初デート?
バッドエンドもいいですが、ハッピーエンドが好きです。
独立記念日の夜から10日が過ぎていた。エリンはノアをファーストネームで呼ぶことに、まだ少し慣れていなかった。病院の廊下で姿を見かけると、つい「ベネットさん」と呼びそうになる。そのたびにほんの少し言葉を飲み込んでから「ノア」と呼び直した。
ノアのほうも同じだった。
「ウォーカーさ……」
そこまで言って、彼は口を閉じた。エリンが振り返る。ノアは少し困ったように笑った。
「エリン」
エリンも笑った。
「はい」
そんなやり取りが、何度か続いた。エミリーはそれを見るたびに面白がった。
「もう2人とも!」
ある日の昼休み、とうとう彼女は笑い出した。
「名前を呼ぶだけで、どうしてそんなに緊張するのよ」
エリンは少し赤くなった。
「緊張なんてしてないわ」
「そう?」
「ただ慣れてないだけ」
「それを緊張って言うんじゃないの?」
ノアは困ったように微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
エミリーはますます笑った。
「ノアまで認めちゃった!」
エリンは彼を見た。ノアもエリンを見た。顔を見合わせた2人は思わず笑ってしまった。
その日の午後、エリンはリハビリテーション室へ向かっていた。担当している患者の状態について、ノアに確認したいことがあったからだ。
部屋に入ると、ノアは窓際の机で書類を書いていた。
「ノア」
彼が顔を上げた。
「あ、エリン」
まだ少し照れくさそうだった。
「どうしましたか?」
エリンは書類を差し出した。
「ミッチェルさんの歩行訓練について相談したいんです」
ノアが椅子を引いた。
「どうぞ」
エリンは隣に腰を下ろした。
2人は患者の状態について話し合った。70代の女性で、転倒による骨折から回復しつつあった。退院後は娘の家で暮らす予定だったが、家の階段が急で移動に不安が残っていた。ノアは家の間取りを描いた紙を広げた。
「ここが階段ですね」
「ええ」
「手すりは片側だけだそうです」
エリンは頷いた。
「娘さんはもう片方にも取り付けることを検討しているそうです」
「それはよかった」
ノアは微笑んだ。
「退院までにもう少し練習しておきましょう」
エリンは頷いた。
そしてふと彼の手に目を向けた。
大きな手だった。指は長く、関節がしっかりしていた。年齢のわりに皺が多く、甲には古い傷跡がいくつもあった。以前から気になっていたが、理由を尋ねたことはなかった。ノアは紙に階段の絵を描きながら説明を続けていた。
「エリン?」
声をかけられ、エリンは顔を上げた。
「あ、すみません」
ノアは少し首を傾げた。
「何か気になることがありましたか?」
「いえ」
エリンは微笑んだ。
「何でもありません」
ノアは頷き、説明を続けた。エリンはもう一度だけ彼の手を見た。
「働き者の手」
これまでにも感じたことだが、そんな言葉が浮かんだ。
その週の金曜日。病院では子供たちを対象にした小さな交流会が開かれた。長期入院している子供たちに少しでも楽しい時間を過ごしてもらおうという企画だった。会場には色とりどりの風船が飾られ、テーブルには画用紙や色鉛筆が並べられていた。
ノアも仕事の合間に顔を出していた。
「ノア!」
6歳のリリーが、彼を見つけて手を振った。
「こんにちは、リリー」
ノアは微笑んだ。
「今日は何を描いているんですか?」
「おうち!」
リリーは画用紙を見せた。大きな家と、庭の木。そして窓から顔を出している犬が描かれていた。
「上手ですね」
ノアが言うと、リリーは得意そうに笑った。
「ノアも描いて!」
「僕もですか?」
「うん!」
ノアは少し困ったように笑った。
「絵はあまり得意ではないんですが」
「いいの!」
リリーは色鉛筆を差し出した。
ノアは少し考えてから受け取った。
「じゃあ何を描きましょうか」
「ねこ!」
「猫ですか」
ノアは頷いた。
そして画用紙に猫を描き始めた。数分後、リリーは完成した絵を見つめていた。
「これ、ねこ?」
ノアは少し困ったように笑った。
「そのつもりです」
エリンは少し離れたところでその様子を見ていた。画用紙には、丸い顔と短い耳、妙に長い脚を持つ動物が描かれていた。猫というより、何か別の生き物に見えた。
リリーは首を傾げた。
「いぬみたい」
ノアは苦笑した。
「そうかもしれませんね」
エリンは思わず笑ってしまった。ノアが振り返った。
「あ、エリン」
「すみません」
エリンは笑いをこらえた。
「でも、ちょっと……」
ノアは画用紙を見た。そして自分でも笑ってしまった。
「やっぱり下手ですね」
リリーは真面目な顔で言った。
「ノア、もっとれんしゅうしたほうがいいよ」
「そうですね」
