第一部 第三章 U
長い一日だった。少年の体は正直にそれを表していた。しかし、それは「変わった一日だった」という程度のもので、「特別な一日だった」という実感はないようであった。
「どうした、アーマス。何かあった……、おお、来たか。」ソイソーの父は遠く北の方に見えた小さな影に手を振って合図をした。ソイソー、テリーは何事が起きたのかとぼんやり目線を向けるだけだった。年下の少年は芝に座って手を後ろに廻して突いていて、その姿は、足が曲がって手は変形してしまっている小さな案山子のようであった。年上の少年は屈んで頭が下を向いた丸まった状態だったので、岩のようになっていた。視界の中に男の遠ざかっていく後ろ姿が入ってきても惰性で瞬きをするだけで、その様子は葉っぱで作ったまつ毛が風で揺れているようなものであり、小石や砂が表面を転がっているようなものだった。絵の中にアーマスが入ってきても動きが繰り返されるだけだった。二者それぞれが日陰の外に出てきた時は、緑の大地に背の高い影を出現させていた。だが、少年達の目はボーっと北の山々を映していて、その色は薄暗いままだった。
やがて、山から声が聞こえてきた。
「ソイソー、テリー、こっちへ来なさい。迎えが来たぞ!」
「……迎え?」 「……何だろう、嫌な予感がする。」
二人共ボソッと声を出してから、まず、ソイソーが立ち上がった。その後、テリーが大きな溜め息を出してから面倒くさそうに両膝に手を突いて立ち上がった。「あっ……、痛た……。」肩に少し力が入って思わず声が出てしまったが、ソイソーは気付いていなかった。ショー=サナエが目線を向けたが、テリーは同じく気が付かなかった。ショー=サナエはすぐにソイソーと同じ所に顔を向けた。ソイソーは少しずつ覗き込むようにして北を見ていた。肩と目を擦ってからテリーもその方向を見始めた。一瞬、そこには自分の父親が居たかとテリーは思った。しかし、それは影色になっているアーマスであった。そこより少し遠い所におじさん、と、もう一つ、体格が並外れているおじさんよりも、横にも縦にも大きいものが、一緒にこっちに来ているのだった。辺りはいつの間にか、数十メートル先も見えづらいような明るさとなっていた。「あっ……、」とソイソーが言った。
「……馬車だよ、あれ。」
「馬車? だってここ、アピルースの森の奥にある場所だぞ。どうやってここに……。」二人の方に来ているものは確かに馬車であった。それはグリードが山に行く前に予め手配をしておいたものであった。もちろん、城下町内にて、であった。二人は同じ目線の先にあるものが電車や路面でないことは確信していたが、ソイソーの方は何か不気味なものを見る時のような目をしていた。車輪や蹄の音はまだ聞こえてこなかった。ここにあるスンボーの山は、間に狭い緑の平原があるものの、その北東から南側までのほとんどがアピルースの森に囲まれている所であった。そして、アピルースの森は一切の道が存在しない湿気た足場の大変多い場所、という認識が少年達にあった。実際、二人の荷物の中には汚れた靴があった。空飛ぶ魔法の馬車でもなきゃ、と思った直後、ソイソーはこの森に一つの道があるということを思い出し、またもや、あっ、という言葉が口を突いた。少年はそのことを言おうと思いテリーの方を見たが、テリーは再びしゃがんでいた。
「どうしたの?」
「いや……、考えてもみると、よくこんな所まで来たな、と思ってさ。」テリーが草の上に落ちていた二枚の葉を拾いながら言った。そのテリーを見てからソイソーも座った。
「どうやってここまで来た? 僕はね、西門の近くにある馬車の中に隠れて外に出たんだけど、」テリーはそれを聞くと、一度吹き出しそうになったのを口の中で止めてから、声を出して笑った。
「お前らしいな。俺はそういうことは思いつかなかったな。」ソイソーはその言葉に対して、いつものように突っ掛かるようにして言った。
「何だよ? じゃあ、テリーはどうしたの?」
「俺はな……、……。」
「……?」 「おーい。早くこっちへ来―い!」
