決断
エリンがついに決断します。
7月に入り、町は夏らしくなった。病院の駐車場を囲む木々では、朝から鳥たちが騒がしく鳴いていた。中庭の花壇には赤いゼラニウムが咲き、職員用の休憩室では誰が冷房の温度を上げたの下げたのと、毎日のように小さな論争が起きていた。
エリン・ウォーカーがこの町に来て、8ヶ月近くが過ぎようとしていた。以前の生活を思い出さない日はまだなかった。それでも思い出す回数は減っていた。目を覚まして最初に考えるのが、デレクのことではなくなった。
「今日はどんな患者を受け持つのか」「昼休みにエミリーと何を食べようか」「仕事が終わったらマーサの店に寄ろうか」。そんなごく普通のことを考えられるようになっていた。
そしてときどき……
「今日はベネットさんと話せるだろうか」
そんなことも考えるようになっていた。
その日の昼休み、エリンはカフェテリアでエミリーと向かい合っていた。
「ねえ、エリン」
エミリーがサンドイッチを置いた。
「あなた、今度の土曜日空いてる?」
「土曜日?」
「町の北側に新しいイタリアンレストランができたでしょう。行ってみない?」
エリンは少し考えた。
「いいわね」
「決まり!」
エミリーは嬉しそうに笑った。
「じゃあ19時くらいにしようか」
エリンが頷くと、エミリーは何気ない調子で言った。
「ノアも誘おうかしら」
エリンは顔を上げた。
「ベネットさんを?」
「そう。最近忙しそうだし……。たまには仕事以外のこともしたほうがいいと思わない?」
エリンは頷いた。
「それはそう思う」
エミリーは少し笑った。
「じゃあ誘ってみるわね」
エリンは頷いて水を一口飲んだ。そのときエミリーが首を傾げた。
「あなた、嫌じゃないの?」
「何が?」
「ノアも一緒に食事すること」
エリンは驚いた。
「どうして嫌なの?」
「いや、別に……」
エミリーは肩をすくめた。
「何となく聞いてみただけ」
エリンは少し考えてから微笑んだ。
「楽しそうだと思うわ」
エミリーは彼女の顔をしばらく見つめていた。
「そう……」
「何?」
「何でもない」
エミリーは笑った。
「じゃあ声をかけてみるわね」
翌日。エミリーはリハビリテーション室の前でノアを見つけた。
「ノア!」
ノアが振り返った。
「あ、エミリーさん」
「ちょっといい? 今度の土曜日、夕食を食べに行かない?」
ノアは少し驚いた。
「夕食ですか?」
「そう。新しくできたイタリアンのお店。エリンも一緒よ」
ノアは一瞬、黙った。エミリーはその反応を見逃さなかった。
「どう?」
ノアは少し考えた。
「ありがとうございます。でも……」
「でも?」
「土曜日は予定がありまして」
エミリーは残念そうな顔をした。
「あら、そうなの」
「すみません」
「いいのよ。急に誘ったんだし」
ノアは微笑んだ。
「また機会があれば」
「ええ。ぜひ」
エミリーは頷いた後、前から訊きたかった質問をぶつけた。
「ねえ、ノア。あなたって休みの日は何してるの?」
ノアは考えた。
「そうですね。家のことをしたり、本を読んだり……」
「それだけ?」
「散歩をすることもあります」
エミリーはため息をついた。
「何だかおじいちゃんみたい」
ノアは困ったように笑った。
「そうでしょうか?」
「そうよ」
エミリーは笑った。
「たまには若者らしいこともしなさいよ」
ノアは少し考えた。
「若者らしいこと……ですか」
「そう」
エミリーは頷いた。
「友達と食事するとか、映画に行くとか」
ノアは微笑んだ。
「そうですね」
「じゃあ次は断らないでよ」
「予定が合えば」
「もう!」
エミリーは笑いながら去っていく。ノアはその背中を見送ってから小さく息を吐いた。
土曜日の夜。エリンとエミリーは、新しく開店したイタリアンレストランで食事をしていた。店内には赤いチェック柄のテーブルクロスが掛けられ、壁にはイタリアの風景写真が飾られていた。
「美味しい!」
エミリーがパスタを口に運びながら言った。
「美味しいね。この町にも、こんなお店ができるとはね」
「失礼ねえ」
エミリーは笑った。
「田舎だって美味しいものはあるのよ」
2人は笑った。
しばらくしてエミリーが言った。
「ノア、来られなくて残念だったわね」
エリンはフォークを置いた。
「そうね」
「残念?」
エリンは一瞬だけ考えた。
「少し……」
エミリーは目を細めた。
「へえ」
「何?」
「いや……正直だなと思って」
エリンは笑った。
「だってせっかく誘ったんでしょう?」
「そうね」
エミリーはワインを一口飲んだ。そして少し真面目な顔になった。
「ねえ、エリン。あなた、この町に来てからずいぶん変わったわね」
エリンは驚いた。
「そう?」
エミリーは頷いた。
