1人増えたくらいで困るような料理はしてないわ」
ウォルターが横から口を挟んだ。
「むしろいつも作りすぎる」
「あなたは黙ってなさい」
ノアは笑った。エリンはその横顔を見た。
彼は以前よりよく笑うようになった気がする。少なくとも自分の前では。
店の奥にあるミラー夫妻の住居には、古い木製の食卓があった。4人掛けのテーブルには、何十年も使われてきたらしい細かな傷がついていた。
壁には家族写真が並んでいた。若い頃のマーサとウォルター。2人の息子たち。結婚式。孫の誕生。クリスマスの集合写真。そのどれにも笑顔があった。
エリンは何度かこの家で食事をしていたが、ノアが招かれるのは初めてだった。
「好き嫌いはある?」
マーサが尋ねた。
「特にありません」
「それは助かるわ」
マーサは大きな耐熱皿をテーブルに置いた。鶏肉と野菜のキャセロールだった。焼き色のついた表面から、チーズとハーブの香りが漂っていた。ほかにもグリーンサラダ、コーンブレッド、冷たい紅茶が並んでいる。
「どうぞ、遠慮しないで」
「いただきます」
ノアが言うと、ウォルターが笑った。
「ノアはずいぶん礼儀正しいな」
マーサもそれに同意しながら笑う。
「だからもっと食べさせたくなるのよ」
「それは礼儀と関係ないだろう?」
「あるわよ」
「どういう理屈だ?」
「私の理屈よ」
エリンは笑った。ノアも笑った。そしてキャセロールを一口食べた。
「美味しい」
その声は少し驚いたようだった。マーサは嬉しそうに目を細めた。
「そう? よかった」
「本当に美味しいです」
「だったら、たくさん食べて」
ノアは頷いた。それからもう一口食べた。
エリンは彼の様子を見ていた。ノアは食事をするとき、いつもどこか丁寧だった。急いで食べることがない。料理を粗末に扱わない。一口ずつ確かめるように味わう。それは育ちのよさにも見えたし、逆に食べ物を大切にしなければならない生活を送ってきた人の習慣にも見えた。
エリンは先日の独立記念日に彼が口にした言葉を思い出した。
「食べ物を選べるような環境ではなかったので」
けれど今日も何も聞かなかった。
食事の途中、ウォルターがノアに尋ねた。
「ノアはどこの生まれなんだ?」
ノアはフォークを置いた。
「この州ではありません」
「そうか。どの辺りだ?」
「少し南のほうです」
「ご両親もそちらに?」
エリンは何気なくノアを見た。ノアはほんのわずかに視線を落とした。
「両親はいないんです……」
食卓が静かになった。ウォルターはすぐに表情を改めた。
「そうか。悪いことを聞いたな」
「いえ」
ノアは微笑んだ。
「気になさらないでください」
マーサは彼の皿を見た。
「おかわり、どう?」
「ええ。いただきます」
「よかった」
マーサは何事もなかったように、キャセロールを取り分けた。それからウォルターに言った。
「あなたも食べる?」
「俺はもう十分だ」
「そう。じゃあ残りは明日の昼ね」
会話は自然に別の話題へ移った。町の古い映画館が取り壊されること。ウォルターの友人が釣りに行って、魚を1匹も釣らずに帰ってきたこと。マーサが秋に店先へ植える花を迷っていること。
ノアもときどき会話に加わった。だがエリンは気づいていた。両親について尋ねられたとき、彼の表情が一瞬だけ曇ったことに。そしてマーサが何も聞かずに料理を勧めたとき、彼が少し驚いたことに。
食後エリンとノアは食器を洗った。マーサは最初2人を手伝わせるつもりはないと言ったが、ノアが「ぜひ」と申し出るとあっさり任せてくれた。
エリンが洗い、ノアが拭く。窓からは裏庭でウォルターが芝刈り機を動かす音が聞こえていた。
「楽しかったね」
エリンが言った。
「うん」
ノアは皿を拭きながら頷いた。
「マーサさん、料理が上手でしょう?」
ノアは微笑んだ。
「久しぶりに、ああいう食事をした気がする」
エリンは手を止めた。
「ああいう食事?」
ノアは少し考えた。
「みんなで、同じテーブルを囲んで……」
エリンは彼を見た。
「普段は1人で食べることが多いから」
ノアはそう言って、皿を棚に戻した。エリンはしばらく黙っていた。そして静かに言った。
「また一緒に食べようよ」
ノアが振り返った。
「え?」
「食事」
エリンは微笑んだ。
「別にマーサさんのお料理じゃなくても」
ノアは少し驚いた顔をした。エリンは続けた。
「私も1人で食べることが多いし。たまには誰かと食べるほうが美味しいと思う」
ノアはしばらく何も言わなかったが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうだね」
エリンは笑った。
「じゃあ、決まり」
「うん」
ノアも笑った。
そのとき台所の入口からマーサの声がした。
「何が決まりなの?」
エリンは振り返った。
「また一緒に食事をしようって話です」
マーサは2人を見比べた。そしてにっこり笑った。
「あら、いいじゃない」
エリンは少し照れくさくなった。マーサは何か言いかけたがやめた。代わりにノアへ小さな保存容器を差し出した。
「これ持って帰って」
中には残ったキャセロールが入っていた。ノアは驚いた。
「そんな! 悪いですよ」
「明日のお昼に食べなさい」
「でも……」
「うちには、まだたくさんあるの」
