大好きな手
エリン、ついに自分の気持ちを自覚します。いっぽうノアは……。
カフェを出た後、2人は川沿いを散歩した。独立記念日の賑わいはもうなかった。公園には犬を散歩させる人や、ジョギングをする人の姿があった。川面に夏の日差しが反射していた。エリンはゆっくりと歩いていた。ノアは彼女の歩幅に合わせていた。
しばらくしてエリンが言った。
「ノア」
「はい」
「お願いがあるんですけど」
ノアは顔を向けた。
「何でしょう?」
エリンは少し迷った。
「私に敬語を使うの、そろそろやめない?」
ノアは足を止めた。
「え?」
エリンも立ち止まった。
「ファーストネームで呼ぶようになったでしょう?」
ノアは頷いた。
「はい」
「でも話し方は、ずっと前と同じだから」
ノアは少し困ったように笑った。
「そうですね……」
エリンは少しだけ視線を落とした。そして小さな声で言った。
「私だけが仲良くしようと頑張っているみたいで、ちょっと寂しい」
ノアは何も言わなかった。エリンは慌てて顔を上げた。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、そんな……」
そしてノアは少し考えた。
「申し訳ありません」
エリンは思わず笑った。
「ほら、また」
ノアは少し驚いた顔をした。そして自分でも笑ってしまった。
「そうですね」
エリンは笑った。
「それも」
ノアはしばらく考えた。そしてゆっくりと言った。
「ごめん」
エリンは微笑んだ。
「うん!」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「慣れるまで少し時間がかかるかもしれないけど」
エリンは頷いた。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
ノアは静かに頷いた。
「ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、エリンは嬉しくなった。以前より少しだけ近づけた気がした。
2人は再び歩き始めた。川沿いの遊歩道には、大きな木が並んでいた。木陰に入ると少し涼しかった。
エリンはふとノアの手に目を向けた。大きな手だった。古い傷跡があった。以前からずっと気になっていた。ただ理由を尋ねたことはなかった。エリンは少し考えた。そして言った。
「ノア」
「うん?」
「手、見せてもらってもいい?」
ノアは少し驚いた。
「手?」
「うん」
エリンは微笑んだ。
「嫌だったら、いいんだけど……」
ノアは少し迷いながら右手を差し出した。
「どうぞ」
エリンはその手を見た。大きな手だった。指は長く、節がしっかりしていた。年齢のわりに皺が多く、甲には古い傷跡がいくつもあった。
エリンはそっとその手に触れた。ノアの身体が、わずかに強張った。エリンは顔を上げた。
「嫌だった?」
ノアは少し困ったように笑った。
「驚いただけ」
エリンは静かに頷いた。そしてもう一度、その手を見た。
「働き者の手だよね」
ノアは何も言わなかった。エリンは彼の手をそっと包んだ。
「たくさん皺があって……」
ノアは視線を落とした。エリンは続けた。
「そして優しくて……」
ノアはゆっくりと顔を上げた。エリンは微笑んだ。
「私、この手が大好き」
ノアは動かなかった。まるで時間が止まったようだった。エリンは少し不安になった。
「変なこと、言った?」
ノアはゆっくりと首を振った。
「いや……」
そして静かに言った。
「そんなこと、言われたことがなかったから……」
エリンは少し驚いた。
「そうなの?」
ノアは頷いた。
「うん」
エリンは彼の手を見て微笑んだ。
「じゃあ私が最初だね」
ノアは何も言わなかった。
エリンは少し笑った。
「私が初めてかぁ……何だか嬉しい」
ノアはゆっくりと目を閉じた。そして小さく息を吐いた。
「ありがとう……」
声が少し震えていた。エリンは彼を見た。ノアは静かに微笑みながらも、その目にはかすかに涙が浮かんでいた。
エリンは何も言わなかった。ただ彼の手をもう一度だけ優しく握った。ノアもほんの少しだけ握り返した。
帰り道。2人はゆっくりと歩いた。手はもう離していた。それでもエリンの手には、まだノアの温もりが残っているような気がした。
「今日は楽しかった」
エリンの言葉にノアが微笑んだ。
「僕も」
エリンは彼を見た。
「また会える?」
ノアは少し驚いた顔をした。そして静かに頷いた。
「うん」
エリンは微笑んだ。
「よかった」
ノアも微笑んだ。
2人はそれ以上何も言わなかった。けれどエリンは感じていた。
何かが少しずつ変わり始めている。それが何なのか、まだはっきりとはわからない。だが今はその変化を怖がりたくなかった。
その夜。ノアは自宅の居間で椅子に座っていた。
部屋の明かりはつけていなかった。窓から差し込む月明かりが床を淡く照らしていた。
彼は自分の右手を見つめていた。大きな手だった。古い傷跡があった。その手を今日、エリンが包んだ。そして言った。
「私、この手が大好き」
ノアはゆっくりと目を閉じた。その言葉が耳に残っていた。
ノアは静かに息を吐いた。誰からもそんなことを言われたことがなかった。この手を褒められたことは、ほとんどなかった。大きい。力が強そうだ。そう言われたことはあった。
優しい。大好き。そんな言葉を向けられたことはなかった。
ノアはゆっくりと指を曲げた。そして静かに呟いた。
「エリン」
その名前を口にすると、胸の奥が温かくなった。そして同時に苦しくなった。彼女は何も知らない。この手が何をしてきたのかを。
ノアは、ゆっくりと目を閉じた。
「もし知ったら……」
そこまで考えて、思考を止めた。考えたくなかった。彼女が自分の手を怖がる姿を。彼女が自分から離れていく姿を。
ノアは静かに息を吐いた。
「近づいてはいけない」
そう思った。だがエリンの笑顔が浮かんだ。
「じゃあ私が最初だね」
その声が耳に残っていた。ノアはゆっくりと目を閉じた。そして誰もいない部屋で小さく呟いた。
「ありがとう」
その声は静かな夜の中に消えていった。
同じ頃。エリンは自宅の寝室でベッドに腰掛けていた。
窓の外には月が浮かんでいた。彼女は今日の出来事を思い返していた。
カフェ。川沿いの散歩。敬語をやめてもらったこと。そして……ノアの手に触れたこと。
エリンは自分の手を見つめた。あの手は大きかった。皺が多く、傷跡もあった。温かかった。そして何より……優しかった。
エリンは、ゆっくりと息を吐いた。
「私、あの人が好きなんだ」
今度はその考えを否定しなかった。怖くないわけではない。また傷つくかもしれない。また同じことを繰り返すかもしれない。そんな不安はまだあった。
ノアの顔が浮かんだ。優しい笑顔。静かな声。自分の話を聞いて、涙を流してくれた姿。そして今日。
「そんなこと、言われたことがなかったから」
あのときの少し悲しそうな表情。
エリンは胸の奥が痛むのを感じた。
「どうしてあんな顔をしたんだろう?」
ノアは何かを抱えている。それは以前から感じていた。
知りたい気持ちはあるが、今は無理に聞こうとは思わなかった。自分がそうしてもらったように。彼が話したいと思うまで待ちたい。
エリンは静かに微笑んだ。
「いつか話してくれるといいな」
そう思った。そしてもう1つ。
「あの人にも幸せになってほしい」
心からそう願った。
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