お礼の焼き菓子
忘れていましたが、スーザンはアネット・ベニングさんで。包容力と優しさ、上司としての威厳を体現するのに適した役者さんです。
駐車場でノアに車を見てもらった翌日。エリンは昼休みにカフェテリアでエミリーと食事をしていた。
「昨日、車が故障したんですって?」
エミリーが尋ねた。
「ええ」
「大変だったわね」
「本当に」
エリンは頷いた。
「でもベネットさんが助けてくださったの」
エミリーは顔を上げた。
「ノアが?」
「ええ」
「ふうん」
エミリーは意味ありげに頷くので、エリンは眉をひそめた。
「何?」
「別に?」
「またその顔!」
エミリーは笑った。
「ノアって本当にお人好しよね」
「そうね。雨の中ずぶ濡れになってまで助けてくださって」
「へえ」
「何?」
「いや、あなた、嬉しそうだなと思って」
エリンは少し驚いた。
「そう?」
「ええ。とっても!」
エミリーは笑った。
「まあ助けてもらったんだから当然か」
エリンは頷いた。
「そうよ」
しかしエミリーの言葉が、少しだけ胸に残った。
「嬉しそう」
確かに嬉しかった。車が動くようになったことも。助けてもらったことも。
でもそれだけではない気がした。
数日後……エリンはミラー夫妻の店で小さな紙袋を買った。中には焼き菓子が入っている。以前、マーサがノアに渡したものと同じ種類。
エリンは少し迷った末に、それを病院へ持っていった。
昼休み。リハビリテーション室の前でノアを見つけた。
「ベネットさん」
ノアが振り返った。
「ウォーカーさん、お疲れさまです」
「少しよろしいですか?」
「もちろんです」
エリンは紙袋を差し出した。
「これ! よかったら」
ノアは驚いた。
「僕に……ですか?」
エリンは微笑んだ。
「この前、車を見ていただいたお礼です」
ノアは少し困った顔をした。
「そんな……お気遣いいただかなくても」
「そう言われると思いました」
エリンは笑った。ノアも少し笑った。
「でも、私がそうしたいんです。助けていただいて、本当に嬉しかったので」
「ありがとうございます」
ノアが紙袋を受け取る。
エリンは少し安心した。
「マーサさんのお店のクッキーです」
「そうなんですね」
ノアは笑った。
「以前もいただきました」
「覚えています」
エリンは微笑んだ。
「あのときは、私にも分けてくださろうとしましたよね」
ノアは少し驚いた。
「覚えていらしたんですか?」
「ええ」
エリンは頷いた。
「あのときは、遠慮してしまって。私は受け取りませんでしたけど」
「そうでしたね」
「ベネットさんは断らず、受け取っていただけたので安心しました」
ノアは少し不思議そうに彼女を見た。
「どうしてですか?」
「ベネットさんに喜んでいただきたかったので」
ノアは何も言わなかったが、ほんの一瞬彼の表情が変わった。
驚いたような。戸惑ったような。そしてどこか悲しそうな。
エリンは少し不安になった。
「ご迷惑でしたか?」
ノアは慌てて首を横に振った。
「いいえ」
そして、微笑んだ。
「とても嬉しいです」
エリンは、ほっとした。
「よかった」
ノアは紙袋を見つめながら小さく言った。
「大切にいただきますね」
その日の夕方。エリンは病院の裏手にある中庭でノアを見かけた。彼はベンチに座り、紙袋からクッキーを1枚取り出していた。
エリンは少し離れたところから声をかけた。
「ベネットさん」
ノアが顔を上げた。
「お味はどうですか?」
ノアは微笑んだ。
「とても美味しいです」
エリンは笑った。
「マーサさんに伝えておきますね」
「お願いします」
エリンは、少し迷いながら尋ねた。
「ここ、座ってもいいですか?」
「もちろんです」
エリンは、ベンチの端に腰を下ろした。2人の間には、いつものように少し距離があった。
しばらく何も話さなかった。風が吹いた。木々の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。
ノアはクッキーをもう1枚取り出した。そして少し迷ってから、エリンに差し出した。
「よかったら」
エリンは彼を見た。以前、マーサの店、同じように焼き菓子を差し出されたことを思い出した。
