告白
エリンがついに勇気を出します!
その日の勤務が終わった後、エリンは病院の裏手にある中庭へ向かった。空は薄い紫色に染まり、風が少し涼しくなっていた。
ベンチにはノアが座っていた。彼は本を読んでいた。
エリンは少し離れたところで立ち止まった。
「声をかけるべきだろうか? 今日はもう十分に迷惑をかけてしまった……」
そう思った。
それでも……
「話したい」
その気持ちのほうが、少しだけ強かった。
エリンはゆっくりと近づいた。
「ベネットさん……」
ノアが顔を上げた。
「少しいいですか?」
「もちろんです」
ノアが本を閉じると、エリンはベンチの端に腰を下ろした。
しばしの沈黙を挟んで、エリンが口を開いた。
「今日のことなんですけど……」
ノアは頷いた。
エリンは自分の手を見つめた。
「どうして、あんなふうになったのか……」
声が少し震えた。
「お話ししてもいいですか?」
ノアはすぐには答えなかった。そして静かに言った。
「ウォーカーさんが話したいと思われるなら……」
ノアは続けた。
「ただ無理に話す必要はありませんよ」
エリンはゆっくりと頷いた。
そしてまたしばらく沈黙が続いた。エリンは何度か口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。
ノアは何も言わなかった。ただ待っていた。
やがてエリンが小さく息を吸った。
「私……」
声が震えた。
「以前、付き合っていた人がいたんです」
エリンは膝の上で両手を握りしめた。
「最初はとても優しい人でした」
ノアは何も言わなかった。
「仕事で疲れているときは、食事を作ってくれたり……」
エリンは少し笑った。
「誕生日には花をくれたり……」
その笑顔はすぐに消えた。
「でも少しずつ……変わっていったんです」
ノアは静かに聞いていた。
「友達と会うのを嫌がるようになって」
エリンは言葉を探した。
「男の同僚と話しただけで、怒るようになって……」
声が震えた。
「私の行動に全部口を出すようになって」
エリンはゆっくりと続けた。
「最初は私のことが好きだからだと思っていました」
自分でも馬鹿みたいだと思った。けれどあの頃は本当にそう信じていた。
「でも……」
エリンは唇を噛んだ。
「ある日、殴られたんです」
ノアの表情がわずかに変わった。それでも何も言わなかった。
エリンは視線を落とした。
「初めてのときは、すぐに謝ってくれました」
涙が浮かんだ。
「二度としないって、約束して……」
エリンは震える声で続けた。
「でもまた殴られて」
ノアは静かに聞いていた。
「そのたびに謝ってくれたんです」
エリンは少し笑った。
「私……馬鹿ですよね?」
ノアは首を振った。
「いいえ」
エリンは顔を上げた。ノアはそれ以上何も言わなかった。
エリンは再び視線を落とした。
「私、信じてたんです」
涙がこぼれた。
「今度こそ変わってくれるって」
ノアは黙っていた。
「でも、変わらなかった……」
エリンは両手を握りしめた。
「最後は……」
言葉が詰まった。
ノアは静かに待った。
エリンは何度か息を吸って、ようやく言った。
「首を……絞められたんです」
ノアの手がわずかに動いたが、エリンは気づかなかった。
「本当に死ぬと思いました……」
涙が頬を伝った。
「……怖かった」
ノアは何も言わなかった。
「すごく怖かったんです……」
エリンは顔を覆った。
「でも、私……」
声が震えた。
「逃げられなかったんです……」
ノアは静かに聞いていた。
「もっと早く逃げればよかったのに」
エリンは泣きながら言った。
「何度もチャンスはあったのに」
ノアは何も言わなかった。
「私が馬鹿だったんです」
エリンは顔を覆ったまま続けた。
「だからあんなことになって……」
そのとき……
「違う!」
ノアが大きな声で否定した。エリンは顔を上げた。
ノアは彼女を見ていた。しかしその顔は、いつもの穏やかな表情ではなかった。
悲しそうだった。そして目に涙が浮かんでいた。
「ベネットさん?」
エリンは驚いた。
ノアがゆっくりと首を横に振る。
「違うよ……」
声が震えていた。
「君が悪いんじゃない」
確かにノアの声は震えていた。
「そんなに怖い思いをして……」
エリンは彼を見つめた。ノアの目から涙がこぼれた。
「そんなに辛い思いをして……」
ノアは言葉を詰まらせた。
そして静かに言った。
「よく頑張ったね」
エリンは動かなかった。
「偉かったね」
その言葉を聞いた瞬間。エリンの胸の奥で何かが崩れた。
「え?」
声が出た。
「偉かった……って?」
ノアは涙を拭おうともせず、頷いた。
「どうして?」
エリンの声も震えた。
「私、逃げられなかったのに……」
ノアは首を振った。
「それでも……」
彼は静かに言った。
「君は生きてここまで来たんだ」
エリンの目から涙がこぼれた。
「怖かったのに……」
ノアは続けた。
「辛かったのに……」
声が震えた。
