結末・甲 独りに、しないで
歪んだ闇がそこかしこに漂う森の最奥にて、ヒジリの望まぬ旅路が終わる。終焉の地と呼ぶには、妖しいほどに美しかった。
季節の失われた世界で、ただ満開に咲き誇る巨大な桜がそびえ立つ。しかしその幹には ヤドリギが寄生し、幾重にも蔓が絡みついていた。
化神の宿る寄生樹に相応しく、茎は人の形ほども太い。分岐した股の間から、妖精と見まごう可憐な少女の上半身が生えている。艶めかしい黒髪を肩に流して微笑む彼女こそが、ヒジリを呼びつけた化神――ヤチヨ姫だ。
「お帰りなさい、わたくしのウツロ」
軽やかに鈴を転がすような 愛らしい声で、ヤチヨ姫は無邪気にウツロに微笑みかけた。そして 何の悪意もない 異形の姫神の眼差しは、動く手足の陰に隠れようとする ヒジリにまで、向けられる。
「いらっしゃい。待ち焦がれていましたよ、わたくしのヒジリ。……大事に育ててきたというのに、あなたがあの都の、最後のいのちになってしまいましたね」
生贄を拒んだ都に対して憤ることもなく、かといって落ち込んだ様子も見せず、都が完全に滅びてしまった事実だけを ヤチヨ姫は突きつけてくる。ヒジリ以外の全ての命が失われてしまったことさえ、この異形の姫神にはたいして興味を引くものではないらしい。
都の最後の若君は 何を言い返すでもなく、うつむき両の拳を握りしめる。背中の大剣を足元に下ろし、小刻みに震える背中に一度だけ ウツロは「ヒジリ」と その名を呼びかけてきた。
並び立ったウツロの横顔に、はっとヒジリは息を吞む。襟の中に隠れていた呪いの黒い蔓はウツロの顎のあたりまで根を伸ばしてきている。ちらりと何かを言いたげにヒジリに目線を寄越すが、言葉にしないまま ウツロは一歩を踏み出した。
「……姫さん。やっぱり、こいつは姫さんに渡せねぇや」
絞り出すように、ウツロは反抗の意思を口にした。
人間を真似て驚いた顔を造ってみせるが、全ての光を吸い込むヤチヨ姫の瞳に、理解の情は映らない。
「あら、それは何故かしら? 話し相手なら、わたくしが居るでしょう? ……それとも、」
情の映らない瞳で、しばしヤチヨ姫はウツロを見つめる。そうして自身の内で納得すると、どこか名残を惜しむように口角を上げた。
「休みたくなって しまったの?」
ヤチヨ姫の伸ばしたヤドリギの蔓が、そっとウツロの手を取り 腕を引く。それでも踏み止まるウツロへと、もどかしげに 無数の蔓が絡みついた。
「ウツロ……わたくしの愛する、大切ないのち……」
声色はどこまでも優しく、小さな獣を愛でるように、どす黒いヤドリギの蔓は ウツロの身体を抱き寄せる。少女の上半身と呼ぶには異様に長い両腕を、自身の膝元に縛りつけた ウツロの顔へと這わせる。白く細く、長く尖った指先が、愛おしげに 首筋から頬を撫で回した。
刹那、メリメリと不穏な音を立て 絡みついた蔓が絞め上がった。宿主である桜の幹に取り込もうと、精悍な男の身体を執拗に拉いでいく。
内臓を潰され 骨が砕けていく激痛の中でも、ウツロは苦悶を堪え、うめき声ひとつあげなかった。恍惚とした表情でヤチヨ姫が愛撫する ウツロの肌も、徐々に木膚へと変化していく。
やがて、虚空に何を求めてか 無骨な右腕だけが、突き出されたまま残される。「これで、ずぅっと、一緒ですよ」とヤドリギの化神は満足げに頬を染めた。
「……ウツロ? そんな、どうして……」
――何も、言い残しては くれなかった。
故郷も家族も既になく、共に生き延びるつもりだった最後の友まで失ってしまった。
ふわふわと覚束ない足どりで、ヒジリはヤチヨ姫の巨木へと歩み寄る。
ここにウツロという男が存在した証拠――ウツロのものだった右腕を、すがるように握りしめる。
「置いていかないでくれ……独りに、しないで……」
嗚咽の声を洩らす青年の柔らかい髪に、異形の姫神の指が触れた。跳ねるように顔を上げたヒジリの涙を拭い、ヤチヨ姫は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「独りになど、しませんよ」
その言葉が終わらぬうちに、喉元に禍々しい気配が巻き付いた。
「ふ……あ、ぅぐ……⁉」
焼け付くような鋭い痛みが走ると同時に、ヒジリの首にヤドリギの蔓の模様が浮かび上がる。ウツロを縛り、ウツロの先代を狂わせた、逃れることのできない化神の呪いだ。
「あなたも、ウツロのように最期まで 傍に居てくださいね。わたくしの 可愛いヒジリ……」
愉しげな嬌声に合わせ、桜の花が闇夜を舞う。
終わってしまった世界は何処へ続いていくのか、誰も知らない。
【了】




