第50話 告白、旧校舎の雑部にて
卒業式が終わって数日経つと、白鷺坂高校は少しだけ軽くなったように見えた。
三年生の教室は静かで、廊下の掲示板からは卒業式用の案内紙が外されている。代わりに貼られ始めたのは、新年度の仮予定、春休み中の自習室開放、部活動紹介の準備案内。
冬の終わりと、春の始まりが、同じ掲示板の上で並んでいた。
依央は花の生徒会の腕章をつけたまま、旧校舎へ向かっていた。
腕の中には、新年度向けの仮掲示紙。
それから、雑部の備品台帳。
校内生活改善同好会は、今日も地味に働いている。
旧校舎の掲示板に残っていた卒業式案内を外し、新年度の仮掲示へ差し替える。部室では、電子レンジ使用ルールの紙を貼り直し、三つのマグの置き場を少し整える予定だった。
(新年度。春休み。仮予定。文字だけでそわそわする。俺、花の生徒会も雑部もちゃんとやるって言ったし。やる。やるけど)
依央は階段の踊り場で、足を止めた。
(今日、言う。たぶん。いや、たぶんじゃない。言う。俺のままで。作った姫の顔でも、雑部で机に沈む顔でも、どっちも俺だって、ちゃんと)
胸がうるさい。
けれど、不思議と足は止まらなかった。
久我燈真が、自分で医学部と書いた。
その日、依央は「俺も、ちゃんとします」と言った。
花の生徒会も。
雑部も。
自分のことも。
そして、燈真の隣も。
言葉にしてから、ずっと胸の奥に残っている。
今日、それを形にする。
(やばい。決めてきたのに、部室の前で心臓が反乱起こしてる。好きって言うだけでこんなに全身忙しいの何。俺、体育祭より疲れてる♡)
****
部室の扉を開けると、晴臣が机に突っ伏していた。
「お疲れ、依央」
「晴臣、もう疲れてるの?」
「卒業式のあと、千紘さんロスが来てる」
「まだ普通に連絡してるでしょ」
「してる。でも校内にいない」
「なるほど」
晴臣は顔だけ上げた。
「千紘さん、今日ちょっと駅前にいるんだって。用事終わったら会える」
「じゃあロスじゃないじゃん」
「会えるまでがロス」
「面倒な彼氏」
「うるさい」
燈真は棚の前で、三つのマグを並べ直していた。
薄い青。
深いグレー。
オレンジ。
それぞれが木目調のトレーにきちんと乗っている。
「お疲れ」
燈真が顔を上げる。
「お疲れさまです」
その一言だけで、依央の胸が揺れる。
今日言う。
そう決めているから、燈真のいつもの声まで少し違って聞こえる。
「花宮」
「はい」
「紙、多い」
「あ、新年度の仮掲示と、雑部の備品台帳です」
「持つ」
燈真が近づいて、依央の腕の中から紙束を半分ほど取った。
指先が近い。
触れていないのに、熱い。
(待って。持つ、だけでかっこいい。俺、今日も言う前に負けそう。紙束を持ってくれる久我くんに恋を深めるな。いや、もう深まりきってる。底がない。怖い♡)
晴臣が机に頬をつけたまま、二人を見ていた。
「何か今日、依央の顔、変」
依央は固まった。
「変じゃない」
「いや、変」
「晴臣、そういう勘だけ良すぎる」
「久我も思わない?」
燈真は依央を見た。
「いつもより静か」
「ほら」
晴臣が起き上がる。
「何かある顔だ」
依央は備品台帳を机に置いた。
「今日の仕事、先に終わらせるよ」
「ごまかした」
「ごまかしてない」
「ごまかした声」
燈真が短く言う。
「仕事、先に」
晴臣はにやっとした。
「久我が依央側についた」
「違う」
「はいはい。じゃあ新年度掲示、貼りに行くか」
****
三人で旧校舎の掲示板へ向かった。
廊下は、卒業式の日より静かだった。
三年生がいなくなった分、学校全体の音が少し減っている。けれど、春休み前のざわつきは残っていて、本校舎の方からは部活動の声が聞こえていた。
依央が古い案内紙を外す。
晴臣がクリップを小箱へ戻す。
燈真が掲示板の金具を確認する。
もう、手順を確認しなくても動ける。
「依央、こっちの紙、上?」
晴臣が聞く。
「上。新年度仮予定が先」
「了解」
燈真が紙の角を押さえる。
「花宮、右」
「はい」
「そこで」
「ここ?」
「うん」
指示は短い。
でも、分かる。
依央は紙を押さえながら、燈真の横顔を見た。
春休み中の自習室開放。
新年度説明会準備。
花の生徒会仮当番表。
紙の上には、次の季節の予定が並んでいる。