「それでも頑張って生きてきたんだ……」
エリンは何も言えなかった。
「悪いのは君を傷つけた人だよ」
エリンは唇を噛んだ。
「君は何も悪くない」
その瞬間……エリンは声を上げて泣き始めた。長い間、心の奥に押し込めていたものが一気に溢れ出した。
怖かった
苦しかった
悲しかった
誰かに助けてほしかった
けれど誰にも言えなかった
自分が悪いのだと思っていた。もっと早く逃げればよかった。もっと強くなればよかった。もっと賢ければよかった。そうやって何度も自分を責めてきた。
「偉かったね」
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「よく頑張ったね」
誰もそんなふうに言ってくれなかった。
「大変だったね」「辛かったでしょう」「可哀想に」
そう言ってくれた人はいた。
けれど……偉かった、なんて。
エリンは泣き続けた。ノアは何も言わなかった。ただ隣に座っていた。
手を伸ばそうとはしなかった。抱きしめようともしなかった。彼女が泣き終わるまで、ただそこにいた。
どれくらい時間が経ったのだろう。エリンはようやく顔を上げた。
目は赤く腫れていた。頬には涙の跡が残っていた。
「ごめんなさい」
その謝罪にノアは首を振った。
「謝らなくていいよ」
エリンは少し驚いた。ノアの言葉遣いがいつもと違っていた。だがそのことを指摘する気にはならなかった。
「私……」
エリンは涙を拭った。
「こんなに泣いたの、久しぶりです」
ノアは静かに頷いた。
「そうなんだね」
エリンは少し笑った。
「変ですよね?」
「変じゃないよ」
エリンは彼を見た。ノアは静かに微笑んだ。
「泣きたいときは、泣いていいんだよ」
エリンは再び涙を浮かべた。
ただ今度は少し違った。胸の奥が温かかった。
「ありがとうございます」
エリンは心から言った。ノアは少しだけ微笑んだ。
「どういたしまして」
その夜。エリンは自宅の寝室でベッドに腰掛けていた。窓の外には月が浮かんでいた。
彼女は今日の出来事を思い返していた。
自分の過去を話したこと。泣いてしまったこと。
そして……ノアが涙を流していたこと。
エリンはゆっくりと目を閉じた。
「あの人、泣いてくれた」
自分の話を聞いて。自分のために。涙を流してくれた。そのことが信じられなかった。
これまで誰かに過去を話すことが怖かった。軽蔑されるかもしれない。責められるかもしれない。そう思っていた。
だがノアは違った。責めなかった。理由を問い詰めなかった。どうして逃げなかったのかとも言わなかった。
ただ悲しんでくれた。そして……
「よく頑張ったね」
「偉かったね」
エリンはもう一度、その言葉を思い返した。涙が頬を伝った。
今度の涙は悲しみではなかった。
長い間、誰にも認めてもらえなかった自分の苦しみを初めて誰かが受け止めてくれた。そんな気がした。
エリンはゆっくりと横になった。そして目を閉じた。その夜、彼女は穏やかな眠りについた。
同じ頃。ノアは自宅の居間で椅子に座っていた。
部屋の明かりはつけていなかった。窓から差し込む月明かりが床を淡く照らしていた。
彼は自分の手を見つめていた。大きな手だった。指は長く、節が目立ち、甲には細かな皺が刻まれていた。古い傷跡もあった。
ノアはゆっくりと指を曲げた。そして今日の出来事を思い返した。
ウォーカーさんが過去を話してくれたこと。
泣いていたこと。
そして自分も涙を流してしまったこと。
ノアはゆっくりと息を吐いた。
「どうしてあんなに悲しかったんだろう?」
もちろん悲しい話だった。誰が聞いても胸が痛むような話だった。
けれど……
自分の中にあれほど強い感情が生まれた。そのことにノアは驚いていた。長い間、誰かのために涙を流したことがなかった。自分のことでも涙は流さなかった。
悲しいと思うことはあった。辛いと思うこともあった。でも涙は出なかった。
それなのに……
ウォーカーさんの話を聞いているうちに、自然に涙がこぼれた。
ノアは目を閉じた。
「あの人はよく頑張った」
そう思った。
怖かっただろう。苦しかっただろう。誰かに助けてほしかっただろう。それでも生きてここまで来た。
ノアは静かに息を吐いた。
「幸せになってほしい」
心からそう思った。
「僕にはそんな資格はないけれど……。彼女には幸せになってほしい」
ノアは自分の手を見つめた。
その手は今日誰にも触れなかった。泣いているエリンの肩にさえ触れなかった。
触れてはいけない気がした。彼女を怖がらせたくなかった。そしてそれだけではなかった。自分の手が誰かを慰めることに、どこか後ろめたさを感じていた。
ノアはゆっくりと目を閉じた。
「ウォーカーさん……」
誰もいない部屋で小さく呟いた。そして静かに続けた。
「どうか幸せになってください」
その優しい言葉は暗い部屋の中で溶けていった。
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