第49話 卒業式、千紘先輩と晴臣の春
三月の白鷺坂高校は、冬の顔を少しだけ残していた。
朝の空気はまだ冷たい。瑞城市の山の稜線には薄い白さが残っていて、校門へ続く坂道では、吐く息がほんの少しだけ見える。
けれど、校舎の中はいつもと違っていた。
体育館の入口には卒業式の案内紙が貼られ、廊下には三年生の胸につける花が入った箱が置かれている。花の生徒会の生徒たちが、受付の位置や来賓案内の紙を何度も確認していた。
依央は、花の生徒会の腕章をつけて、体育館前の掲示を見上げた。
卒業生入場経路。
保護者受付。
在校生待機場所。
文字だけならただの案内だ。
でも、今日はその先に、白石千紘がいる。
花の生徒会の先輩。
清楚で、きれいで、いつも落ち着いていて。
晴臣の彼氏。
依央は掲示紙の端を指で押さえながら、少しだけ息を吐いた。
(白石先輩、卒業か。分かってたけど、紙にされると急にくる。卒業生、って文字、強い。晴臣、大丈夫かな。いや、たぶん大丈夫じゃない。あいつ絶対、朝から変な顔してる)
晴臣は別クラスだ。
だから朝の二年三組にはいない。
その代わり、教室には黒瀬陸斗の声が響いていた。
「卒業式って、何か急に学校がちゃんとするよな」
依央は腕章を外さずに席へ戻りながら答える。
「普段もちゃんとしてるよ」
「いや、今日の廊下、空気が違う」
篠宮怜央が静かに言った。
「卒業式だから当然」
「篠宮、今日も事実がまっすぐ」
鷹宮蓮は窓の外を見て、少しだけ笑った。
「花宮も、来年は送られる側に近づくんだね」
依央は一瞬、返事に詰まった。
来年。
その言葉は、最近ずっと近い。
花の生徒会の次の中心。
雑部の継続。
燈真の医学部への道。
自分の進路。
全部が、少し先で待っている。
「まずは今日をちゃんとやるよ」
依央が言うと、鷹宮は穏やかにうなずいた。
「うん。花宮なら大丈夫」
黒瀬が即座に乗る。
「今日の花宮、式典の姫って感じする」
「黒瀬くん、その呼び方は外で言わないで」
「え、ぴったりじゃん」
「式典に姫を混ぜない」
教室が笑う。
依央も笑った。
その笑いは、前より少しだけ楽だった。
完璧な顔を作らなくても、こうやってツッコんで、笑って、戻れる。
それを教えてくれたのは、雑部での時間と、燈真の短い言葉だった。
後ろの席で、燈真が静かに立ち上がる。
「花宮」
「はい」
「旧校舎側の案内紙、式の後で回収?」
「そうです。卒業生と保護者が通るところだけ、臨時掲示を出してるので」
「手伝う」
依央は自然に笑った。
「お願いします」
その返事が、もう当たり前みたいになっていることに、胸が少し熱くなる。
(手伝う、って短いのに、好き。俺がやる仕事に普通に入ってきてくれるところ、好き。朝から卒業式でしんみりしてたのに、久我くん一言で心臓が通常通りやばい♡)
****
体育館は、花の匂いと少しだけ冷たい空気で満ちていた。
卒業生が入場し、式が始まる。
依央は花の生徒会の手伝いで、体育館の端に立っていた。千紘は三年生の列の中にいる。いつもより少しだけ背筋が伸びていて、胸の花がよく似合っていた。
白石千紘は、最後まで白石千紘だった。
派手に泣くわけでもない。
周囲を落ち着かせるように、静かに座っている。
でも、卒業証書を受け取って戻る時、ほんの少しだけ目元がやわらかくなった。
依央はそれを見て、胸がきゅっとした。
(白石先輩、きれいだな。最後まで。俺、ああいう先輩になれるかな。いや、白石先輩になる必要はない。俺は俺でいい。……って思えるようになったの、けっこう大きいな)
式の途中、依央は体育館の後ろにいる晴臣を見つけた。
在校生の列ではなく、手伝いの合間に少しだけ見える位置。
晴臣は、いつものように騒いでいなかった。
背筋を伸ばして、千紘を見ている。
目元が少し赤い気がした。
でも、ちゃんと笑おうとしている。
その顔を見た瞬間、依央の胸が少しだけ痛んだ。
