第2章 迷宮脱出後、幽霊の初体験を捧げそうになった? いや、完全に捧げてた!
【左!】
左へ流れた。スケルトンの錆剣が幽霊の身体をかすめて壁に突き刺さり、石屑が飛び散る。
【右!】
二体目の丸盾が右から迫ってきて、あたしは上体を反らした。盾が目の前を通過していく。その風で前髪がぐしゃっと乱れた。
……幽霊の前髪が風で乱れるって時点で、いろいろおかしいだろ。
「幽霊さん! この先、三つ目の角を左!」
ココルがあたしの背中にしがみついたまま、耳元で叫ぶ。吐く息がまだ熱い。
「三つ目? 左?」
「うん! その次は二つ目を右、あとは真っ直ぐ――」
「待て待て待て、ゆっくり言え! 覚えきれねえ!」
「幽霊なんだから、道くらい覚えてよ!」
「あたし、自分の名前だってさっき思い出したばっかりなんだぞ! 迷宮の地図とか無理に決まってんだろ!」
スケルトンの足音が背後でどんどん迫ってくる。ココルを背負ったまま迷宮の通路をジグザグに逃げて、曲がるたびに彼女が落ちそうになる。
「右! 右!」ココルが急に肩を叩いた。
「右?」
「違う、左! 左!」
「どっちだよ!!」
「左! 左って言ってんの! 曲がって!」
【この子の方向指示、迷宮よりよっぽど迷わされるんですけど】
左の通路に飛び込む。背後でスケルトンが壁に激突する、ガシャッという音がした。
ココルが背中でくすくす笑って、すぐにまた咳き込む。
「笑うな、咳されると落ち着かねえ」
「ごめん……でも幽霊さん、さっきの曲がり方ちょー滑稽だったよ。身体斜めにしてぷわーって流れてくんだもん……」
「あれはテクニカルドリフトだ」
ようやく、通路の突き当たりに光が見えた。壁の割れ目から漏れる細い光じゃない。出口から真正面に差し込んでくる、本物の光。
「ココル! 出口!」
「見えてる! 行って!」
あたしは幽霊人生最大の力を振り絞って飛んだ。背後でスケルトンの手の骨が――足はないけど――かすりそうで気持ち悪い。そのまま洞口から飛び出す。
陽だ。マジで陽だ!!
陽の光があたしの身体を貫いて、ふわっと温かい。
【幽霊でも日光って感じるんだな】
呆気に取られてた。光が淡い青の半透明の腕を抜けて、内側で薄い金色に広がっていく。熱くない。眩しくもない。冬にお湯に手を突っ込んだときみたいな――目を細めたくなるような温かさ。
「幽霊さん……着いた?」
「ああ、着いた」
崩れかけた壁を見つけて、ココルを下ろして寄りかからせた。顔は相変わらず真っ白で、唇はさっきより紫に近い。でも陽の下だと、まだ人間の色をしてる。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと休ませて」目を閉じて、胸の上下が少し速い。
【迷宮からずっと背負って走って、実体化のクールタイムも来てる。ここで休憩だな】
その横に漂って体勢を整えた――そのときだった。
「ギギギギ! ギャッギャッ!」
草むらから緑の小男が四匹飛び出してきた。
腰くらいの高さ。木の棒を握って、耳はとんがって、鼻が長い。顔には「今日はツイてるぜ」って感じの下品な笑みが張り付いてる。
ゴブリン。下級モブ。でも群れになったら話は別だ。先頭が口を開いて、べちゃべちゃと何か喚いてる。
「ギャッ! ギャッギャッギャッ! ギ――ャ!」
【「こんなとこで人間に会うとか! しかもチビ! 今日はツイてる! 捕まえて部族に連れてけば仲間が増えるぞ!」】
一瞬、固まった。――あたし、魔物の言葉がわかる。
【え、わかるの? 幽霊って魔物語翻訳機能の標準装備でもあんの?】
でも、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
ココルが壁に寄りかかったまま、弱々しくゴブリンたちに手を挙げた。
「あの……みなさん?」声は柔らかいまま、熱でかすれてる。「ココルっていいます……」
【ゴブリンに挨拶してる。この子、魔物語が聞こえてない。人間の言葉が通じると思ってるんだ】
ゴブリンたちが顔を見合わせて、次の瞬間ギャッギャッと大笑いした。先頭のゴブリンが棍棒で手のひらをトントン叩いて、ココルに近づいてくる。
「ギャッギャ! ギ――ャ!」
【「チビが挨拶してやがる! ハハハ! バカじゃねえの!」】
「幽霊さん……」ココルが困惑した顔であたしを見た。「なんて言ってるの? なんか笑い方が嫌なんだけど……」
あたしは彼女の前に回り込んだ。
「ココル、こいつらは世間話しに来たんじゃない」
「え?」
先頭のゴブリンが棍棒を振り上げて、ココルに突っ込んでくる――
【動け! 実体化はクールタイム中だ! 手が抜ける! 何か――】
