名前を呼ぶ日
また少し距離が近づく2人です。
日が暮れた。
公園の照明が点き、川沿いの人々が空を見上げ始めた。やがて放送が花火の開始を告げた。
最初の一発が打ち上がった。鋭い音がして、夜空に赤い光が広がった。少し遅れて大きな破裂音が響いた。
エリンの身体が強張った。思わず肩が跳ねた。
ノアが心配そうに彼女を見た。
「大丈夫ですか?」
エリンはゆっくりと息を吸った。
「はい」
そして空を見上げた。
続いて青い花火が上がった。緑。金色。夜空いっぱいに、鮮やかな光の花が咲いた。周囲から歓声が上がる。
エリンは少しずつ肩の力を抜いていった。花火の音は確かに大きかった。だがここはあの部屋ではない。誰かが怒鳴っているわけではない。誰かが物を投げつけているわけでもない。人々は笑い、歓声を上げている。そして隣にはノアがいた。
エリンは、ゆっくりと息を吐いた。
「綺麗……」
ノアは微笑んだ。
「ええ」
2人は並んで夜空を見上げた。
しばらくして、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。金色の光が夜空いっぱいに広がった。
「わあ!」
エリンは思わず身を乗り出した。そのとき足元の小石に靴が引っかかった。身体が少し傾いた。
「あっ!」
ノアがとっさに手を伸ばした。エリンの腕を支える。ほんの一瞬だった。
エリンはすぐに体勢を立て直した。
「すみません」
ノアはすぐに手を離した。
「大丈夫ですか?」
エリンは頷いた。
「ありがとうございます」
ノアはほっとしたように笑った。
「よかったです」
エリンは、彼の手を見た。大きな手だった。古い傷跡があった。その手は驚くほど優しく自分を支えてくれた。
エリンは少し考えてから静かに言った。
「ベネットさん、私……今、怖くなかったです」
ノアは首を傾げた。
「何がですか?」
エリンは少し言葉を探した。
「男の人に、急に触れられるの」
エリンはゆっくりと続けた。
「以前は、すごく怖かったんです」
エリンは微笑んだ。
「でも、今は怖くなかった」
ノアは少し驚いた顔をした。エリンは彼を見た。
「ベネットさんだったから、だと思います」
ノアは何も言わなかった。花火の音が夜空に響いた。エリンは少し恥ずかしくなった。
「変なこと言いましたね」
ノアは首を振った。
「いいえ」
そして静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
エリンも微笑んだ。
花火が終わった後。2人はゆっくりと会場を後にした。夜風が涼しかった。川沿いの道には、まだ多くの人が歩いていた。
エリンは少し考えていた。先ほどのこと。ノアに腕を支えられたこと。怖くなかったこと。そして、もう一つ。エミリーに言われたこと。
「あなたたち、まだその呼び方なの?」
エリンはノアを見た。
「ベネットさん、お願いがあるんですけど」
ノアは顔を向けた。
「何でしょう?」
エリンは少し迷ったが、思い切って言う。
「私のこと、エリンって呼んでいただけませんか?」
ノアは足を止めた。
「え?」
エリンも立ち止まった。
「病院では、みんなファーストネームで呼び合っているでしょう?」
ノアは頷いた。
「でも、私たちだけ、ずっと姓で呼び合っているから」
エリンは少し笑った。
「何だか、今さらですけど」
ノアは彼女を見つめていた。
エリンは続けた。
「それに……」
少し言葉を探した。
「ベネットさんには、いろいろお話ししましたし……」
ノアは黙っていた。
「もう少し、親しくなれたら嬉しいなって」
その言葉を口にした瞬間、エリンは少し恥ずかしくなった。
ノアは、しばらく何も言わなかった。そして静かに微笑んだ。
「わかりました」
エリンはほっとした。
「ありがとうございます」
ノアは少しだけ戸惑ったように笑った。そしてゆっくりと口を開いた。
「エリンさん……」
エリンは思わず笑った。
「さん、は要りません」
ノアは少し驚いた。