(晴臣、顔。泣くの我慢してる。いや、我慢しなくてもいいのに。けど、あいつなりにちゃんと見送りたいんだろうな)
式は静かに進んだ。
校歌。
卒業生代表の言葉。
拍手。
椅子の音。
体育館の高い天井に、すべてが少し遅れて響く。
そして、卒業生が退場していく。
千紘が近くを通る瞬間、依央は軽く頭を下げた。
千紘は依央に気づき、ほんの少しだけ微笑んだ。
それだけで、依央は十分だった。
****
式の後、校内は一気にざわついた。
三年生を囲む後輩。
写真を撮る保護者。
廊下に響く笑い声。
花束。
制服の胸の花。
白鷺坂高校の廊下が、今日だけ少し広く見える。
依央は花の生徒会の後輩たちと一緒に、体育館周りの案内紙を確認していた。
「この保護者受付の紙、もう外して大丈夫ですか?」
後輩が聞く。
「うん。そっちは回収。卒業生の写真撮影場所の案内は、もう少し残しておこう」
「はい」
「旧校舎側の案内は、雑部で回収するから、こっちに束ねておいて」
「分かりました」
後輩が小さく笑う。
「花宮先輩、今日すごく先輩っぽいです」
「今日だけ?」
「いつもです。でも今日は特に」
依央は少しだけ笑った。
「ありがとう」
以前なら、完璧に褒め言葉として受け取ったかもしれない。
今は、少し違う。
先輩っぽいと言われる自分も、雑にツッコむ自分も、雑部で机に沈む自分も、全部が自分の中にある。
その全部で、前に立てばいい。
そう思える。
廊下の向こうから、晴臣が歩いてきた。
いつもの勢いは、少しだけ控えめだ。
「依央」
「晴臣」
「千紘さん、あとで旧校舎寄るって」
「雑部に?」
「うん。少しだけ」
晴臣はそう言って、照れたように目をそらした。
「最後に、三人にも挨拶したいって」
依央は頷いた。
「分かった」
「俺、泣いてないから」
「何も言ってない」
「顔見たら言いそうだった」
「言わないよ」
晴臣は少しだけ笑った。
でも、その笑いは揺れていた。
依央は、晴臣の肩を軽く叩いた。
「ちゃんと見送った顔してる」
晴臣は一瞬だけ黙った。
「……そう?」
「うん」
「なら、いい」
それだけ言って、晴臣は小さく息を吐いた。
その横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
****
旧校舎の掲示回収は、三人で行った。
依央、燈真、晴臣。
卒業式用に貼った臨時案内紙を外し、クリップを小箱に戻し、備品台帳に使用数を書く。旧校舎の廊下は、式のざわめきから少し離れていて、窓から入る光だけが明るかった。
晴臣は案内紙を外しながら、ぽつりと言った。
「千紘さん、卒業したんだな」
依央は掲示紙を束ねながら答える。
「うん」
「変な感じ」
「そうだね」
燈真は金具を確認しながら、短く言った。
「でも、会うんだろ」
晴臣は燈真を見た。
「会う」
「なら、続く」
その一言に、晴臣は目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「久我、たまにすげえこと短く言うよな」
「普通」
「普通じゃないんだよな」
依央はそのやり取りを聞きながら、胸が温かくなった。
続く。
卒業しても。
学校の廊下で毎日会う形ではなくなっても。
晴臣と千紘は、続いていく。
そのことを、燈真は当たり前のように言った。
(続く、か。いいな。短いのに、すごくいい。久我くんらしい。晴臣の顔、ちょっと戻った)
部室へ戻ると、棚には三つのマグが並んでいた。
薄い青。
深いグレー。
オレンジ。
机の上には回収した案内紙と、備品台帳。電子レンジの横には、ココアの箱が少しだけ残っている。
晴臣は自分のオレンジのマグを見て、少しだけ笑った。
「今日、ココア飲む?」
依央は頷いた。
「飲もう」
燈真も棚からグレーのマグを取った。
「温める」
晴臣が即座に反応する。
「久我、マグ運用うまくなったな」
「運用?」
「雑部の冬文化」
