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神様は見ている  作者: ももらら
傷ついた2人

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18/57

名前を呼ぶ日

また少し距離が近づく2人です。

 日が暮れた。

 公園の照明が点き、川沿いの人々が空を見上げ始めた。やがて放送が花火の開始を告げた。

 最初の一発が打ち上がった。鋭い音がして、夜空に赤い光が広がった。少し遅れて大きな破裂音が響いた。

 エリンの身体が強張った。思わず肩が跳ねた。

 ノアが心配そうに彼女を見た。

「大丈夫ですか?」

 エリンはゆっくりと息を吸った。

「はい」

 そして空を見上げた。

 続いて青い花火が上がった。緑。金色。夜空いっぱいに、鮮やかな光の花が咲いた。周囲から歓声が上がる。

 エリンは少しずつ肩の力を抜いていった。花火の音は確かに大きかった。だがここはあの部屋ではない。誰かが怒鳴っているわけではない。誰かが物を投げつけているわけでもない。人々は笑い、歓声を上げている。そして隣にはノアがいた。

 エリンは、ゆっくりと息を吐いた。

「綺麗……」

 ノアは微笑んだ。

「ええ」

 2人は並んで夜空を見上げた。

 しばらくして、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。金色の光が夜空いっぱいに広がった。

「わあ!」

 エリンは思わず身を乗り出した。そのとき足元の小石に靴が引っかかった。身体が少し傾いた。

「あっ!」

 ノアがとっさに手を伸ばした。エリンの腕を支える。ほんの一瞬だった。

 エリンはすぐに体勢を立て直した。

「すみません」

 ノアはすぐに手を離した。

「大丈夫ですか?」

 エリンは頷いた。

「ありがとうございます」

 ノアはほっとしたように笑った。

「よかったです」

 エリンは、彼の手を見た。大きな手だった。古い傷跡があった。その手は驚くほど優しく自分を支えてくれた。

 エリンは少し考えてから静かに言った。

「ベネットさん、私……今、怖くなかったです」

 ノアは首を傾げた。

「何がですか?」

 エリンは少し言葉を探した。

「男の人に、急に触れられるの」

 エリンはゆっくりと続けた。

「以前は、すごく怖かったんです」

 エリンは微笑んだ。

「でも、今は怖くなかった」

 ノアは少し驚いた顔をした。エリンは彼を見た。

「ベネットさんだったから、だと思います」

 ノアは何も言わなかった。花火の音が夜空に響いた。エリンは少し恥ずかしくなった。

「変なこと言いましたね」

 ノアは首を振った。

「いいえ」

 そして静かに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 エリンも微笑んだ。


 花火が終わった後。2人はゆっくりと会場を後にした。夜風が涼しかった。川沿いの道には、まだ多くの人が歩いていた。

 エリンは少し考えていた。先ほどのこと。ノアに腕を支えられたこと。怖くなかったこと。そして、もう一つ。エミリーに言われたこと。

「あなたたち、まだその呼び方なの?」

エリンはノアを見た。

「ベネットさん、お願いがあるんですけど」

 ノアは顔を向けた。

「何でしょう?」

 エリンは少し迷ったが、思い切って言う。

「私のこと、エリンって呼んでいただけませんか?」

 ノアは足を止めた。

「え?」

 エリンも立ち止まった。

「病院では、みんなファーストネームで呼び合っているでしょう?」

 ノアは頷いた。

「でも、私たちだけ、ずっと姓で呼び合っているから」

 エリンは少し笑った。

「何だか、今さらですけど」

 ノアは彼女を見つめていた。

エリンは続けた。

「それに……」

 少し言葉を探した。

「ベネットさんには、いろいろお話ししましたし……」

 ノアは黙っていた。

「もう少し、親しくなれたら嬉しいなって」

 その言葉を口にした瞬間、エリンは少し恥ずかしくなった。

 ノアは、しばらく何も言わなかった。そして静かに微笑んだ。

「わかりました」

 エリンはほっとした。

「ありがとうございます」

 ノアは少しだけ戸惑ったように笑った。そしてゆっくりと口を開いた。

「エリンさん……」

 エリンは思わず笑った。

「さん、は要りません」

 ノアは少し驚いた。

「そうですか?」

「ええ」

 エリンは微笑んだ。

「エリン、でいいです」

 ノアは少し考えてから静かに言った。

「エリン」

 その名前を聞いた瞬間。エリンは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 不思議だった。ただ名前を呼ばれただけなのに。

