第一部 第四章 Ro
いつもと少し違う朝は、キィーバの地に敵の侵入する一日半前の時であった。
「ファー~~~……、」
朝六時半、ソイソーは起きた。以前の少年なら、夢路から帰る途中どころか、行程の中ほどを堂々と歩いている時間帯であったが、最近はそれどころではなかった。路に出たら帰って来れなくなる可能性があり、そして、帰れなければ、朝ご飯は抜きであった。それはもちろん嫌であるので、最近の少年は、路の始まりでもある町の入口で不似合いな羊達を目にしながら時を過ごしていた。羊達の動きは毎日とても単純なものであり、のんびりゆっくりと和やかに平和に土の地面を歩いているのだった。背後で誰かが駆け抜けていくのにも気付くこともなく、珍しく羊の一匹にちょっかいを出していた時に、ふと、見えない時計が合図をした。眠い目を擦りながら体の言うままに少年は布団から上体を起こしたところであった。が、
「どこ……、ここ?」辺りを見回すと、ソイソーは呆然とした。約三ヶ月の間で一度も見たことのない景色がそこにあったからだった。目を擦ったせいで、視界は僅かにぼやけていた。だが、少年はハッとして身構えた。修行期間中は、朝の様子が可笑しい時はそれが必ず奇襲の知らせであるのだった。少年は、今日一日の為に、と二つの拳を強く握った。目はそれと分からないように鋭さを作り、お腹にも力を入れた。それから、右を見、左を見、正面時々後ろと見ていき、少年は至って真面目に一分ほど寝起きの時を過ごした。
「……?」しかし、少年の体に激しい刺激を走らせるものは何も起きなかった。耳が遅れて目を覚ました。気がつくと、辺りはうるさかった。がやがや、ざわざわしたものではなく、真っ白な空間にあった奇妙で厳かなあの静けさを感じることができない、そういう音が周囲にあった。緊張感を高めるんだと命令している頭の動きとは裏腹に、体は、足の方から徐々に力が抜けていった。手は柔らかい布団の上に乗せられて、少年の青い瞳は落着いた形になった。近くには窓があった。そこからは外の音が聞こえ始めた。遠くで蝉が鳴いているようだった。ソイソーはその方を向いた。その後、逆の方も向いた。
「ここ……?」机が少年の目に留まった。そこに付けられた本棚には大小幾つかの本があった。多くは見覚えのない本であった。机の近くには一個の箱が置かれていた。また、
「あれは……?」時計回り -我々で言うところの反時計回り- にこの部屋を見ていくと、ようやく、自分の正面の壁にあるカレンダーに目がいった。
その時、
「いってらっしゃーい!」という声が聞こえた。かなり小さなものだったが、ソイソーの耳には間違いなくそう聞こえた。そして、その瞬間、体に止めようのない震えが走り始めた。この声もまた、三ヶ月振りのものであった。だが、少年はすぐさま首を振ってそれを消し去ろうとした。階段を上がってくる音がしたからであった。僕が居ない筈のここには来ないだろう、と思っていながらも、少年は必死でこの顔を元通りにしようと動かした。すると、扉を叩く音がした。
コン……、コン……、……コンコン。小さな一滴の間があってから声が聞こえてきた。
「ソイソー、入るわよ?」
何にしても少年の驚きようは尋常ではなかった。ソイソーは何か悪いことをした時みたいに慌てふためいた。だが、音は出さないようにした。布団の中に隠れようと思ってその中に頭を突っ込むと、やはり、尻が隠れ切れてない状態になった。と、その時にあることに気付き、少年は前進して足を置く方から頭を出した。
「(ショー=サナエは?)」すぐ下を見たが、そこには居なかった。左は壁と窓。右側の下を見た。そこにもショー=サナエは居なかった。ソイソーは顔を上げた。
「(ショー=サナエ置いてかれた?)」そう思った瞬間、
「サナエ。」という声が聞こえてきた。ソイソーは再び机に目を向けた。椅子の下なのかと思ったが、そこを見てから、聞こえてきた声はもっと遠くからのものであるような気がした。机のソイソーから見える位置には通学の時に使っている鞄があったが、それは平べったい状態であった。箱の中でないことは少年の直感で分かっていた。じゃあ……どこから、と思った時に、視界の正面にあった扉は開いていった。とてもゆっくりとした動きで、まるで、重い金属が動かされていくようであった。