馬車と男は停まって少年達が来るのを待っていたのだが、座っている二人を見てゆっくりと動き出した。アーマスはそれを見ると、二人を呼びに走っていった。少年達は馬車のことを忘れてあれやこれやと色々話し込んでいた。ショー=サナエはアーマスが近づいてくるのを見て翼で腿の辺りを、パン……パン……、と叩いた。少年は振り向かずに手をふわふわの背中に持っていって、言った。
「どうした?」 「『どうした』じゃない。父さんが呼んでるぞ、早くしろ。」
「あっ、すいません。」テリーは気付いていたが、ついつい口の動きが止められなかったことに対して謝った。急いで立ち上がると、まだ立ち上がる様子を見せない少年に向かって、言った。
「お前もまだまだだな。」その直後に、アーマスは首を傾げながら弟を立たせた。ショー=サナエも、いつの間にかアーマスの横に立っていたが、同じようにしてソイソーを見ていた。北の風がそよそよと吹き出して、今度は地面に落ちていた数枚の葉が南の方に流されていった。アーマスの首が斜めになったままなのはテリーの言葉というよりも、ソイソーの呆然とした姿が為であったが、やがて弟の目線が変化するのを見ると、アーマスはさっとその場にしゃがんだ。すると、少しの間遠くと近くを交互に見ていた少年の視界に、大きな二つの青い目と黄色い嘴が飛び込んできた。
「!?」 「ソイソーが持った方がいいんだろ?」
少年が無言のまま頷くと、ショー=サナエは腕の中に入っていった。
「サナエ?」
「いや……、何でもないよ。」そう言うと、たっぷりの毛が作り出す温かさに感謝するという意味も込めてショー=サナエの頭を大きく三回撫でた。そして、三人は馬車の方へ歩き始めた。テリーは早足で幾分かソイソーと距離を置いていた。空には左側が明るくなっている上弦の月があった。
程なく、三人は馬車の近くまで来た。車は白い幌をまとったもので二頭の馬に繋がれていて、馬達は珍しそうなものを見るかのように首を右に左にと動かしていた。ソイソーは右を歩いていて馬車の側面が僅かに見えていた。少年の目にはしばらくの間、普通の大きさの馬車だ、という感じで映っていたが、突然、それは姿を変えた。テリーは正面から見ていたが、体を左右に何度も傾けて全体を見ようとしていた。そして、アーマスも珍しく落ち着きがなかった。というのも、実は、彼はかなりの乗り物好きなのであった。だから、見る機会は多くても乗る機会のほとんどないこの馬車というものを前にして、アーマスの心は、年に何回しかない激しい脈打ちを起こしていた。一匹の馬が正面を向いて小さな声を出すと、その馬の傍に居たグリードが、慣れた手つきで頭部を撫でた。
「中々立派だぞ、こいつらは。本来だったら、こんなもので城下まで行ったら相当なお金を払わないといけないんだからな。」二人の少年にはその口調が少し怒った時のものであるように聞こえた。
「えっ、父さん。今回は只なの?」アーマスが言った。
「月に一度使う分なら私に限ってはいつも只だ。なっ、クレ?」そう言われて、御者は困った顔で男にその通りの良い低い声で答えた。
「こんな所までその約束を持ってこられたら堪ったもんじゃないですよ。本当に、こういうのは今回限りにしてくださいよ?」
「そのつもりだ。ほら、二人共。クレに謝りなさい。」ソイソー、テリーは言われてすぐに前へと出てきて、揃って頭を下げた。高い所からだが、相手の男、
クレ=ラ=サントスはそれに対して同じように、いや、それより少し深く頭を下げた。彼はソイソーとアーマスの父、グリードに対して多大な恩があるので、その息子であるソイソーと、隣に居る少年の父もどういう者かを分かっていたので、同じくテリーには自然とこういう動きをするのだった。と、
「……、あっ!」小さいながらもはっきりとした声が、普段よりやや高い調子でグリードの耳に入ってきて、彼は御者の方を振り返った。クレは口を縦に大きく開けて目もやや大きく開かれた状態となっていて、明らかに何かに驚いた表情をしているのだった。アーマス達はそれに気付かず、声が出ていた時にはすでに馬車の後部へと歩き出していた。年上の二人の後ろを歩いていたソイソーは、馬車に乗り込むまで、まるで足元に落ちた何かを探すように下を向いた状態であった。
「クレ、どうした? 他の予約があったら下っ端でもいい、って言っといた筈だぞ。」