その横で、燈真が静かにクリップを留めている。
自分で医学部と書いた人。
依央の素の顔を、花宮っぽいと言った人。
気を抜いて笑うところが好きだと言った人。
(好き。何回思っても足りない。もう脳内で言うだけじゃ無理。ちゃんと声で言う。言え、俺)
「依央」
晴臣の声で、依央は我に返った。
「紙、ずれてる」
「あ、ごめん」
「やっぱり変」
「晴臣」
「はいはい。仕事、仕事」
****
掲示を終え、部室へ戻ると、晴臣のスマホが鳴った。
画面を見た瞬間、晴臣の顔が明るくなる。
「千紘さん、用事終わったって」
依央は薄い青のマグを棚から出しかけて、手を止めた。
これは。
今だ。
いや、晴臣を追い出したいわけではない。
でも、二人きりになるなら、ここしかない。
燈真は何も言わず、深いグレーのマグを出している。
晴臣はスマホを握りしめ、そわそわしていた。
「行ってきたら?」
依央が言うと、晴臣はぱっと顔を上げた。
「いい?」
「雑部の仕事、だいたい終わったし」
「備品台帳は?」
「俺が書いとく」
燈真が短く言った。
晴臣は一瞬だけ二人を見た。
何かを察した顔になった。
「……お前ら」
依央は身構えた。
「何」
晴臣はにやっと笑い、鞄を持った。
「俺、千紘さんに会ってくる」
「うん」
「帰り遅くなるかも」
「分かった」
「マグ、洗っといて」
「自分で洗ってから行け」
「はい」
晴臣はオレンジのマグを急いで洗い、棚へ戻した。
そして扉の前で振り返る。
「依央」
「何」
「ちゃんと言えよ」
依央の息が止まった。
燈真も、わずかに動きを止める。
晴臣は、それ以上何も言わなかった。
ただ、いつもの顔で笑った。
「じゃ、行ってくる」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
部室に、依央と燈真だけが残った。
机の上には、備品台帳と、外した掲示紙。
棚には三つのマグ。
電子レンジの横には、千紘からもらったココアの缶。
窓の外には、三月の薄い夕方。
静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸が聞こえそうだった。
「花宮」
燈真が呼ぶ。
「はい」
「晴臣、何か知ってる?」
「たぶん、勘です」
「勘」
「幼馴染なので」
「そっか」
依央は備品台帳を開いた。
今日の作業内容を書こうとして、ペンを持った手が止まる。
新年度仮掲示、差し替え。
卒業式案内、撤去。
備品台帳、更新。
字が少し揺れた。
燈真がそれを見た。
「手」
「震えてません」
「少し」
「見ないでください」
「うん」
燈真は見るのをやめた。
本当にやめた。
それが、逆に胸にくる。
依央はペンを置いた。
もう、台帳に逃げるみたいに向き合っていられない。
いや。
そういう言い方は違う。
台帳も、掲示物も、雑部の仕事も大事だ。
でも今は、それより先に言うことがある。
依央は、ゆっくり燈真の方を向いた。
「久我くん」
「うん」
「俺、今日、言いたいことがあります」
燈真は静かに依央を見る。
「うん」
いつもの短い返事。
その一音だけで、依央は少しだけ息ができた。
「秋から、ずっと残ってました」
「うん」
「手を取った時から。冬になって、初雪見て、進路の紙見て、チョコ渡して、卒業式があって」
言葉を選ぶ。
急がない。
飾らない。
「俺、久我くんのことが好きです」
言えた。
部室の中が、急に広くなった気がした。
声は震えていなかったと思う。
でも、胸の中はめちゃくちゃだった。
依央は続けた。
「姫として綺麗に見られたい俺も、雑部で机に沈む俺も、後輩の前で変なこと言う俺も、全部込みで」
息を吸う。
燈真は動かない。
目だけが、依央を見ている。
「そのままの俺で、久我くんが好きです」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。
泣きたいわけではない。
けれど、ずっと持っていたものをようやく置けた気がした。
(言った。言えた。俺のままで。飾ってない。たぶん。やばい。心臓、もう全部出た)
燈真は、しばらく黙っていた。
依央は、その沈黙を待った。
怖い。
でも、後悔はなかった。
燈真が口を開く。
「俺も」
短い。
