第48話 医学部を選ぶ日
二月の終わりが近づくと、白鷺坂高校の廊下には、冬と春の紙が一緒に貼られるようになった。
冬期講習の最終案内。
自習室の利用時間。
三者面談の日程表。
それから、卒業式に向けた校内通路の確認。
まだ空気は冷たいのに、掲示板だけが少し先へ行こうとしている。
依央は、花の生徒会から預かった紙の束を抱えながら、二年三組の教室へ入った。
「花宮、また紙持ってる」
黒瀬陸斗がすぐに反応する。
「花の生徒会の仕事」
「最近、紙に追われてない?」
「追われてません。管理してるだけ」
篠宮怜央が横から言う。
「紙の管理は重要」
「篠宮くん、急に味方」
「進路関係の掲示は、間違うと全員に影響する」
「味方というより、正論だった」
鷹宮蓮は依央の腕の中の紙を見て、少し笑った。
「花宮、紙束を持ってても絵になるね」
「紙束で褒められる日が来るとは思わなかった」
「先頭に立つ人の顔をしてる」
依央は少しだけ返事に詰まった。
先頭に立つ人。
花の生徒会の仕事が増えて、後輩に聞かれることも増えて、千紘が少しずつ手を離していく。その中で、自分が前に出ている実感はある。
嬉しい。
でも、その嬉しさの横に、別のものもある。
燈真の進路調査票。
冬期講習の掲示に出た名前。
自習室利用の控え。
深いグレーのマグの横に置かれた答案。
それらが、少しずつ燈真の行く先を形にしている。
依央は、後ろの席へ視線を向けた。
燈真は、机の上に一枚の紙を置いていた。
新しい進路調査票。
その横には、大学案内らしい冊子がある。表紙には、医学部の文字。
依央の胸が、静かに鳴った。
(医学部。分かってた。話の流れで、たぶんそうだろうなって思ってた。でも紙にあると強い。文字、強い。久我くんの未来、急に印刷されてる。待って、俺の心臓、朝から処理できない)
燈真が顔を上げた。
「花宮」
「はい」
「見てた?」
「見てました」
最近、否定する力が本当に落ちている。
燈真は少しだけ笑った。
「紙?」
「紙も、久我くんも」
言ってから、依央は自分の口を閉じた。
まただ。
最近、燈真相手だと、言葉が素直に出すぎる。
(紙も久我くんも、って何。朝の教室で言う台詞じゃない。俺、もう防御の扉が壊れてる。しかも久我くん、笑うな。余計に壊れる♡)
黒瀬が遠くから声を上げた。
「久我、医学部?」
教室が少しだけ反応した。
篠宮が冊子を見て、静かに言う。
「久我の成績なら、十分狙えると思う」
鷹宮も穏やかに頷いた。
「似合うね。静かに人を助けそう」
燈真は冊子を閉じた。
「まだ考えてる」
その声は短い。
でも、以前のように白いまま置いておく声ではなかった。
考えている。
紙を見ている。
名前のある場所へ、少しずつ近づいている。
依央は、その変化を見ていた。
(考えてる。久我くんが、自分で。家の紙じゃなくて、学校の紙じゃなくて、自分の手元で。やばい。かっこいい。苦しい。好きがまた増える。もう増える場所ないはずなのに、普通に増える)
****
放課後、雑部は旧校舎の掲示板前にいた。
花の生徒会から回ってきた三者面談日程の更新紙と、自習室利用時間の変更案内を、旧校舎側にも貼る必要があった。卒業式準備で本校舎の掲示が増えるので、旧校舎側も少し整えておきたいらしい。
晴臣は掲示紙を押さえながら、指先に息を吹きかけた。
「二月の旧校舎、普通に寒い」
依央はクリップの小箱を持ちながら答えた。
「もうすぐ三月なのにね」
「三月って響きだけ春ぶってる」
「晴臣の季節への文句、毎回雑」
燈真は掲示板の金具を見ていた。
「ここ、また緩んでる」
「久我くん、お願いします」
「うん」
晴臣がにやっとする。
「久我、完全に雑部の金具担当だな」
「誰が決めた」
「俺」
「却下」
「久我が却下した!」
依央は笑った。
旧校舎の掲示板は、前より少し見やすくなっている。
冬の間に何度も紙を差し替え、金具を直し、落とし物箱を整理し、備品台帳をつけた。最初は雑に始まった同好会なのに、今は三人の手が自然に動く。
依央が紙を押さえる。
燈真がクリップを留める。
晴臣が離れて確認する。
誰かが言う前に、次の手が動く。
それが、少しだけ嬉しかった。
「依央、右」
晴臣が言う。
「こっち?」
「もう少し。そこで」
燈真がクリップを留める。
「見える?」
晴臣が後ろへ下がる。
「見える。字、でかいな」
「面談日程だからね」
「見たくない人にも見えるやつ」
「晴臣、面談から目をそらさない」