「あ……、い……いえ、大丈夫です。すみません。自分でも正直、今何で驚いたのかが分からないんですが……。」
「本当か? 仕事のことじゃないんだな?」
「……。予約はなかった筈です、……はい。」クレのその言葉を聞いて、その目を少しの間だけ見てから一つ頷くと、もう一度、今度は二匹の馬のご機嫌を取ってあげて、そのままグリードは反対側からクレの隣に座った。只乗りの時はこの荷物運搬用の馬車が来ることが多く、それ以来、グリードは、自分の座る位置を御者の隣としているのだった。
「皆様ー、乗られましたかー?」低い声がとても良く響き渡るように言った。
「はい!」 「サナエ!」
子供達のはっきりとした声と一つの不思議な気分の残る声を聞いて、隣のお客様がちゃんと座っていることを確認すると、御者は軽く手綱を動かした。すると、二頭の馬はその動きに従って足を小さく上下させ始めた。パカ、パカッ、という規則的な音を立てて馬達と後ろに繋がっている車は徐に方向を変えていき、馬車はその場できっかりと半分だけ回転していった。テリーは身を乗り出さんばかりの状態で、その後ろにアーマスが膝を曲げながら、揃って、回転する緑の地面を凝視していた。その色は暗くなっていた。まもなく、緑の床が前に進み始めて、そして、馬車の速度は一定になった。
「おお……、はえぇ……。……、……?」テリーは高速で移り変わる芝を見ていて、ふと、何気なく後ろを振り返った。アーマスはテリーの死角で外を見ていたが、その弟であるソイソーは奥の幌の傍に座って顔の右側をくっつけていた。馬車の中は小さな魔法蝋があって明るかった。因みに、白い者は進行方向右前隅っこで座って大人しくしていた。
「ソイソー、どうしたんだ? さっきから……、」
「シーッ……ィ。」ソイソーは口に指を当てたが、その目線が自分の方から左に移って行くのを見ると、すぐに彼は言った。
「行く時に使った馬車なんだろ、どうせ。」それを聞いて、テリーは、なるほど、と口を動かした。
「しかも、同じ者だった。」小さい声で口にした。その後、ソイソーは間を取ってから普通の音量に戻して言った。「でも、可笑しいんだよね。あの時は顔を見られてない筈なのに、こっちの方を見てから少しして、急に声を出すんだもん。」
「サナエ。」
「えっ……?」声がしたと思い、ソイソーは大きく回ってショー=サナエの方を見た。しかし、見えたのは、何故か寂しそうな雰囲気が現れているショー=サナエの丸みを帯びた後ろ姿であった。何してるの、と少年は声を掛けようとしたが、ショー=サナエの見ている方向というものに気付いて、少年も顔を向けた。少年は疲れていたが、それ以上にお腹がかなり減っていた。少年はそこに手を当てた。小さな右手は、四つの爪がへその上に等間隔で並んで当てられていて、一つの爪が顔の方を向いていて、それは泥と汗で光っているようだった。顔を上げると、のっぺりとしたその見た目と裏腹に丈夫な作りになっている白い幌の生地が、目に入った。少し前に見ていれば不思議な力に関する何かを想像させたかもしれなかったが、もはやそれは巨大な食パンにしか見えないのであった。その向こうにはもっと少年の目を引きつけるものもあったが、今はとにかくそれだけであった。そして、少年は右を向いた。遠ざかっていく山々が薄暗い中にあった。瞳は小さくなっていくスンボーを捉えていて、青い光はようやく、高き地に封印されていた遥かな風の本流を薄っすらと照らし出したのだった。
キィーバの地に住む少年、ソイソー。森の地下より見つけ出されソイソーと共に住む、翼を持つ者、ショー=サナエ。
キィーバに数多ある山の中の一つに住む竜、キィーバドラゴンは、二者の前で「ガーディアンドラゴン」の名を口にし、また、遠くからは「主」という言葉を発した。ショー=サナエはが「ガーディアンドラゴン」なのか、そして、「主」とは何を指すのか。
スンボーの山に復活した古の悪魔を倒すことはできたが、フォーダースの世界にはまだまだ多くの闇の力が潜んでいるようである。
次章からは、キィーバの外の世界も舞台となります。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




