第47話 バレンタイン、同じチョコと渡す理由
バレンタイン前の白鷺坂駅前は、明らかに甘かった。
商店街の洋菓子店には、赤と茶色の小さなポスターが貼られている。駅ビルの一角には特設のチョコ売り場ができていて、学生らしい男子たちが、妙に真剣な顔で箱を見比べていた。
男子校でも、バレンタインは来る。
それどころか、男子校だからこそ、妙な熱がある。
友チョコ。
部活チョコ。
先輩チョコ。
後輩チョコ。
名前はいくらでもつけられる。
問題は、名前をつけたところで、依央の中身がまったく落ち着かないことだった。
(チョコ売り場、全部俺を責めてくる。可愛い箱。大人っぽい箱。シンプルな箱。好きですって書いてないチョコ、逆にどれ? 久我くんに渡す理由、ありすぎて逆にない。詰んだ♡)
依央は棚の前で、すでに十分近く固まっていた。
手には小さなチョコの箱。
深いグレーの包装紙に、銀の細いリボン。
見た瞬間、燈真っぽいと思った。
思ってしまった。
そこでもう終わっている。
(グレー。銀。久我くんのマグと星。はい、連想。だめ。これ選んだら気持ちが透ける。いや、誰に? 店員さんに? チョコに? 俺の脳内、誰と戦ってるの)
依央は箱を戻しかけた。
戻せなかった。
燈真に似合う。
それだけで、戻せない。
「お客様、お悩みでしたらこちらも人気ですよ」
店員が、やさしく声をかけてくる。
依央は反射で外向きの笑顔を出した。
「ありがとうございます。友人に渡すものを選んでいて」
友人。
雑部仲間。
いつものお礼。
チョコを渡す理由としては、どれも使える。
でも、その言葉を口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ引っかかった。
(友人。雑部仲間。お礼。全部嘘じゃない。でも、それだけじゃない。俺、かなりめんどくさいな。チョコ一個でこんなに脳内会議する?)
店員が別の箱を見せる。
白い箱に、淡い青のリボン。
依央は一瞬、自分のマグを思い出した。
薄い青のマグ。
雑部の棚。
燈真の深いグレーのマグ。
晴臣のオレンジのマグ。
あの三つが並んだだけで、部室が少し暖かく見える。
(マグまで出てくる。チョコ売り場で雑部の棚を思い出すな俺。久我くんだけじゃなくて、晴臣の顔まで出てきた。友チョコも買わないと怒られるやつ)
依央は白い箱を手に取った。
これは晴臣用でいい。
明るい色の方が晴臣っぽい気もするが、晴臣は何でも喜ぶ。千紘からもらえるものとは別に、雑部の友チョコとして渡せば、たぶん騒ぐ。
燈真には、深いグレーの箱。
晴臣には、白と淡い青の箱。
そう決めた瞬間、依央は少しだけ息を吐いた。
(よし。雑部チョコ。友チョコ。お礼。全部成立。久我くんへのだけ明らかに悩みすぎた事実は、俺の胸の中に埋める。埋めろ。顔に出すな)
会計を済ませ、依央は店の外に出た。
その時、通りの向こうに見覚えのある背中が見えた。
黒いコート。
少し猫背。
静かな立ち方。
久我燈真。
依央は、足を止めた。
燈真は、別の店のショーケースを見ていた。
チョコの店だ。
依央の心臓が、一瞬で変な動きをした。
(え。久我くんもチョコ売り場? 誰に? いや、家族とか。雑部とか。晴臣とか。普通にありえる。ありえるけど、何見てるの。何買うの。誰に。誰に?)