「そらしてない。薄目で見てる」
作業を終えると、三人は部室へ戻った。
机の上には、備品台帳と、今日外した古い掲示紙。棚には三つのマグが並んでいる。
薄い青。
深いグレー。
オレンジ。
晴臣はオレンジのマグを取り出しながら、得意げに言った。
「作業終わりのココア、もう完全に定番だな」
依央は薄い青のマグを手に取る。
「晴臣が一番定着させた」
「俺、雑部の文化担当だから」
「おでん担当じゃなくて?」
「それも兼任」
燈真が深いグレーのマグを出し、短く言う。
「匂い」
「久我、まだ言う!」
「大事」
依央は笑いながら、備品台帳に今日の作業内容を書き込んだ。
三者面談日程表、差し替え。
自習室利用時間、更新。
掲示板金具、再固定。
文字にすると、かなり地味だ。
でも、こういう地味な行が積み重なって、雑部はちゃんとここにある。
電子レンジが低く鳴り、三つのマグから湯気が上がった。
晴臣はココアを一口飲み、スマホを見た。
「あ、千紘さんからだ」
「今日も分かりやすい」
「卒業式の準備の話。ちょっと廊下で返す」
「はいはい」
晴臣はマグを机に置き、スマホを持って部室を出ていった。
扉が閉まる。
部室には、依央と燈真が残った。
机の上には、備品台帳。
差し替えた掲示紙。
三つのマグ。
それから、燈真の鞄から少しだけ見えている医学部の冊子。
依央は、その冊子を見た。
燈真も気づいた。
「見る?」
「いいんですか」
「うん」
燈真は冊子を取り出し、机の上へ置いた。
依央は隣に座る。
近い。
紙を一緒に見る距離。
前に答案を見た時と似ている。
けれど、今日は点数ではない。
もっと先の紙だ。
医学部のページ。
カリキュラム。
実習。
地域医療。
白い紙の上に、見慣れない言葉が並んでいる。
依央は、少しだけ息を吸った。
「すごいですね」
「うん」
「大変そう」
「うん」
「久我くん、ここを見るんですね」
燈真は冊子の端に指を置いた。
「見てる」
「決めたんですか」
聞いてから、依央の胸が少しだけ固くなる。
でも、聞きたかった。
燈真はすぐには答えなかった。
部室の外で、廊下を歩く足音が遠くに聞こえる。電子レンジの余熱みたいな匂いと、ココアの甘さが残っている。
「今日」
燈真が言った。
「書いた」
依央は顔を上げた。
「進路調査票に?」
「うん」
「医学部って?」
「うん」
短い返事。
でも、その中に、いつもよりはっきりした重さがあった。
依央は、マグを持つ手に力を入れた。
「そうですか」
それしか出なかった。
嬉しい。
すごい。
かっこいい。
大丈夫なのか。
大変ではないのか。
いろいろ浮かんだ。
けれど、最初に出たのは、それだけだった。
燈真は冊子を見たまま、静かに続けた。
「家が医院だから、じゃなくて」
依央は黙って聞いた。
「そう言われることは多いけど」
「はい」
「俺が、書いた」
その言葉が、部室の中に落ちた。
俺が、書いた。
依央は、その一言をゆっくり受け取った。
家の期待。
地域の大人の言葉。
進路調査票の白い欄。
本気の点数。
自習室の申し込み。
それらが、ここへ繋がっている。
でも最後に紙へ書いたのは、燈真自身の手だった。
依央は、燈真の手を見た。
マグの横に置かれた指。
前より少しだけ、あたたかそうに見える。
「久我くん」
「うん」
「かっこいいです」
言葉は、するっと出た。
飾らなくても、もうそれしかなかった。
燈真は依央を見る。
少しだけ驚いた顔。
依央は視線をそらさなかった。
「家のことも、周りの言葉も、きっと消えるものじゃないと思います」
「うん」
「でも、久我くんが書いたなら」
依央は一度、息をした。
「俺は、それを見ます」
燈真の目が静かに揺れた。
「見る?」
「はい」
「大変かも
「でしょうね」
「時間も取られる」
「でしょうね」
「たぶん、ずっと楽ではない」
「それは、見たら分かります」
燈真は少しだけ黙った。
依央は、言葉を足した。
「俺、久我くんが楽な方を選んでほしいわけじゃないです」
燈真が依央を見る。
「久我くんが、自分で書いた方を選んだなら、それをちゃんと見たいです」
言ってしまった。
でも、怖くはなかった。
胸は熱い。
でも、揺れていない。
それが、自分でも少し不思議だった。
燈真は、マグをそっと置いた。
「花宮」
「はい」
「手」
依央は一瞬止まった。
「手?」
「貸して」
指先が熱くなる。
依央は、薄い青のマグから手を離し、机の上へ出した。
