第二話 帰り道
それから、始業式が終わった。
教室に戻ると、先生から教科書を受け取ったり、明日からの予定を聞いたりして。
気づけば、もう帰る時間になっていた。
「じゃあ、今日はこれで終わりだ。気をつけて帰れよー」
「はーい!」
先生が教室を出ていく。
それと同時に、教室の中が一気に騒がしくなった。
「じゃあねー!」
「また明日!」
「部活どうする?」
クラスメイトたちが、それぞれ友達と話しながら教室を出ていく。
私はその様子を少しだけ眺めてから、鞄を持った。
……私には、一緒に帰る人はいない。
別に、いつものことだ。
気にしなければいい。
そう思いながら、教室を出た。
* * *
昇降口で靴を履き替える。
外に出ると、暖かい風が吹いてきた。
「……」
思わず空を見上げる。
青い空。
校庭の桜。
風に揺れる木々。
春らしい景色だった。
午前中だけだったから、まだお昼前。
いつもより早い時間に帰ることになる。
私は一人で歩き始めた。
家までは二十分くらい。
この道も、去年から何度も歩いている。
静かな道を、ゆっくり歩く。
すると。
「……ん?」
少し先の塀の近くに、何かがいるのが見えた。
小さな影。
近づいてみると――
「……猫」
一匹の猫が座っていた。
白と茶色の毛。
首輪はついていない。
野良猫だろうか。
「…………」
私は立ち止まった。
猫はこちらを見ている。
逃げる様子はない。
私は周りを見渡した。
誰もいない。
それを確認すると、そっと猫の近くまで歩いていく。
「……こんにちは」
しゃがみ込む。
猫が私を見る。
「にゃー」
「……にゃー」
私も小さく鳴き真似をした。
猫が首を傾げる。
「ふふ……」
思わず笑ってしまった。
学校にいるときとは、全然違う。
人と話すときは、どうしても緊張する。
何を言えばいいのか分からなくなる。
でも、動物相手なら大丈夫。
何を言っても、変に思われないから。
「かわいいね」
私はそっと手を伸ばした。
猫は逃げなかった。
指先を近づけると、鼻をひくひくさせる。
「くんくんしてる」
私は嬉しくなって、また笑った。
「怖くないよ」
頭をそっと撫でる。
「よしよし」
「にゃー」
「にゃー?」
また返事をする。
自然と声が柔らかくなる。
顔の力も抜けていく。
「今日ね、学校だったんだよ」
「にゃ」
「二年生になったの」
「にゃー」
「うん」
私は猫の頭を撫でながら、小さく頷く。
「新しいクラスでね……」
少し考える。
「隣の席に、男の子がいるの」
「にゃ?」
「……木下くん」
今日、初めて話した男の子。
名前を思い出すと、少しだけ胸がむずむずした。
「ちゃんと話しかけてくれたの」
「にゃー」
「……うん」
私は猫に向かって、ふわっと笑った。
「優しい人……なのかも」
「にゃ」
「……ね?」
猫は答える代わりに、私の手に頭を擦りつけてきた。
「……ふふ」
かわいい。
もう一度撫でようとした、そのとき。
「……あれ?」
後ろから声がした。
「白上さん?」
「…………」
私の手が止まった。
聞き覚えのある声。
まさか。
そんなはずない。
そう思いながら、ゆっくり振り返る。
「…………木下くん」
そこにいたのは、木下くんだった。
制服姿で、鞄を肩にかけている。
どうやら私と同じ方向から帰ってきたらしい。
そして。
木下くんは、私を見ている。
しゃがみ込んで。
猫を撫でながら。
いつもの私とは全然違う顔をしている私を。
「…………」
「…………」
目が合った。
その瞬間。
頭の中が真っ白になった。
「…………っ」
息が止まる。
顔が一気に熱くなった。
さっきまで何も気にせず笑っていたのに。
猫に話しかけて。
猫の真似までして。
楽しそうにしていた。
それを。
全部。
木下くんに見られた。
「…………」
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
頭の中で、それだけがぐるぐる回る。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
今すぐ逃げたい。
でも、足が動かない。
立ち上がることすらできない。
「…………白上さん?」
「…………っ」
名前を呼ばれただけで、さらに顔が熱くなる。
私は慌てて俯いた。
けれど。