短すぎる。
でも、その一音で、依央の胸が一気に熱くなる。
「俺も、花宮が好き」
燈真は、まっすぐ依央を見ていた。
「綺麗にしてるところも」
「はい」
「気を抜いて笑うところも」
「はい」
「雑部で変な顔するところも」
「変な顔」
依央は思わず返してしまった。
燈真の目元が少しだけゆるむ。
「そこも」
依央の胸が、さらに熱くなる。
「俺は、ちゃんと自分で選んでから言いたかった」
燈真は、机の上の備品台帳に視線を落とし、それから依央へ戻す。
「医学部って書いた。自分で」
「はい」
「それで、花宮に言いたかった」
依央は何も言えなかった。
「好きだよ」
二度目。
今度は、少しだけ声が柔らかかった。
依央は薄い青のマグの横に置かれた自分の手を見た。
震えている。
たぶん。
でも、嫌ではなかった。
「……久我くん」
「うん」
「今の、かなり強いです」
「知ってる」
「知ってるんですか」
「うん」
「ずるい」
燈真は少し笑った。
依央も笑った。
笑ったら、胸の奥に溜まっていた熱が少しだけほどけた。
燈真が一歩近づく。
依央は動かなかった。
机の端に、三つのマグが並んでいる。
晴臣のオレンジのマグも、ちゃんとそこにある。
今この部屋には二人だけだけれど、この場所は二人だけのものではない。
三人の場所。
その中で、依央と燈真は、少しだけ違う関係になろうとしている。
燈真の手が、依央の手に触れた。
「花宮」
「はい」
「キスしていい?」
その言葉が、静かに落ちた。
依央は息を止めた。
クリスマス前の駅前で止まった距離。
冬休みの神社で、ちゃんと決めてから、と言った燈真。
全部が、ここに繋がっている気がした。
依央は、小さく頷いた。
「はい」
声も出た。
燈真が近づく。
ゆっくり。
依央は目を閉じた。
唇に、やわらかく触れる。
短い。
本当に短いキスだった。
でも、胸の奥が全部あたたかくなるくらい、甘かった。
離れたあと、依央はすぐには目を開けられなかった。
燈真の息が近い。
手は触れたまま。
部室は静かで、電子レンジも鳴っていない。
ただ、三月の夕方の光だけが窓から入っている。
依央はゆっくり目を開けた。
燈真が、すぐ近くにいる。
「……した」
声が小さく出た。
燈真が少し笑った。
「うん」
「久我くん、しましたね」
「うん」
「俺、今、かなり処理が追いついてません」
「分かる」
「分かるんですか」
「顔」
依央は両手で顔を覆いかけて、やめた。
今、隠したくなかった。
顔が赤いなら、赤いままでいい。
崩れているなら、崩れていていい。
燈真の前なら。
「久我くん」
「何」
「もう一回、好きって言ってください」
言った瞬間、自分で耳まで熱くなった。
でも、言ってしまった。
燈真は目を細めた。
「好き」
即答だった。
依央は机に沈みそうになった。
「早い」
「言いたかったから」
「無理」
「花宮も」
依央は顔を上げた。
「俺も?」
「言って」
依央は燈真を見た。
好き。
さっき言った。
でも、もう一度言うのは、また別の熱がある。
依央は、息を吸った。
「好きです」
燈真の手が、少しだけ依央の手を握る。
「うん」
「久我くんが好きです」
「うん」
「……やばい、二回言った」
燈真が笑った。
「もっと聞きたい」
「久我くん」
「だめ?」
「だめじゃないですけど」
言いかけて、依央は小さく笑った。
「俺、だいぶ簡単に崩れますよ」
「知ってる」
「知ってるの強い」
「好きだから」
依央は今度こそ机に額をつけた。
「無理」
燈真の手が、依央の頭には触れない。
ただ、横で待っている。
その距離が、やさしかった。
依央は顔を上げた。
「晴臣に、言います?」
燈真は少し考える。
「言う」
「今日?」
「うん」
「早い」
「隠すの、晴臣に悪い」
依央は少しだけ笑った。
「それはそう」
「でも、学校では」
「はい」
「今まで通りでいい?」
依央は頷いた。
「俺も、花の生徒会がありますし。クラスもありますし。雑部もありますし」
「うん」
「でも、部室では」
そこまで言って、依央は顔が熱くなった。
燈真が続きを待っている。
依央は視線を泳がせた。
「……少しくらい、甘くてもいいです」
燈真の目元がゆるむ。
「少し?」
「今のは、かなり控えめに言いました」