「晴臣が勝手に作ったやつ」
「でも定着しただろ」
「したね」
依央は薄い青のマグを手に取った。
その時、部室の扉が軽く叩かれた。
「入ってもいいかな」
千紘の声だった。
晴臣の動きが止まる。
依央は扉へ向かった。
「どうぞ」
千紘が入ってくる。
制服の胸には、卒業生の花。
手には小さな紙袋。
いつもの清楚な笑顔のままなのに、今日だけは少し違って見えた。
卒業する人の顔だった。
「白石先輩、ご卒業おめでとうございます」
依央が言うと、千紘はやわらかく笑った。
「ありがとう、花宮くん」
燈真も短く頭を下げる。
「おめでとうございます」
「ありがとう、久我くん」
晴臣は、少し遅れて言った。
「……おめでとう、千紘さん」
千紘は晴臣を見る。
その目が、式の時より少しだけ甘くなる。
「ありがとう、晴臣くん」
部室の空気が、少しだけ変わった。
依央は、自分のマグを持ったまま、そっと一歩引く。
燈真も同じように、机の横へ移った。
晴臣と千紘が向かい合う。
晴臣は、言葉を探しているようだった。
「卒業、したな」
「うん」
「制服、今日で最後?」
「学校ではね」
「そっか」
晴臣の声が少しだけ揺れる。
千紘は紙袋を晴臣へ差し出した。
「これ、晴臣くんに」
「え」
「卒業だから。お礼と、これからもよろしくの分」
晴臣は紙袋を受け取った。
中には、小さなハンカチと、落ち着いた色のペンが入っていた。
晴臣はそれを見て、何度か瞬きをした。
「……俺、今日、何か渡す側のつもりだった」
千紘が笑う。
「受け取る側でもいいんじゃないかな」
「千紘さん」
「うん」
「卒業しても、会いに行くから」
千紘の目元が、少しだけやわらかくなる。
「うん。待ってる」
「連絡もする」
「うん」
「うるさかったら言って」
「たぶん、言わない」
晴臣が少し笑った。
笑った瞬間、目元が赤くなった。
「……泣いてない」
千紘は一歩近づき、晴臣の手をそっと握った。
「うん」
それだけ。
それだけで、晴臣は黙った。
依央は胸がいっぱいになった。
晴臣がいつもみたいに騒がない。
千紘も、いつもの清楚な距離より少しだけ近い。
学校内では秘密にしてきた二人が、卒業の日の旧校舎で、ほんの少しだけ素直に手を握っている。
それが、すごく綺麗だった。
(晴臣、よかったな。ほんとに。白石先輩も、晴臣のことちゃんと大事にしてる顔してる。……泣くな俺。俺が泣く場面じゃない。でも、くる。これはくる)
依央の隣で、燈真が静かに立っている。
その手が、ほんの少しだけ依央の手元に近づいた。
触れない。
でも、近い。
依央はそれだけで落ち着いた。
千紘は晴臣の手を離し、今度は依央へ向き直った。
「花宮くん」
「はい」
「花の生徒会、よろしくね」
その言葉は、軽くなかった。
けれど、重たく押しつける感じでもなかった。
千紘が大事にしてきた場所を、依央へ渡す。
そういう言葉だった。
依央は背筋を伸ばした。
「はい。俺なりに、ちゃんとやります」
「うん。花宮くんなら大丈夫」
「白石先輩みたいには、できないかもしれません」
千紘は少し笑った。
「花宮くんは、花宮くんのままでいいよ」
胸の奥が、静かに熱くなる。
それは、最近ずっと燈真からもらってきた言葉と、同じ場所に届いた。
依央は頷いた。
「はい」
千紘は燈真にも視線を向ける。
「久我くんも、晴臣くんと花宮くんをよろしく」
燈真は短く答えた。
「はい」
晴臣がすぐに言う。
「俺も久我のことよろしくするけどな」
「晴臣が?」
依央が言うと、晴臣は少しだけいつもの顔に戻った。
「俺だってするわ」
「じゃあ、まずクリップ数えて」
「卒業の日にそれ?」
「雑部なので」
千紘が笑った。
その笑い声が部室に響く。
卒業式の日なのに、雑部はちゃんと雑部だった。
しんみりして、少し泣きそうで、でも最後にはツッコミがある。
晴臣がそれで少し元気になるのを、依央はちゃんと見た。
千紘は紙袋から、小さな包みをもう一つ出した。