「そうですか?」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「エリン、でいいです」
ノアは少し考えてから静かに言った。
「エリン」
その名前を聞いた瞬間。エリンは胸の奥が温かくなるのを感じた。
不思議だった。ただ名前を呼ばれただけなのに。
それだけで何かが変わったような気がした。
エリンは微笑んだ。
「じゃあ、私も」
ノアは首を傾げた。
「はい?」
エリンは彼を見た。
「ノア」
その名前を口にした瞬間、ノアの表情がわずかに変わった。驚いたような。戸惑ったような。そしてどこか懐かしそうな。
エリンは少し不安になった。
「嫌でしたか?」
ノアはすぐに否定する。
「いいえ」
そして静かに微笑んだ。
「嬉しいです……」
エリンはホッとした。
「よかった」
2人は、再び歩き始めた。夜風が静かに吹いていた。
駐車場に着くと、エリンは車の前で立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
ノアは微笑んだ。
「こちらこそ」
エリンは少し考えてから言った。
「……ノア」
ノアが顔を上げた。
「はい」
エリンは微笑んだ。
「またこういうところに来られたら嬉しいです」
ノアは少し驚いた顔をした。そして静かに頷いた。
「そうですね」
エリンは、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。けれどそれ以上は何も言わなかった。ノアも何も言わなかった。2人は互いに微笑んだ。
「おやすみなさい、ノア」
「おやすみなさい、エリン」
その言葉を交わして2人は別れた。
帰宅したエリンは玄関の鍵を掛けた。一度、ノブを回して確かめる。それから寝室へ向かった。
以前なら、もう一度玄関へ戻っていたかもしれない。しかしその夜は戻らなかった。
ベッドに腰掛け、窓の外を眺めた。遠くで、まだ小さな花火の音が聞こえていた。彼女は今日の出来事を思い返した。
パレード。川沿いの公園。花火。そしてノアに名前を呼ばれたこと。
「エリン」
その声を思い出すと、胸の奥が温かくなった。エリンは少し笑った。
「変なの」
ただ名前を呼ばれただけなのに。こんなに嬉しいなんて。そしてふと思った。
「私、あの人のことが好きなのかな?」
その考えが浮かんだ瞬間、胸が少し苦しくなった。誰かを好きになることは、まだ怖かった。優しい人だと思っていた相手が、いつか別人のように変わってしまう。そんな経験を彼女は忘れられずにいた。
だから今すぐ答えを出す必要はないと思った。ノアがどんな人なのか。何を喜び、何を悲しみ、どんな人生を歩んできたのか。まだ知らないことがたくさんある。それでもこの気持ちだけは、否定したくなかった。
同じ頃。ノアは自宅の居間で椅子に座っていた。
彼は今日の出来事を思い返していた。花火。エリンの笑顔。そして……
「ノア」
彼女が自分の名前を呼んだこと。
ノアはゆっくりと目を閉じた。その声が耳に残っていた。
優しくて。温かくて。どこか、懐かしい声だった。
「エリン」
心の中で、その名前を呼んだ。そして少しだけ微笑んだ。だがその笑顔はすぐに消えた。
ノアは自分の手を見つめた。大きな手だった。古い傷跡があった。その手で、今日エリンの腕を支えた。ほんの一瞬だった。けれど彼女は言った。
「ノアだったから、怖くなかった」
ノアはゆっくりと目を閉じた。胸の奥が痛んだ。
「僕は……」
そこまで考えて、考えることを止めた。エリンは何も知らない。自分の過去を。この手が何をしてきたのかを。
ノアは静かに首を振った。
「これ以上、近づいてはいけない」
そう思った。
だがそれでも……
「またこういうところに来られたら嬉しいです」
エリンの声が耳に残っていた。
ノアはゆっくりと息を吐いた。そして誰もいない部屋で小さく呟いた。
「僕もです……」
その声は静かな夜の中に消えていった。
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