頭の中に、パッと光が走った。
【スキル《いたずらっ子》解放。効果:十メートル以内の小型物体を遠隔操作。クールタイム:なし。持続時間:十秒。備考:言うことを聞かない魔法。《いたずら》にしか使えない】
【なんだその名前のスキル――って、今はそれどころじゃねえ!】
手を伸ばす。
【操れ!】
ゴブリンAの棍棒がクルッと捻れて、ゴキッという音と共にゴブリンBの後頭部を殴打。Bが「うおっ!」と前のめりに倒れ、手から離れた棍棒が空中で一回転してゴブリンCの鼻面にドパン。Cが鼻を押さえてのけ反り、後ろのDをなぎ倒す。Dの手から離れた棍棒がぴょんっとあたしの手元に飛んできて――実体化がちょうど一秒だけ復活してたから受け止めて、そのまま振り抜いてDも昏倒させた。
四匹のゴブリンが地面に倒れて、緑のソウルフラグメントになった。
「……今、あたし何か変なもん使った?」自分の手を見る。
ステータスを確認する。
【《いたずらっ子》。十メートル以内の物体操作。クールタイムなし】
散らばったソウルフラグメントに手をかざす。緑の光が十メートル先から吸い寄せられて、掌に溶け込んだ。
【ソウルフラグメント吸収。経験値+40。現在Lv.2。《いたずらっ子》を記録しました】
【このスキル、タイミング良すぎだろ! ココルが狙われた瞬間に覚醒とか! 持ってるなあたし!】
ココルのところへ漂っていく。彼女はまだ壁に寄りかかったまま、薄紫の瞳をぽかんと見開いてた。
「幽霊さん……今、何したの?」
「新スキル覚えた。物体の遠隔操作」肩をすくめる。「名前が《いたずらっ子》。あたしにぴったりだろ」
「いたずらっ子……」ココルがぷっと吹き出して、また咳き込んだ。「せ、咳――名前バカみたい――」
「おい、笑うな。まだ熱あんだろ」
「でも……咳……ホントおかしい……いたずらっ子……ふふっ――」
「ココル」
笑いながら、彼女の目尻が少し湿ってた。あたしは何も言わず、少し低い位置まで降りた。
「動けるか?」
「うん……もうちょっとだけ、寄らせて」
銀の髪に陽が当たって、ちょっと眩しいくらい。
【「もうちょっと」って言うときの声、ほんとに今にも消えそうで嫌になる】
その横に座るように漂って、林の隙間から町の屋根がちらほら見えるのを眺めた。
「ココル、町はもうすぐだ。お前が道案内して、あたしが背負う」
「ん……うん」
手を出す。握る。実体化の時間がちょうど間に合って、彼女を引き起こして背中に乗せた。
「今度はどっち?」
「まっすぐ。で、最初の角を左、その次は右」
「本気で言ってる?」
「天才魔法使いだもん。方向感覚も天才級」
「でも迷宮の中、あっちこっち曲がらせたじゃん」
「あれは迷宮が悪い」
【はいはい、全部迷宮のせいな】
町は想像より小さかった。
石造りの家が数十軒固まってて、屋根の煙突から煙が出てる。通りの人影はまばらで、たまに獣人やドワーフが見えるくらい。人間は珍しいらしく、ココルが通ると視線が集まった。背負われてるとはいえ、その針みたいな視線がじりじりと刺さる。
「何見てんだ」小声で呟く。
「幽霊さん、通行人に怒らないで……」ココルが背中で小さく言った。
「怒ってねえよ、独り言だ」
「でも独り言、町中に聞こえてたよ……」
ココルの家は町の端っこにあった。
あたしより低い石小屋で、扉が斜めに歪んでる。開けるとギィと鳴った。中はベッド一つ、棚一つ、机一つ。冷え切ってて、倉庫みたいだ。
「狭いな」
「一人暮らしだもん……」ココルがあたしの背中からずるっと滑り落ちて、ベッドに倒れ込んだ。
覗き込む。頬の熱はさっきより酷くて、額に触れた指先がじんじん痺れる。全身が震えて丸まってるのに、唇はまだ紫のまま。
「ココル? ココル!」
「薬が……棚に……」目を閉じたまま、指が棚の方を指す。
あたしは棚へ漂って扉を開けた。小瓶がいくつか並んでて、ラベルに「魔力回復薬・下級」と書いてある。一本掴んで戻り、実体化一秒で栓を抜いて、彼女の頭を起こして流し込んだ。
ココルは二口飲んで、数秒経って――
「……効かない」目を開けて、声がかさかさ。「今回は酷く使いすぎたの。それに、あたしの病気は……外からの薬じゃ補えない」
【補えない? じゃあどうすんだ! このまま熱が続いたら死ぬぞ!】
「他に方法……あるよ」ココルが弱々しく言った。
「何だ? 言え! 探してくる!」
「あなたが……あたしに魔力を回して」
「どうやって?」
ココルは何も言わない。視線をちょっと横に逸らして、もともと赤い顔がもう一段階赤くなった気がした。
そして、小さな人差し指で、自分の口を指さした。
【……】
【待て】
【その意味、あたしにもわかる】
【口】
【そう、口】