燈真の手が、そこに重なる。
手袋はしていない。
部室の中だから、素手だ。
冬の間、何度も意識した手。
冷たい日もあった。
支えられた日もあった。
繋いだ日もあった。
今日は、燈真から重ねてきた。
依央は息を止めそうになった。
(久我くんから。手。今。ここで。やばい。ココアより熱い。好きすぎて苦しいのに、すごく落ち着く。何これ。好きな人の手、心臓に悪いのに、呼吸にはいい)
燈真は、依央の手を強く握らなかった。
ただ、重ねている。
それだけ。
「ありがとう」
短い言葉だった。
依央は、その手を見つめた。
「……俺、何もしてません」
「見てるって言った」
「はい」
「それでいい」
依央は、胸の奥がゆっくり熱くなるのを感じた。
見ている。
それだけでいいと言われた。
でも、依央にとっては、それだけではない。
燈真が自分で選んだ方へ進むなら、隣で見ていたい。
疲れた時には、ココアを出したい。
何も言えない時には、手を重ねたい。
そういうことを、一つずつ積み重ねたい。
まだ、全部は口にできない。
でも、手の上にある温度が、少しだけ言葉の代わりになった。
「久我くん」
「うん」
「俺も、ちゃんとします」
燈真が見る。
「何を」
「花の生徒会も、雑部も、自分のことも」
依央は少しだけ笑った。
「久我くんが自分で書いたなら、俺も、自分の紙を人に任せないです」
燈真の目元が少しだけゆるむ。
「花宮っぽい」
「それ、最近よく言いますね」
「うん」
「雑にまとめてません?」
「まとめてない」
燈真は、重ねた手を少しだけ握った。
「好きだから」
依央の呼吸が止まった。
何を。
そう聞く前に、燈真が続ける。
「そういうところ」
依央は、胸の奥が一気に熱くなった。
好き。
そういうところ。
また、燈真は短い言葉で大きなものを置いていく。
(好き。そういうところ。久我くん、ほんと急に来る。無理。今のは無理。けど、うれしい。めちゃくちゃうれしい。好きすぎて、もう笑うしかない♡)
依央は、少しだけ笑った。
「……今の、かなり強いです」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、覚えてて」
依央は燈真を見た。
「覚えます」
即答だった。
覚えないわけがない。
今日、燈真が医学部と書いたこと。
自分で書いた、と言ったこと。
依央の手に、燈真の手が重なったこと。
そういうところが好きだと言われたこと。
全部、冬の部室の温度と一緒に、胸に残る。
廊下から晴臣の声が近づいてきた。
「千紘さん、卒業式の話になると急に大人なんだけど!」
扉が開く前に声が聞こえる。
依央は反射で手を引こうとして、少しだけ止まった。
燈真も離さなかった。
一秒だけ。
ほんの一秒だけ、そのままでいた。
それから、二人は自然に手を離した。
扉が開く。
晴臣が入ってくる。
「ただいま。……何その空気」
依央はマグを持った。
「ココアの空気」
「そんな甘いココアある?」
「晴臣、マグ冷めるよ」
「ごまかした」
燈真は医学部の冊子を閉じ、鞄にしまった。
晴臣はその表紙をちらっと見た。
「久我、決めた?」
部室が少しだけ静かになる。
燈真は短く答えた。
「書いた」
晴臣の顔が、一瞬で明るくなる。
「そっか」
それだけだった。
晴臣はふざけなかった。
ただ、オレンジのマグを持って、少しだけ笑った。
「じゃあ、今日のココアは進路記念だな」
依央は笑った。
「また会を作る」
「いいだろ。雑部は何でも会にする」
燈真が短く言う。
「おでんは別」
「久我、そこは別にするな!」
晴臣の声で、部室の空気が一気に軽くなる。
依央は笑って、薄い青のマグを両手で包んだ。
深いグレーのマグ。
オレンジのマグ。
三つが机の上に並んでいる。
そこに、燈真が自分で書いた未来の話がある。
重いだけではない。
怖いだけでもない。
ちゃんと、三人で笑える場所に置けた。
窓の外は、もう暗い。
瑞城市の冬の夕方は早い。
でも、部室の中には、三つのマグと、備品台帳と、差し替えた掲示紙と、閉じられた医学部の冊子がある。
依央は燈真の横顔を見た。
燈真はココアを飲みながら、少しだけ目元をゆるめている。
その顔を見て、依央は胸の奥で思った。
この人が自分で選んだ道を、ちゃんと見たい。
その隣で、自分も自分の顔で立ちたい。
冬は、まだ終わっていない。
でも、次の春へ向かう紙は、もう一枚、確かに書かれた。