あのときは、断った。怖かったからだ。誰かの親切を受け取ることが。
けれど今は……。
エリンは微笑んだ。
「ありがとうございます!」
クッキーを受け取った。
ノアも微笑んだ。
2人は、並んでクッキーを食べた。何でもない時間だった。
ただベンチに座り、甘い焼き菓子を食べているだけ。だがエリンには、その時間が不思議なほど心地よかった。
しばらくして、アが言った。
「ウォーカーさん、この町に来てよかったですか?」
エリンは少し驚いた。
「え?」
ノアは少し申し訳なさそうに笑った。
「以前、まだ慣れないとおっしゃっていたので」
エリンはしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。
「はい」
ノアは微笑んだ。
「それは、よかったです」
エリンは彼を見た。
「私、この町に来て本当によかったと思っています」
ノアは頷いた。
「親切な人がたくさんいるので」
エリンは、もう一度言った。
「本当によかったです」
その言葉には、彼女自身も気づかないほど多くの思いが込められていた。
その夜。エリンは自宅の寝室でベッドに腰掛けていた。窓の外ではまた雨が降り始めていた。
彼女は今日の出来事を思い返していた。
ノアと並んで座ったベンチ。
分け合ったクッキー。
そしてあの質問。
「この町に来て、よかったですか?」
エリンは、ゆっくりと息を吐いた。
「よかった」
本当にそう思っていた。
以前の町にいた頃は、毎日が怖かった。誰かの機嫌を損ねないように。怒らせないように。傷つけられないように。ただ、それだけを考えていた。
だが今は違う。自分の意見を言える。断ることができる。誰かに助けを求めることも、少しずつできるようになってきた。そして、誰かの親切を、素直に受け取ることも。
エリンは両手を見つめた。
「ベネットさん……」
その名前が心の中に浮かんだ。
彼は何も特別なことをしていないのかもしれない。ただ困っている人を助ける。相手の話を聞く。無理に踏み込まない。それだけだ。
エリンにとっては、その「それだけ」が、とても大切だった。
彼女は、少し迷った。そして初めてはっきりと考えた。
「いつか話してもいいのかな」
デレクのこと。逃げてきたこと。今でも怖いこと。誰にも知られたくなかった過去。
「でもベネットさんなら……」
そう思った瞬間、胸が少し苦しくなった。怖かった。
もし軽蔑されたら。もし「どうして逃げなかったのか?」と責められたら。
エリンはゆっくりと首を振った。
「まだ……無理」
そう思った。それでも、その夜彼女は初めて自分の過去を誰かに話すことを完全には否定しなかった。
同じ頃。ノアは自宅の台所で、クッキーの入っていた紙袋を畳んでいた。中身はもうほとんど残っていなかった。
彼は最後の1枚を取り出した。そして少し笑った。
「美味しかったな……」
そう思った。それからふと考えた。
「ウォーカーさんは、どうして自分にクッキーをくれたのだろう?」
車を見たお礼だと言っていた。それはわかる。しかし……
「ベネットさんに喜んでいただきたかったので」
あの言葉が胸の中に残っていた。
誰かが自分を喜ばせようとしてくれる。それは久しぶりのことだった。
ノアはしばらく紙袋を見つめていた。そして静かに呟いた。
「ありがとうございます」
誰もいない部屋。返事はなかった。
ノアは最後のクッキーを口に運んだ。甘い味がした。それなのに、なぜか胸の奥が少し痛んだ。
「僕にはもったいない」
そう思った。そしてすぐに首を振った。
「そんなことを考えるのはやめよう」
ノアは紙袋を片づけた。窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
その夜、2人はそれぞれの部屋で、同じ雨音を聞いていた。そして互いのことを、ほんの少しだけ考えていた。
まだ恋とは呼べない。だがもうただの同僚でもなかった。
2人の間には、少しずつ、確かな信頼が育ち始めていた。
その信頼が、やがて一人の女性に長い間閉ざしていた心の扉を開かせることになる。
それは、もう少し先のことだった。
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