結末・丙 何も、変わらない
待ち焦がれた供物が到着し、闇深い森は歓喜にざわめく。じめついた重たい風が吹き溜まる その最奥に、美しく禍々しい巨大樹が構えていた。
何も知らずに咲き誇る桜に取りつき、何食わぬ顔で生命を吸い上げる寄生樹の 常識外れに太い股の間から、妖精と見まごう可憐な少女の上半身が生えている。肩に流れる黒髪が艶めかしく、無垢を装い妖しい微笑で迎える彼女こそが、ウツロの長年の主である化神――ヤチヨ姫だ。
「お帰りなさい、わたくしのウツロ」
軽やかに鈴を転がすような愛らしい声が、自らの手足として健気に働く男に 今日も無邪気にかけられる。異形の姫神が 気まぐれに『供物』を求め、それに応じて帰還するたびに、慈愛に満ちた眼差しがウツロに向けられた。
それなのに、これまで一度も その眼を見返し、言葉を交わすことはできなかった。
「わたくしの言いつけを守り、わたくしの許へと迷わずに帰ってくる……約束を違えないあなたが 大好きですよ、わたくしの可愛いウツロ」
今日こそ言葉を発しようと口を開き、喉に絡みつく呪いの蔓に止められる。
気遣うようにウツロを覗き込んでいたヒジリが、耐えかねたか 静かにヤチヨ姫の正面へと踏み出した。
「いらっしゃい、わたくしのヒジリ。あなたの綺麗なお顔を見られて 嬉しく思いますよ。さぁ、もっと近くで 見せてちょうだいな」
都から連れてきた供物は、強張った表情で頷く。何か考えるよりも先に、ウツロはその袖を掴んでしまっていた。
「ヒジリ」何故、自分は名乗られてもいないのに、この青年の名を知っている? それは主であるヤチヨ姫が、名指しで望んだ供物だからだ。――自分が呼びかけるために、その名を知ったわけじゃない。ヒジリもきっと、感付いている。
引き留めてしまったウツロの厳つい手を、傷一つないヒジリの手は そっと優しく、しかし拒んで押し戻した。
「もう、私が失うものはない。……私がこの身を差し出せば、ウツロは今しばらく 生き延びることが、できるのだろう?」
端正な微笑を口元に湛え、一度だけヒジリはウツロに振り返る。自らをこんな場所へと連れ出した粗野な男を映すその瞳には、恨みも絶望もなく、恐怖まで圧し殺して友を案じる 澄んだ色だけが残っていた。
清廉な美しさに満ちた生贄に、薄汚れた自分がかけて良い台詞など ひとつも見つからない。ウツロはただ、唇を噛みしめ俯くだけだった。
「ああ、わたくしのヒジリは、なんて良い子なのでしょう。わたくしの中で、ずぅっと、守ってあげますからね。安心してお眠りなさい」
白く細いヤチヨ姫の指が、珠をすくうようにヒジリの頬を包み込む。ざわざわと蠢くヤドリギの蔓が、華奢なヒジリの身体に 幾重にも巻き付いた。
「う……く、あぁ……」
じわじわと なぶるように絞め上げられ、潰されつつあるヒジリの喉から 喘ぐ声が漏れる。耳を塞ぎ、ウツロはぎゅっと両目を瞑った。
――もう、幾度も見てきた光景なのに。見慣れているはずなのに……!
理外の化神が、哀れな供物を愛で喰らう音が終わる。
恐る恐る目を開いたそこにはもう、隣に立とうとしてくれた者はいなかった。
ウツロの喉元に絡みつく呪いが、わずかに緩む。
見上げた桜の巨木は、絡みつくヤドリギは、満足そうに花弁を撒いた。
共に生きようと願った友の命を吸って、生き延びろと異形の姫神は嗤う。
どれほど供物を捧げ、可憐な化神を悦ばせても、いつか自分も怪物に成り果てる。――いや、既に自分の心は、バケモンになってしまった。
こうしてまたウツロには、どこにもない安らぎを求めて 手を伸ばし続ける 空虚な日々が繋がれていく。
【了】