「そっか」
「久我くん、嬉しそうですね」
「うん」
素直。
その返事に、依央はまた胸がいっぱいになった。
部室の扉の向こうから、足音が近づいてきた。
晴臣だ。
依央は反射で燈真の手を離そうとした。
燈真は、少しだけ名残惜しそうに手を離す。
その顔を見て、依央の心臓が跳ねた。
(待って。名残惜しそうな久我くん、破壊力がすごい。もう恋人? 恋人ってことでいい? いや、今なった。なったんだよな。やばい。俺、久我くんの恋人。言葉の強さで倒れる♡)
扉が開いた。
晴臣が入ってくる。
「ただいまー。千紘さん、駅前のカフェで新作飲んでてさ……」
そこで止まった。
部室の空気を見た。
依央の顔を見た。
燈真の顔を見た。
机の上の備品台帳と、揃った三つのマグと、二人の微妙な距離を見た。
晴臣は、ゆっくり目を細めた。
「言った?」
依央は何も言えなかった。
燈真が短く答えた。
「言った」
晴臣は両手で顔を覆った。
「うわー!」
「晴臣、声」
「いや声出るだろ! ついに! ついにお前ら!」
「ついにって言わないで」
晴臣は顔を上げた。
目が少しだけ潤んでいるようにも見えたが、表情は完全に笑っていた。
「よかったな、依央」
その声が、思ったよりやさしくて、依央の胸がまた熱くなった。
「……うん」
「久我も」
燈真は頷いた。
「うん」
晴臣は二人を見て、にやっとした。
「で?」
依央は嫌な予感がした。
「何」
「キスは?」
依央はマグを持ったまま固まった。
燈真は少しだけ視線を逸らした。
晴臣は叫んだ。
「したな!?」
「晴臣!」
「した顔だ! お前ら、した顔してる!」
「顔で判断しないで!」
燈真が短く言う。
「うるさい」
「久我がうるさいって言った! これはした!」
依央は両手で顔を覆った。
「晴臣、お願いだから落ち着いて」
「落ち着けるか! 俺、雑部の歴史的瞬間に立ち会ってるんだぞ!」
「歴史にしないで」
「じゃあ記念日」
「もっとやめて」
晴臣は笑いながら、オレンジのマグを手に取った。
「まあ、何にせよ」
少しだけ、声が落ち着く。
「おめでとう」
依央は顔を上げた。
晴臣が、まっすぐ笑っている。
千紘と続いている晴臣。
ずっと横でツッコんできた幼馴染。
依央のポンコツも、燈真の短さも、全部見てきた友人。
その晴臣が、ちゃんと祝ってくれている。
依央は胸が熱くなった。
「ありがとう」
燈真も短く言う。
「ありがとう」
晴臣は満足そうに頷き、それから急に真顔になった。
「じゃあ、お祝いココアだな」
「何でも会にする」
「今日はしていいだろ」
依央は笑った。
「まあ、今日はいいかも」
燈真も棚からグレーのマグを取った。
「温める」
晴臣が電子レンジの前で拳を握る。
「雑部、祝・成立ココア」
「名前がださい」
「ださいとか言うな。感動してるんだぞ」
三つのマグにココアを入れる。
電子レンジが低く鳴る。
いつもの音。
いつもの部室。
でも、今日は少しだけ違う。
依央と燈真は、隣に立っていた。
近い。
晴臣はそれを見て、にやにやしている。
「距離」
「晴臣」
「はいはい。俺は何も見てません」
「見てるじゃん」
「見てる」
依央は笑った。
燈真も笑った。
笑いながら、依央は思った。
恋人になっても、雑部は雑部だ。
晴臣がいて、三つのマグがあって、電子レンジが鳴って、掲示物と備品台帳が机の上にある。
その中で、依央と燈真は、少しだけ違う温度を持った。
それが、たまらなく嬉しい。
ココアが温まる。
晴臣が三つのマグを並べる。
薄い青。
深いグレー。
オレンジ。
依央は自分のマグを持ち、燈真を見る。
燈真も、深いグレーのマグを持って、依央を見た。
晴臣がオレンジのマグを掲げる。
「じゃ、雑部に」
依央は笑う。
「雑部に?」
晴臣はにやっとした。
「恋人が増えました」
「言い方!」
燈真が少し笑った。
依央も、もう笑うしかなかった。
三つのマグが、軽く触れ合う。
小さな音が部室に響いた。
窓の外は、三月の夕方。
冬の冷たさはまだ少し残っている。
でも、部室の中はあたたかかった。
依央は、マグを両手で包みながら、燈真の隣に立った。
その距離が、もうさっきまでとは違う。
そして、違うことを、怖いと思わなかった。
むしろ、嬉しくて仕方なかった。