「母さん……。」先に声が出たのはソイソーだった。仙人山で修行をすることが決まった後、テリーに、お母さんに当分会えなくなるな、と言われて、何でもないよと言わんばかりに平気な顔をしていたソイソーだったが、自分はまだまだ子供なのだということを嫌と言うほど実感させられながら日々を過ごしてきたのだった。だから、声を出さずにはいられなかった。小さな声であったが、少し張りを持たせながら言った。目をやや大きめに開けていた。
「……。」対して、母親・エレナは無言であった。顔だけを覗かせている格好で、その表情は、いつもの朝ソイソーが見てきたものとは違っていないようであった。
「……。」ソイソーは次の言葉が出せなかった。母親の気持ちを自分なりに読み取って平静を装うことができなくなっていた。少年の口は小刻みに震え始めていた。それだけなら我慢できる、と思ってすぐに、その刺激が勝手に顔中に広がっていった。直後、自慢の青い瞳に少年の気持ちが溢れ出しそうになった。エレナは、間を置く為にという意味も込めて、静かに、ゴクッ、という音を喉で立てた。そして、そろそろいいかしら、と自分の中に言ってから、部屋の中に足を踏み入れていった。すると、
「サナエ!」彼女に続いてショー=サナエが入ってきた。エレナの特別な許しをもらって、一度だけ羽撃き跳びをしてからの走り出しだった。しかし、ショー=サナエはキョトンとしてすぐ停まってしまった。ソイソーの姿が見当たらないのだった。白い羽毛に囲まれた真ん丸い目は不連続に瞬きを繰りかした。
「サナエ?」 「大丈夫よ。もうすぐ……ほら、出てきた。」
ソイソーは中から勢いよく布団を捲り上げた。
「サナエ? 何で? どこに居たの?」
「サナエ。」右の翼は下を指していた。エレナはサナエちゃんを抱え、頭を撫でながらこう付け加えた。
「お父さんのご飯を片付ける時だったかしら。テーブルのお皿を重ねてる時に、お庭に白いものが見えたの。最初は、暑くなり始めたこの季節に小さな雪だるまさんが迷い込んできたのかと思っちゃったわ。それで、一度台所へ行ってからすぐ外へ出てみたんだけど、そしたらね、そこに居たのは……、」
「サナエ!」ショー=サナエは思いっきり声を出した。
「蝉を見ていたんだって。」
「セミ? ふーん、珍しかったのかな? まさか、食べようとしてた訳じゃ……、」
「サナエ!」違う、という風にソイソーには聞こえた。
「ただ珍しかっただけみたいよ。何であんなに大きな声を出して鳴くのか、興味があって観察してたのよね。」
「サナエ。」ショー=サナエはエレナに撫でられながら三度頷いた。目の前の二者を見ていた少年は大いに首を傾げた。
「母さんはショー=サナエに会いに来てたの?」
「え……、何?」母親の反応を見て、今のはちょっと声が小さかったなあ、と少年は思った。
「んー……いや、それよりも、ショー=サナエは自分で階段を下りていったの?」
「それはどうかしら。今までのサナエちゃんだったら、階段を使う時には一段一段跳んで下りてくるから、それならお父さんがまず気付く筈でしょ? もしそこで気付かなくても、お庭に出るにはリビングを通るか、そうじゃなかったら玄関の扉を開けないといけないでしょ? サナエちゃんには悪いけど、足も背もちっちゃなこの子には自分だけでお庭に出ることは無理だと思うわ、フフフ。」彼女の表情とショー=サナエに触れる仕草は至って自然で優しいものであった。
「サナ………。」しかし、ショー=サナエの嘴の動きは停まり、頭が少し下を向いてしまった。
「ダメだよ、母さん。サナエ、今、『小さい』ってことを気にしてるんだから。」
「えっ、そうだったの? ご……ごめんね、サナエちゃん……。」
「……。」
部屋の中は数秒間、二者と共に運ばれてきた世俗離れした空気によって支配されたような形になった。蝉までが鳴くのを止めてしまったので、辺りは本当に真っ白な場所へと変わってしまったみたいであった。少年は変に心が落着いた気がして、「ふきんしん」だと感じた。だが、ショー=サナエの黄色い嘴が半開きになっているのを見て、ソイソーは何とか次の言葉を見つけた。