マーサは容器を彼の手に押しつけた。
「それにあなた、料理はあまり得意じゃないんでしょう?」
ノアは困ったように笑った。
「どうしてわかるんですか?」
「年の功よ」
マーサは胸を張った。エリンは笑った。ノアも笑った。そして保存容器を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
その声はいつもより少し小さかった。
8月も半ばを過ぎた頃、病院では新しい患者を受け入れた。52歳の男性、ロバート・エヴァンス。建設現場で転落し、右脚を骨折していた。手術は成功し全身状態も安定していたが、退院に向けて歩行訓練が必要だった。ノアが担当することになった。エリンはその患者の病棟での看護を受け持っていた。
ロバートは体格のよい男性だった。日に焼けた顔に深い皺があり、手には厚い皮膚と細かな傷があった。入院当初から機嫌が悪かった。痛みのせいもあったが、それだけではなかった。
「俺は現場監督なんだ」
ロバートは何度も言った。
「いつまでもこんなところに寝てられない」
エリンは彼の話を聞きながら、必要な処置を進めていた。
「お仕事が気になるんですね」
「当たり前だろう」
ロバートは苛立った声で言った。
「俺がいなきゃ、あいつら何も決められないんだ」
エリンは頷いた。
「早く戻りたいですよね」
「そうだよ」
ロバートはため息をついた。
「なのにあの理学療法士は、まだ歩くなだの無理するなだの」
エリンは少し笑った。
「ベネット……ノアは慎重ですから」
ロバートは顔をしかめた。
「慎重すぎるんだよ」
エリンは彼の包帯を確認した。
「でもここで無理をして、また怪我をしたら困るでしょう?」
ロバートが黙った。エリンは続けた。
「現場の皆さんも、元気に戻ってきてほしいと思っているはずです」
ロバートはしばらく何も言わなかった。そしてふっと息を吐いた。
「あんたも、あの理学療法士と同じことを言うんだな」
エリンは笑った。
「そうですか?」
「ああ」
ロバートは首を振った。
「まったく2人揃って」
そう言いながらも、先ほどより表情は和らいでいた。
数日後。ロバートの歩行訓練中に小さな出来事があった。平行棒につかまって歩いていた彼が途中で足を止めたのだ。
「もういい」
ノアは顔を上げた。
「どうしました?」
「今日はもうやめる」
ロバートは不機嫌そうに言った。ノアは時計を見た。
「あと少しですが」
「やめるって言ってるだろ!」
声が大きくなった。近くにいた患者が振り返った。ノアは静かに頷いた。
「わかりました。今日はここまでにしましょう」
ロバートは少し意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「はい」
ノアは椅子を寄せた。
「ただ何か気になることがあったなら、教えてもらえますか?」
ロバートは黙った。しばらくして低い声で言った。
「怖いんだよ……」
ノアは彼を見た。
「怖い?」
「また転ぶんじゃないかって」
ロバートは視線を落とした。
「現場じゃ若い連中に偉そうなことを言ってたんだ」
ノアは黙って聞いていた。
「足元に気をつけろだの、安全帯を確認しろだの」
ロバートは苦笑した。
「そんな自分が落っこちた」
ノアは何も言わなかった。
「情けないよな……」
ロバートは吐き捨てるように言った。ノアは少し考えた。そして静かに言った。
「怖いと思うのは、情けないことではありませんよ」
ロバートは顔を上げた。ノアは続ける。
「怪我をした後ですから、慎重になるのは自然なことです」
「そうか?」
ノアは微笑んだ。
「怖さがあることを教えていただければ、それに合わせて練習できます」
ロバートはしばらく彼を見ていた。そして小さく息を吐いた。
「あんた、変わってるな」
ノアは少し困ったように笑った。
「そうでしょうか」
「ああ」
ロバートは椅子に腰を下ろした。
「普通ならもっと頑張れって言うだろ」
ノアは首を振った。
「もう十分、頑張っていらっしゃいますから」
ロバートはしばらく黙っていた。そして照れくさそうに鼻を鳴らした。
「そうかよ」
その日の夕方。エリンは病室でロバートの状態を確認していた。
「今日はリハビリが大変だったそうですね」
エリンが言うと、ロバートは苦笑した。
「ああ」
「何かありました?」
ロバートは少し考えた。
「あの理学療法士さ……」
ロバートは窓の外を見た。
「俺が怖いって言ったら、笑わなかったんだ」
エリンは黙って聞いていた。
「情けないって言ったら、そうじゃないって」
ロバートは小さく笑った。
「変な奴だよ」
エリンも微笑んだ。
「でも、いい奴だ」
エリンは頷いた。
「はい」
ロバートは、彼女を見た。
「仲はいいのか?」
「同じ病院で働いていますから」
「そうじゃなくて」
ロバートは少し笑った。
「ずいぶん親しそうじゃないか」
エリンは少しだけ頬を赤くした。
「そうですか?」
「ああ」
ロバートは笑った。
「まあ、あいつなら悪い男じゃなさそうだ」
エリンは何も言わなかったが、胸の奥が温かくなった。
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