 それだけで何かが変わったような気がした。

 エリンは微笑んだ。

「じゃあ、私も」

 ノアは首を傾げた。

「はい?」

 エリンは彼を見た。

「ノア」

 その名前を口にした瞬間、ノアの表情がわずかに変わった。驚いたような。戸惑ったような。そしてどこか懐かしそうな。

 エリンは少し不安になった。

「嫌でしたか?」

 ノアはすぐに否定する。

「いいえ」

 そして静かに微笑んだ。

「嬉しいです……」

 エリンはホッとした。

「よかった」


 2人は、再び歩き始めた。夜風が静かに吹いていた。

 駐車場に着くと、エリンは車の前で立ち止まった。

「今日は、ありがとうございました」

 ノアは微笑んだ。

「こちらこそ」

 エリンは少し考えてから言った。

「……ノア」

 ノアが顔を上げた。

「はい」

 エリンは微笑んだ。

「またこういうところに来られたら嬉しいです」

 ノアは少し驚いた顔をした。そして静かに頷いた。

「そうですね」

 エリンは、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。けれどそれ以上は何も言わなかった。ノアも何も言わなかった。2人は互いに微笑んだ。

「おやすみなさい、ノア」

「おやすみなさい、エリン」

 その言葉を交わして2人は別れた。


 帰宅したエリンは玄関の鍵を掛けた。一度、ノブを回して確かめる。それから寝室へ向かった。

 以前なら、もう一度玄関へ戻っていたかもしれない。しかしその夜は戻らなかった。

 ベッドに腰掛け、窓の外を眺めた。遠くで、まだ小さな花火の音が聞こえていた。彼女は今日の出来事を思い返した。

 パレード。川沿いの公園。花火。そしてノアに名前を呼ばれたこと。

「エリン」

 その声を思い出すと、胸の奥が温かくなった。エリンは少し笑った。

「変なの」

 ただ名前を呼ばれただけなのに。こんなに嬉しいなんて。そしてふと思った。

「私、あの人のことが好きなのかな?」

 その考えが浮かんだ瞬間、胸が少し苦しくなった。誰かを好きになることは、まだ怖かった。優しい人だと思っていた相手が、いつか別人のように変わってしまう。そんな経験を彼女は忘れられずにいた。

 だから今すぐ答えを出す必要はないと思った。ノアがどんな人なのか。何を喜び、何を悲しみ、どんな人生を歩んできたのか。まだ知らないことがたくさんある。それでもこの気持ちだけは、否定したくなかった。


 同じ頃。ノアは自宅の居間で椅子に座っていた。

 彼は今日の出来事を思い返していた。花火。エリンの笑顔。そして……

「ノア」

 彼女が自分の名前を呼んだこと。

 ノアはゆっくりと目を閉じた。その声が耳に残っていた。

 優しくて。温かくて。どこか、懐かしい声だった。

「エリン」

 心の中で、その名前を呼んだ。そして少しだけ微笑んだ。だがその笑顔はすぐに消えた。

 ノアは自分の手を見つめた。大きな手だった。古い傷跡があった。その手で、今日エリンの腕を支えた。ほんの一瞬だった。けれど彼女は言った。

「ノアだったから、怖くなかった」

 ノアはゆっくりと目を閉じた。胸の奥が痛んだ。

「僕は……」

 そこまで考えて、考えることを止めた。エリンは何も知らない。自分の過去を。この手が何をしてきたのかを。

 ノアは静かに首を振った。

「これ以上、近づいてはいけない」

 そう思った。

 だがそれでも……

「またこういうところに来られたら嬉しいです」

 エリンの声が耳に残っていた。

 ノアはゆっくりと息を吐いた。そして誰もいない部屋で小さく呟いた。

「僕もです……」

 その声は静かな夜の中に消えていった。

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