「そ……そうだ、ほら、母さん、いつの間に『サナエ語』を習ったの?」馬車の通る音が微かに部屋の中に聞こえてきた。先ほどとは違う窓から小鳥の鳴く音も聞こえた。ショー=サナエはエレナの方を向いた。普段と変わらぬ表情でパクパクという動作をすると、エレナは、あっ、という反応を見せてからサナエちゃんに合わせるように同じような口の動きをして一つ頷き、そして、ソイソーに言った。
「えーっと……、私自身はね、サナエちゃんの言葉を何一つ知ってる訳じゃないの。」またどこか遠くの方で、なんでー、と言っている子供のような声が聞こえてきて、彼女は一瞬そちらに首が動いた。
「さっき喋ってたことは、全部魔法に教えてもらったことなのよ。」
「魔法……。」息子の声を聞きながら、片方の耳では、近所のご婦人の声が聞こえてきていて、彼女の頬は小さく動いた。視界の中のわが子は手を突いて下を向きながら口を閉じていた。ソイソーはやっぱりそれ以上言ってこないのかしら、と彼女が思っていると、その口が動き出した。
「そんな魔法もあるんだ……。」エレナは目をちょっと大きくして、あら……、という口になった。彼女は息子の変化に気付いたのだった。布団の上で足を曲げて座っていたので中々分からなかったが、ソイソーの頭の位置が明らかに高い所にあるのだった。彼女の腕に居るショー=サナエはエレナに声を出した。
「サナエ、サナエ。サナエ。」
「うん……うん。」サナエちゃんの声にすぐ反応を見せたが、それから彼女は少しの間、目を閉じて唇を小さく動かし続けていた。小鳥の鳴声がよく聞こえるようになった。庭の木の枝に留まったようであった。ショー=サナエがその木が見える窓の方に体を向けた。
「……?」少年はショー=サナエの様子を見て目を軽く擦った。しかし、手を退けた時には小鳥の枝から離れる音が聞こえていて、ショー=サナエはこっちの方を向いていた。エレナもちょうど魔法を掛け終えたところのようであった。
「ごめんね。私の力じゃ、まだこの魔法使うのに結構な時間が掛かるの。」
「って言ったの?」
「そんな訳ないじゃない……。」彼女は、相変わらずなのね、とばかりに困った顔をした。次の言葉を出す前に一度ずつ大きく息を吸って、吐いた。
「今ね、私は、サナエちゃんの喋った言葉にどういう意味があったのかを調べてたの。……正確に、こうこう、こういうことを言っていた、とまではいかないんだけど、サナエちゃんの伝えたかったことがどういうことなのかをおおまかだけど知ることができるようになったのよ。」
「へー、何か、スゴイんだね。」声の程度は平べったいものだが、少年は体の中で、ふつ……ふつ、と密かに湧き上がってくるものがあるのを感じた。
「今はね、『ソイソーはトゥーダさんから魔法について色々と教えてもらったんだ』て言ったのよ。」
「トゥーダ……? サナエ、本当?」少年は若干首を傾げながら聞いた。
「サナエ!」ショー=サナエは頷きながら返事をした。そして、すぐにショー=サナエはエレナの腕を翼で軽く叩いた。彼女は、今度は背中を撫でながらショー=サナエをゆっくりと床に降ろしてあげた。ショー=サナエはそこから自分の足でソイソーの元へと向かった。彼女はそれを見て思わず手を叩いた。
「サナエちゃん、やっぱり足速くなった? ソイソーと一緒に修行したの?」
「サナエ。」
「僕らがやってたのを真似してたんだよ。時々ね。それでも、確かに速くなったなー。ずっと一緒に居たのに全然気が付かなかったよ。」ちょうど足元に着いたショー=サナエにそう言った後、ソイソーは足を床に降ろしてショー=サナエを抱きかかえた。その時、エレナは目で息子に注意を促したが、少年は瞬きをしただけだった。
「お布団を汚くしたら、朝早いんだし、また掃除してもらうわよ?」
「あっ……、うん。わかった、わかった。」
その後、三者はすぐに一階へと向かった。まもなくアーマスも起きてきて、ソイソー達は初めてこの四者での朝食を取り、そこでは短いながらも様々な会話が交わされたのだった。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