ノアは頷いた。
「今度、教えてください」
「いいよ!」
リリーは嬉しそうに笑った。エリンも笑った。
そのとき彼女はふと思った。ノアは何でもできるわけではない。大勢の前で話すのは苦手だし、絵も上手ではない。それでもできないことを恥ずかしがったり、取り繕ったりしない。子供に笑われても一緒になって笑っている。その自然さがエリンには心地よかった。
交流会が終わった後。エリンはノアと一緒に会場を片づけていた。
「ノア」
「はい」
「さっきの猫、私は好きですよ」
ノアは苦笑した。
「忘れていただけると助かります」
エリンは笑った。
「無理です」
「そうですか」
「ええ」
エリンは画用紙を重ねながら言った。
「リリーちゃん、きっと覚えてますよ」
ノアは少し考えた。
「次はもう少し上手に描けるようにしておきます」
エリンは笑った。
「楽しみにしています」
2人はしばらく笑い合った。
やがてノアが言った。
「エリン。この前の花火、楽しかったですね」
エリンは顔を上げた。
「ええ」
ノアは微笑んだ。
「僕も久しぶりに、ああいうところへ行きました」
「そうなんですか?」
「はい」
「もっと行けばいいのに」
ノアは少し困ったように笑った。
「そうですね……」
エリンは少し考えてから、思い切って言った。
「またどこかへ行きませんか?」
ノアは手を止めた。
「え?」
エリンは少しだけ緊張した。
「仕事が休みの日に……」
ノアは彼女を見つめていた。エリンは続けた。
「別に特別なところじゃなくていいんです」
言葉を探す。
「コーヒーを飲むとか、散歩するとか」
ノアが何も言わなかったので、エリンは少し不安になった。
「ご迷惑でしたか?」
ノアはすぐに首を振った。そして静かに微笑んだ。
「嬉しいです」
エリンはほっとした。
ノアは少し考えた。
「日曜日なら、時間があります」
エリンは微笑んだ。
「私もです」
ノアは頷いた。
「では、日曜日に」
エリンも頷いた。
「はい」
2人は再び片づけを始めたが、その手はどこかウキウキしているように見えた。
日曜日。エリンは町の中心部にある小さなカフェでノアと待ち合わせた。店は古い煉瓦造りの建物の1階にあり、大きな窓から通りが見えた。店内にはコーヒーの香りが漂っていた。
エリンが到着すると、ノアはすでに窓際の席に座っていた。彼は本を読んでいた。
「ノア」
声をかけると彼は顔を上げた。
「エリン」
そして微笑んだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
エリンは向かいの席に座った。
「お待たせしましたか?」
「いいえ。僕も今来たところです」
エリンは少し笑った。
「本当ですか?」
ノアは少し困ったように笑った。
「10分ほど前です」
「やっぱり」
2人は笑った。
店員が注文を取りに来た。エリンはカフェラテを頼んだ。ノアはブラックコーヒーと、ブルーベリーマフィンを注文した。
エリンは少し驚いた。
「甘いものも頼むんですね」
ノアは微笑んだ。
「本当にお好きなんですね」
「そうですね」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「昔はあまり食べられなかったので」
エリンは彼を見た。ノアはすぐに付け加えた。
「子供の頃の話です」
エリンは静かに頷いた。それ以上は聞かなかった。ノアは少し安心したように微笑んだ。
コーヒーが運ばれてきた。2人はゆっくりと話をした。仕事のこと。町のこと。好きな本のこと。
ノアは歴史や自然科学の本を読むのが好きだと言った。エリンは小説が好きだった。
「どんな小説を読むんですか?」
ノアが尋ねた。
「いろいろですけど……」
エリンは少し考えた。
「最近はあまり重くない話が好きです。最後に少し幸せな気持ちになれるような」
ノアは静かに頷いた。
「いいですね」
エリンは彼を見た。
「ノアはどんなお話が好きですか?」
ノアは少し考えた。
「誰かがもう一度やり直せるような話でしょうか」
エリンは少し驚いた。
「やり直せる?」
「はい」
ノアは頷いた。
「失敗したり、遠回りしたりしても、また歩き始められるような」
エリンは静かに彼を見つめた。
「素敵ですね……」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「そうでしょうか?」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「私もそういうお話は好きです」
ノアは少しだけ嬉しそうに笑った。
ご意見、ご感想、いいね、ブックマーク登録などいただけると励みになります。よろしくお願いいたします。