見てはいけない気がした。
でも、見た。
燈真はしばらくショーケースを見て、小さな箱を二つ選んだ。
ひとつは、深いグレーの包装に銀のリボン。
もうひとつは、白い箱に淡い青のリボン。
依央は、駅前で静かに固まった。
(待って)
同じ。
たぶん、同じ店ではない。
でも、ほとんど同じ色。
同じ組み合わせ。
(待って。久我くん、それ誰用? グレーと銀。白と青。いや、偶然。世の中にチョコの色なんて限られてる。限られてるけど、待って。俺と同じ選び方してない? 何それ。やばい。嬉しい前に混乱が来た)
燈真が顔を上げた。
視線が合った。
依央はとっさに紙袋を後ろへ回した。
燈真も、手元の小さな袋を少しだけ下げた。
完全に見えている。
「花宮」
「久我くん」
「買い物?」
「買い物です」
「チョコ?」
「……雑部用です」
「そっか」
燈真の声はいつも通りだった。
でも、いつもより少しだけ耳が赤い気がした。
依央はそこを見た。
見てしまった。
(耳。赤い? 寒いから? チョコだから? 俺に見られたから? やばい、全部都合よく見える。俺の目、信用できない)
「久我くんも」
「うん」
「チョコですか」
「うん」
「誰に」
聞いた。
聞いてしまった。
燈真は一瞬だけ黙った。
依央の心臓が跳ねる。
「雑部」
「雑部」
「うん」
「なるほど」
なるほど、ではない。
何も分かっていない。
でも、駅前でこれ以上聞く勇気はなかった。
燈真も聞かなかった。
二人はそれぞれの紙袋を持って、ほんの少しだけぎこちなく別れた。
「また、学校で」
「はい」
それだけ。
たったそれだけなのに、依央は駅前の風にしばらく立ち尽くした。
(雑部用。久我くんも雑部用。俺も雑部用。じゃあ何でこんなに心臓が騒ぐの。雑部って言えば何でも通ると思うなよ。……俺が一番使ってるけど)
****
バレンタイン当日、放課後の旧校舎は冷えていた。
雑部は、まず旧校舎一階の掲示板確認から始まった。
花の生徒会から回ってきた春先の説明会仮案内を、古い掲示と差し替える。さらに、落とし物箱に残っていた手袋とマフラーを、職員室前へ移すためのリストに書き込む。
机の上には、備品台帳、掲示紙、クリップの小箱。
棚には、三つのマグ。
薄い青。
深いグレー。
オレンジ。
晴臣は落とし物リストを見ながら、唸っていた。
「片方だけの手袋、多すぎる」
依央は掲示紙の角をそろえながら言った。
「冬の旧校舎あるあるだね」
「持ち主、気づかないのかな」
「気づいたら取りに来るでしょ」
「俺なら泣く」
「晴臣は手袋より千紘さんからのチョコで頭いっぱいでしょ」
晴臣の顔が一瞬でゆるんだ。
「もらった」
「聞いてないのに答えた」
「きれいな箱だった」
「よかったね」
「まだ開けてない。帰ってから開ける」
「大事にしすぎ」
「大事だろ」
依央は笑った。
晴臣の浮かれ方は分かりやすい。
でも、その分、見ていて少し安心する。
好きな相手からもらったものを、ちゃんと嬉しそうにする。
羨ましいくらい、素直だ。
(俺も、あれくらい顔に出せたら楽なのかな。無理だな。俺が久我くんからチョコもらったら、たぶん顔だけじゃ済まない。心臓が部室の床に落ちる)
「花宮」
燈真の声がした。
依央は掲示紙を持ったまま、振り向く。
「はい」
「そっち、貼る?」
「貼ります」
「手伝う」
燈真が掲示板の前に立つ。
依央が紙を押さえ、燈真がクリップで留める。
指が近い。
触れない。
でも近い。
バレンタインの日に、掲示物を貼っているだけなのに、空気が勝手に甘くなる。
(何で掲示紙一枚でこんなに意識するの。チョコが鞄にあるから? 久我くんの鞄にもあるかもしれないから? バレンタイン、怖い。行事が勝手に仕事場へ侵入してくる♡)
****
掲示を終えると、三人は部室に戻った。
晴臣はさっそく電子レンジの横に立つ。
「仕事終わりのココア」
「晴臣、最近それ言いたいだけでしょ」
「マグがあると飲みたくなるんだよ」
「分かるけど」
燈真が三つのマグを棚から出す。
深いグレーのマグ。
薄い青のマグ。
オレンジのマグ。
当たり前のように並ぶ。
その景色に、依央は少しだけ胸が温かくなった。
晴臣がオレンジのマグにココアを入れながら、にやっとする。
「で」
依央は身構えた。
「何」
「今日、バレンタインじゃん」
「そうだね」
「雑部には?」
「晴臣、催促の仕方が雑」