「最初の頃は、いつも少し緊張してた」
エリンは黙った。
「誰かに話しかけられると、まず相手の顔色を確かめるみたいなところがあったし……」
エリンはゆっくりと視線を落とした。
エミリーは続けた。
「でも最近はよく笑うようになった」
エリンは小さく微笑んだ。
「そうかもしれない」
エミリーは優しく笑った。
「私は今のあなたのほうが好きよ」
エリンは顔を上げた。
「ありがとう……」
エミリーがいつもの悪戯っぽい笑顔に戻った。
「美人なところは最初から変わらないけどね!」
エリンは笑った。
「何よ、それ?」
「褒めてるのよ!」
2人は笑った。
笑いながらもエリンの胸には先ほどの言葉が残っていた。
最近はよく笑うようになった。
自分でもそう思う。この町に来てから少しずつ。本当に少しずつ。笑えるようになっていた。
翌週の火曜日。その日は朝から忙しかった。
病棟では急な入院患者があり、看護師たちは慌ただしく動き回っていた。エリンは午前中からほとんど休む暇がなかった。
午後3時頃。ようやく一息ついた彼女は、ナースステーションで書類を整理していた。
そのとき廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「ふざけるな!」
男の声だった。エリンの手が止まった。
「何で俺がそんなことしなきゃならないんだ!」
続いて何かが床に落ちる音がした。大きな音だった。
エリンの身体が強張った。一瞬目の前の景色が変わったような気がした。
狭いアパートの居間。床に落ちた皿。壁にぶつかって割れたグラス。
そしてデレクの怒鳴り声。
「お前が悪いんだろ!」
エリンは息を吸おうとしたが、うまく吸えなかった。
胸が苦しい。指先が冷たい。
「違う。ここはあの部屋じゃない」
そう思っても身体が言うことを聞かなかった。
「ウォーカーさん?」
声がした。
エリンが振り返ると、ノアが心配そうな顔で立っていた。
「ベネットさん……」
声が震えた。
「大丈夫ですか?」
エリンは頷こうとしたがうまくできなかった。
「はい」
そう答えたつもりだったが、声はほとんど出なかった。
ノアはすぐに近づこうとはしなかった。少し離れたところで静かに言った。
「とりあえず座りませんか?」
ノアは続けた。
「お疲れのようですから」
エリンはゆっくりと頷いた。
ノアが近くの椅子を指した。
「こちらに」
エリンは椅子に腰を下ろした。ノアは少し離れたところに立っていた。
「お水を持ってきましょうか?」
エリンは首を横に振った。
「大丈夫です」
ノアは頷いた。そして少し間を置いて言った。
「ここにいても、よろしいですか?」
エリンは顔を上げた。
「はい……」
ノアも椅子に腰を下ろした。2人の間には少し距離があった。
しばらく何も話さなかった。廊下の向こうでは、まだ職員たちが慌ただしく動いていた。先ほどの怒鳴り声は聞こえなくなっていた。
エリンがゆっくりと呼吸を整える。ノアは何も尋ねなかった。
「どうして怖がったのか」「何があったのか」
そんなことを一切聞かなかった。ただそこにいた。エリンは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
10分ほど経った頃、エリンが口を開いた。
「すみません……」
ノアは顔を上げた。
「何がですか?」
「ご迷惑をおかけして……」
ノアは否定する。
「そんなことはありません」
エリンは視線を落とした。
「私、時々こういうことがあるんです……」
ノアは黙って聞いていた。
「大きな声とか、物が落ちる音とか……」
エリンは言葉を探した。
「そういうのが少し苦手で……」
ノアは静かに頷いた。
「そうでしたか」
エリンは少し驚いた。
「どうして」「何があったのか」「いつからなのか」
そんな質問はなかった。ノアはただ彼女の言葉を受け止めていた。
「変ですよね?」
エリンは小さく笑った。
ノアは首を振る。
「変だとは思いません」
エリンは顔を上げた。
「本当に?」
「はい」
ノアは静かに答えた。
「苦手なものは、人それぞれですから」
エリンはしばらく彼を見つめていた。そしてゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます……」
ノアは微笑んだ。
「少し落ち着かれましたか?」
「はい」
「よかったです」
エリンは少し笑った。ノアも笑った。
そのときエリンは思った。
「この人には話してもいいのかもしれない」
そんな考えが初めてはっきりと浮かんだ。
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