「これは、雑部へ」
「え」
晴臣が目を丸くする。
包みの中には、少し高そうなココアの缶が入っていた。
「電子レンジとマグがあるって聞いたから」
依央は思わず笑った。
「白石先輩、把握してるんですね」
「晴臣くんがよく話してくれるから」
晴臣が照れた。
「言ってたっけ」
「たくさん」
燈真が缶を見て、短く言う。
「助かります」
「よかった」
千紘は部室を見回した。
三つのマグ。
電子レンジ。
備品台帳。
掲示物の束。
おでん要相談の文字が残る使用ルール表。
その全部を見て、千紘は穏やかに笑った。
「いい場所だね」
依央は、胸を張りすぎないようにして言った。
「はい。いい場所です」
晴臣も頷く。
「かなり」
燈真も短く言う。
「うん」
三人の声が、少しずつ重なる。
千紘はそれを見て、満足そうに目を細めた。
しばらくして、千紘は名残惜しそうに部室を出た。
晴臣が送っていくことになった。
廊下へ出る前、晴臣は振り返る。
「依央、久我」
「何」
「ありがとな」
依央は少しだけ笑った。
「何が?」
「いろいろ」
晴臣はそれ以上言わなかった。
燈真が短く返す。
「うん」
依央も頷いた。
「行ってきな」
晴臣は千紘の隣へ並び、少し照れた顔で歩き出した。
二人の背中が、旧校舎の廊下を進んでいく。
卒業生の花が、窓から入る光に少しだけ白く見えた。
*****
部室に戻ると、依央と燈真だけが残った。
机の上には、千紘からもらったココアの缶。
三つのマグ。
回収した掲示紙。
備品台帳。
依央は、ゆっくり息を吐いた。
「卒業、しちゃいましたね」
「うん」
「白石先輩、きれいでした」
「うん」
「晴臣、泣きそうでした」
「泣いてた」
「やっぱり?」
「少し」
依央は笑った。
少しだけ。
「でも、いい顔してました」
「うん」
燈真は窓の方を見る。
旧校舎の窓からは、体育館の方が少し見える。まだ写真を撮る声が遠くに聞こえる。
依央は、薄い青のマグを手に取った。
中には、千紘からもらったココアが少しだけ入っている。
「俺、来年どうなるんでしょうね」
燈真がこちらを見る。
「花宮なら、大丈夫」
その言葉は、もう聞き慣れたようで、何度聞いても胸に来る。
「久我くんも、そういうの急に言いますね」
「急?」
「急です」
「でも、思ったから」
依央はマグを見つめた。
白石先輩みたいにはできない。
でも、花宮依央のままでいい。
千紘も、燈真も、そう言った。
なら、やるしかない。
作った姫の顔だけではなく、雑なツッコミも、ポンコツな内心も、好きな人の前で真っ赤になる自分も、全部持って。
「久我くん」
「何」
「俺、ちゃんと前に出ます」
「うん」
「花の生徒会も、雑部も」
「うん」
「……久我くんの隣も」
声が少しだけ小さくなった。
でも、言えた。
燈真の目が静かに依央を見る。
「うん」
短い返事。
けれど、そこには確かな温度があった。
燈真の手が、机の上で少しだけ依央の手に近づく。
依央も、ほんの少しだけ指を伸ばした。
触れる。
指先だけ。
それだけで、卒業式のざわめきとは違う静けさが部室に落ちる。
「花宮」
「はい」
「一緒に見る」
依央は燈真を見る。
「何を」
「来年」
その言葉に、胸の奥がふっと熱くなった。
来年。
少し怖くて、少し楽しみで、少し眩しい言葉。
依央は、指先を重ねたまま笑った。
「はい」
外から、晴臣の声が聞こえた。
「依央ー! ココアの缶、千紘さんからだから大事にしろよ!」
依央は吹き出した。
「声大きい」
燈真も少し笑う。
部室の中には、三つのマグと、卒業式の案内紙と、千紘からのココアがある。
それから、指先だけ触れた二人の手。
白石千紘が卒業して、晴臣は少し泣いて、でもちゃんと笑った。
そして依央は、自分の番が少しずつ近づいていることを感じていた。
冬はまだ残っている。
でも、廊下の光は、朝より少しだけ春に近かった。