俯いたところで、今さらどうにもならない。
見られた。
完全に見られた。
さっきの私を。
猫と会話していた私を。
「…………」
恥ずかしすぎて、もう何も考えられない。
木下くんの顔を見ることもできない。
今、どんな顔をしているんだろう。
笑っているのかな。
変な子だと思っているのかな。
学校で私が怖がられていることを知っているのに。
その私が猫を相手に、あんな顔をしていたなんて。
きっと変に思われた。
そう考えたら、ますます顔が熱くなった。
「……白上さんって」
「…………」
声が聞こえる。
でも、顔を上げられない。
「猫、好きなんだ?」
「…………」
返事をしようとする。
でも。
声が出ない。
「…………」
喉が固まったみたいだった。
「……白上さん?」
「…………うん」
ようやく出た声は、消えそうなくらい小さかった。
私はまだ顔を上げられない。
すると。
「なんか……意外」
「…………」
胸がきゅっとなる。
やっぱり。
変だと思われた。
そう思った瞬間。
「でも……」
木下くんの声が続いた。
「さっき、すごい優しい顔してた」
「…………え?」
思わず顔を上げてしまった。
木下くんは、少し驚いたように私を見ていた。
そして。
「学校で見るのと、全然違うんだなって思って」
「…………」
私はまた顔を俯ける。
そんなことを言われると。
余計に恥ずかしい。
「……恥ずかしい」
思わず、小さな声が漏れた。
「え?」
「…………」
しまった。
聞かれた。
私は慌てて口を閉じる。
耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。
木下くんは、そんな私を見て。
「……ふっ」
小さく笑った。
「…………!」
私はさらに顔を赤くした。
やっぱり。
笑われた。
恥ずかしくて、もう木下くんのほうを見ることができない。
すると木下くんは、慌てたように言った。
「あ、ごめん。馬鹿にしたんじゃないよ」
「…………」
「なんていうか……」
少し考えてから。
「白上さんって、面白いなって思って」
「…………」
「もっと話してみたくなった」
「……え?」
私はそっと顔を上げた。
「だって、学校じゃあんまり話してないじゃん?」
「…………」
「でも猫とは普通に話してるから」
「…………」
私は何も言えなかった。
恥ずかしさはまだ消えていない。
顔も熱いまま。
だけど。
木下くんの言葉は、嫌じゃなかった。
むしろ。
少しだけ、嬉しかった。
木下くんは、猫のほうを見る。
「じゃあ、俺も話してみようかな」
「……?」
「こんにちは」
猫に向かって、木下くんが話しかける。
猫は木下くんを見る。
「にゃー」
「おっ、返事した」
木下くんが嬉しそうに笑った。
「…………ふふ」
思わず、私も笑ってしまう。
「あ」
「……!」
木下くんと目が合った。
「今、笑った」
「…………っ」
私は慌てて顔を背けた。
また見られた。
今度は笑っているところを。
「…………」
恥ずかしい。
でも。
さっきほどではなかった。
木下くんは楽しそうに笑っている。
嫌な感じはしなかった。
「白上さん」
「……なに?」
「動物、好きなの?」
「……うん」
「そっか」
木下くんは頷いた。
「じゃあ、また猫見つけたら教えてよ」
「……どうして?」
「だって、面白そうだから」
「…………」
私は少し考える。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
「ほんと?」
「……うん」
「じゃあ、よろしく」
「……うん、よろしく」
教室で交わしたのと同じ言葉。
「じゃあ、俺はこっちだから」
木下くんが、道の先を指差した。
「……うん」
「また明日!」
「……また明日」
木下くんは軽く手を振ると、先に歩き出した。
私はその背中を見送ってから、反対方向へ歩き始める。
しばらく歩いても、顔の熱はなかなか引かなかった。
猫と話しているところを見られたこと。
あんな表情を見られたこと。
そして、木下くんと少しだけ話せたこと。
いろいろなことが頭の中を巡る。
「…………」
私は小さく息を吐いた。
隣の席の男の子と、帰り道で偶然会っただけ。
それだけなのに。
なぜか、明日木下くんに会うのが少し楽しみだと思った。




