結末・乙 刻限の約束
風のざわめきに混じり、人の声を真似た怪鳥の叫びが聞こえる。無数の眼が爛爛と、森の最奥を目指す二人を見張っている。
ウツロに連れられ辿り着いたそこに、ただ満開に咲き誇る巨大な桜がそびえ立っていた。しかし その幹にはヤドリギが寄生し、幾重にも蔓が絡みついている。化神が宿る寄生樹は、禍々しくも妖しい美しさだった。
「お帰りなさい、わたくしのウツロ」
寄生しているヤドリギの茎、人間の胴体ほども太い股の間から、妖精と見まごう可憐な少女の上半身が生えている。艶めかしい黒髪を肩に流して微笑む 彼女こそが、気まぐれな箱庭遊びで生贄を召し取っていた化神――ヤチヨ姫だ。
「美しく育ちましたね、わたくしのヒジリ。さぁ、近くへいらっしゃい」
軽やかに鈴を転がすような愛らしい声で、何の悪意もなく 異形の姫神は待ち焦がれた供物に目線を向ける。
その眼差しを遮ろうと、ヒジリをこの地に連れてきた男は割り込んだ。
「……姫さん。一つだけ、教えてくれ」
自分から口を開いたウツロに、ヤチヨ姫の顔が歓喜で満ちる。
「一つと言わず、いくらでも訊ねてごらんなさい。あなたの声を、いつまでも聴かせてちょうだいな、わたくしのウツロ」
対するウツロは、顔にも声にも感情が映らない。不安げに覗き込むヒジリに構わず、淡々と問いを投げかける。
「こいつは、何のための供物なんだ? 加護を与えるべき都も失くなった。姫さんの『動く手足』のお役目だって、俺がいれば充分だろ」
ヤチヨ姫の『愛情』を受け止め、可憐な化神を悦ばせ続ければ、新たに授かった心臓が 肉体だけは 生かしてくれる。怪物にすっかり覆われてしまった世界で、人間でいようがバケモンに成り果てようが 些末な事だ。
「ふふふ、なんて可愛らしいのかしら」
少女のそれというには異様に長い腕を伸ばし、そっとウツロの顎を持ち上げる。人の心を持たない化神に、睨めつけられている意味は理解できない。
「手なぐさみに愛でたいだけですよ。都に加護を与えるつもりで呼びつけたわけでもありませんしね。……安心なさい、わたくしのウツロ。大切なあなたから『動く手足』の役目を 取り上げたりしませんから」
――千年もの昔から捧げ続けてきた生贄は、都が生き延びるための対価ですらなかった。
都の繫栄も滅亡も、幼いウツロが召し取られたことも 次の長となるはずだったヒジリが供物に選ばれたことも、何もかもが化神の気まぐれだった。
生きてきた世界の全てを奪われた若君の、白磁の頬が熱く紅潮する。穏やかで端正な美貌は、すっかり憎悪に染まっていた。
「そうか。……もっと早くに、訊いておけば良かった」
ウツロの口元に、諦念の笑みが浮かぶ。その直後。
背負った大剣を抜き放ち、ひと思いにヤチヨ姫の腕を斬り払った。
「もっと早く、こうすれば良かったんだ……!」
ヤチヨ姫の可憐な相貌が、怒りに人の形を崩す。地響きのごとき唸りを上げ、無数の蔓がウツロに襲いかかる。
皮肉にも 異形の姫神を守るための剣技が、迫りくる蔓を切り伏せる。肥大化したただの瘤となったヤチヨ姫の首が、ウツロに食らいつこうと目の前に伸びてきた。
「――さよならだ、姫さん」
化神からの解放を望むにしては、あまりにも寂しげな呟きだった。
可憐な姫神であったものの頭は両断され、湿気た木片と化して地面に散らばった。暴れ狂っていたヤドリギの蔓たちも、力なく落ちていく。
「……ヤチヨ姫は」肩で息をしているウツロに、恐る恐るヒジリが声をかける。
振り返ったウツロは、泣き出しそうな顔で、微笑んでいた。
「姫さんは化神だ、このくらいじゃ死にやしねぇ。明日の朝には元通りさ」
「元通りって……それなら どうして……」
「逃げるぞ、ヒジリ」
言うが早いか、ウツロはヒジリの腕を引いて走り出した。
そこかしこに 妖しく輝く何かの眼が、ぞわぞわと音を立てて追いかけてくる。迫る影の主を確かめる余裕もなく、ただただ駆け抜けた。
*
夜の森を走り通し、空の端が幽かに光るだけの夜明けには、乾きひび割れた どす黒い荒野まで逃げ果せることができた。
粘ついた怪物の気配は いたるところに潜んでいるが、即座に襲いかかってくることはなさそうだ。並んで大の字に倒れ、相変わらず重苦しい色をした曇天を眺めている。
「そろそろ、姫さんも起き出す頃かね」体を起こし、ウツロは徐に背負っていた大剣の留め具を外した。そのまま、いまだ寝転ぶヒジリの腹に 大剣を留め具ごとのせる。
「……私は物置きではないぞ」
意図がわからず むっとした顔で返すヒジリに、「やるよ」とウツロは言った。
「そう遠くない未来、俺は先代みてぇな 完全なバケモンになっちまう。……その前に、お前の名前を呼べるうちに……そいつで殺してくれ」
赤茶けたウツロの髪がわずかに震えている。受け取った大剣を抱えて起き上がると、苦痛を堪えて顔をしかめる横顔が 目に入った。
ウツロの喉元に巻きついた 黒い蔓の模様はその頬まで這い上がり、首から肩にかけてが硬い木膚へと変質をはじめていた。ヤチヨ姫が復活し、異形化の呪いが動きはじめたようだ。
「……承知した」
力強く頷き、ヒジリは立ち上がる。
満足そうに頷き返すウツロの前に、迷いのない手の平を差し出した。
「だが、その日が来るまでは――共に歩こう」
決して明るくはならない世界に、二人分の足跡が並ぶ。
いつか辿り着く場所はあるのか、それさえも知る者はない。
【了】