【口と口】
【口づけで魔力伝達】
【あたし、幽霊。相手は十二歳の、もうすぐ死ぬ、毒舌で虚弱なロリ。口づけとか】
「…………」
「…………」
「ココル」
「ん」
「お前、あたしにキスしろって言ってるよな」
「キスじゃない! 魔力伝達!」声が一気に跳ね上がって、それで咳き込む。「こ、咳――魔力伝達! 魔法の話! 変な風に言わないで!」
「でもやり方は口同士だろ」
「それは魔法回路の接続!」
「口のこと魔法回路って呼ぶな」
「幽霊さん! 何考えてるの!!」
【何考えてんだあたしは! 幽霊人生初の外出でそれを捧げるのか!!】
【厳密には二回目の外出だけど――一回目はどっかで死んで迷宮に漂ってただけだから――意識ある状態での初外出で幽霊の初キスが消えるのかよ!?】
【しかも相手は十二歳のガキだ! 半年しか生きられないって言ってた! 八重歯は可愛い! 「幽霊になって貼りつく」って言ったとき確かに一瞬胸がざわついたけど、幽霊に胸なんかあるか! ないだろ!!】
【ていうか幽霊の初キスと人間の初キスで扱い変わんの? 実体化足りなくてすり抜けたらどうすんの? 空気にキスしてるみたいで恥ずかしすぎる! ココルに「幽霊さん、キスもできないの?」とか言われたら立ち直れない――いやもう死んでるけど!】
【……って、何考えてんだあたし。問題はそこか? 問題は小娘に口づけするかどうかだろ! 助けるためなら仕方ない! この子死んじゃうかもしれないし! とはいえ――】
「幽霊さん……」ココルの声であたしの内心弾幕が強制終了させられた。「熱で死にそうなんだけど」
「わかってる!! 心の準備をしてる!!」
「何の心の準備してんの……戦場じゃないのに」
「戦場よりヤバいんだよ!!」
ココルはあたしを見て、ふっと笑った。諦め混じりで、照れ混じりで、あと少しだけ――「こうなると思ってた」みたいな顔。
「幽霊さん。あたしが怖くないのに、何ビビってんの」
「お、お前だって顔赤いじゃん!」
「これ熱だから」
「誰が信じるか!」
「ほんとだって……こ、咳――早く……頭クラクラする……」
声がどんどん細くなっていく。あたしは――噛もうとしたけど噛めないから、噛む真似だけした。
【もういい、やるか!! どうせ幽霊だし、初キス程度なら……多分飛ぶんだろ? な? 多分……】
「ココル! 先に言っとくけど、これはキスじゃない! 救急だ! 治療だ! 魔法回路の接続だ!」
「ん……魔法回路の接続……」目を閉じて、頬をふくらませながら必死に笑いを堪えてる。
「何笑ってんだ」
「別に……幽霊さん、本気すぎて……」
【この状況で本気すぎって褒め言葉なのか?】
あたしは息を吸って、身を屈めた。実体化の時間がちょうど間に合う。
【一瞬でいい。ほんの一瞬】
唇が触れた瞬間――
【熱い。やべえ、熱い】
次に、吸い込まれる感覚。ココルの魔力回路が干上がった水路みたいに、あたしの魔力を必死に吸い上げてくる。霊体全体がふるっと震えて、淡い青の光が唇の境目から彼女の中へ流れ込んでいく。
【魔力伝達ってこんな感じなんだ。何かが……ちょっと抜けてく。痛くないけど、軽い。空気が漏れてるみたい】
片目だけ開いちゃった。ごめん、見ちゃった。睫毛長いし、顔マジで赤い。
【……いや何見てんだあたし! 閉じろ、閉じろ!】
二十秒くらい? もっと長かったかもしれない。区別つかない。吸い上げられる感覚が止まった。
あたしは上体を起こした。ココルの呼吸が整ってて、眉の皺がほぐれてる。唇の色が紫から薄桃色に戻って、全身の具合が明らかに良くなってた。
寝てた。
「…………」
あたしは横へ漂って、壁に頭をゴンってぶつけた。
【幽霊人生の初キス、消えた】
【十二歳の、毒舌の、もうすぐ死ぬロリに】
【助けるためとはいえ、案は彼女から出たし、報酬ももらってない!!】
【待てよ、幽霊に報酬って何もらうんだ。違う、金の問題じゃねえ――】
「ん……」
背後からココルの寝ぼけた声がした。振り返ると、寝返りを打って枕を抱きしめて、何か呟いてる。
「……幽霊さん……行かないで……」
【……】
【まあ、いいか】
ベッドの脇に漂って、壁に寄りかかった。
「行かねえよ、寝ろ」
「ん……明日……ギルド行って……探し物……」
「わかった。寝てからな」
「幽霊さん……」
「ん?」
「……ありがとう」
【……礼なんかいいって】
【だってお前が死んだら、あたしも一緒に消えるんだもん。この契約、誰が設計したんだマジで】
窓の隙間から陽がこぼれて、銀の髪の上に落ちてた。壁に凭れて、外の空を見上げる。
【幽霊なのに、今日はなんか温かかったな】
【……まあいいや。明日のことは明日だ】