「俺、友チョコ文化を大事にしてる」
「都合のいい文化」
晴臣が期待に満ちた目で見る。
依央は鞄から小さな紙袋を出した。
「はい。晴臣」
「あるんだ!」
「友チョコです」
「依央!」
晴臣は両手で受け取った。
「ありがとう! 千紘さんの次に大事に食べる!」
「順位を出さないで」
「正直」
燈真がその様子を見ていた。
依央は、次の紙袋を持ったまま、少しだけ固まる。
深いグレーの箱。
銀のリボン。
駅前で選んだ時から、ずっと妙に重い。
「久我くん」
「うん」
依央は紙袋を差し出した。
「これ。いつものお礼と、雑部用と、まあ、いろいろです」
燈真は紙袋を受け取った。
「ありがとう」
短い。
でも、ちゃんと受け取る手つきだった。
依央はその手元を見てしまう。
見ていたら、燈真が自分の鞄へ手を伸ばした。
そして、同じように紙袋を二つ取り出した。
ひとつを晴臣へ。
「榎本」
「え、俺にも?」
「うん」
晴臣は目を丸くして受け取る。
「久我から友チョコ!?」
「雑部」
「雑部チョコ!」
「名前つけた」
「嬉しいからいい!」
そして、燈真はもうひとつを依央へ差し出した。
「花宮」
依央は、息を止めた。
「……俺にも?」
「うん」
「雑部用?」
「それも」
それも。
その言葉で、依央の耳が熱くなる。
依央は紙袋を受け取った。
中を見る。
深いグレーの包装紙に、銀のリボン。
昨日、自分が選んだものと、ほとんど同じ。
依央は無言で、自分が燈真へ渡した紙袋を見た。
燈真も、受け取った箱を出す。
同じ。
本当に、同じチョコだった。
部室の空気が止まった。
晴臣がまず叫んだ。
「待って」
依央は顔を押さえたくなった。
「晴臣、待たないで」
「無理。お前ら、同じチョコ選んだの?」
燈真は自分の箱と依央の箱を見比べる。
「同じだな」
「落ち着いて言うな!」
依央は薄い青のマグを見つめた。
(同じ。久我くんと同じチョコ。しかも俺宛。いや雑部用もある。でも俺に渡した。俺が久我くん用に選んだのと同じ。何これ。やばい。嬉しい。嬉しすぎて逆に動けない♡)
晴臣は自分の紙袋も開けた。
白い箱に、淡い青のリボン。
依央が晴臣用に買ったものと同じ。
晴臣は、依央からもらった箱を取り出した。
同じ。
完全に同じ。
「待って、俺のも同じ!」
依央は今度こそ机に手をついた。
「嘘でしょ」
燈真は少しだけ目を開いた。
「本当だ」
晴臣は二つの箱を両手に持って、爆笑した。
「お前ら、俺への友チョコまで同じなの何!?」
「知らない!」
「久我、何でこれ選んだんだよ!」
燈真は晴臣の箱を見る。
「榎本っぽいかと思って」
依央は小さく呻いた。
「俺もです」
晴臣がさらに笑う。
「発想まで同じ! 怖い! いや嬉しい!」
「晴臣、笑いすぎ」
「笑うだろ! 依央と久我が同じ気持ちで俺とお互いのチョコ選んでるんだぞ!」
依央は耳まで熱くなった。
「同じ気持ちとか言わないで」
燈真が少しだけ視線を落とす。
「同じではある」
依央は燈真を見た。
「久我くん」
「何」
「そこで乗らないでください」
「でも、同じだった」
「そうですけど」
(同じだった。同じだったって、そんな顔で言うな。俺の心臓、チョコより溶けてる。無理♡)
晴臣は二つの友チョコを大事そうに鞄へしまった。
「俺、これ千紘さんに報告していい?」
「だめ」
依央が即答する。
「何で」
「白石先輩に笑われる」
「いいじゃん。幸せな事故だろ」
「事故って言うな」
燈真が短く言う。
「偶然」
「久我、そこだけ冷静」
晴臣はにやにやしながら、スマホを見た。
「千紘さんから連絡きた。廊下で返してくる」
「逃げるの早い」
晴臣は振り返る。
「はいはい。二人で同じチョコ眺めてろ」
晴臣は笑いながら部室を出ていった。
扉が閉まる。
部室が急に静かになる。
机の上には、同じチョコの箱が二つ。
深いグレー。
銀のリボン。
三つのマグから、ココアの湯気が上がっている。
依央は、自分のマグを両手で包んだ。
「……びっくりしました」
「うん」
燈真は自分がもらった箱を見ている。
「花宮も、これ選んだんだな」
「久我くんもです」
「うん」
「何でこれにしたんですか」
燈真は少しだけ考えた。
「花宮に似合うと思った」
依央は固まった。
「俺に?」
「うん」
「グレーと銀が?」
「うん」
「俺、そんなに地味ですか」
「きれい」
呼吸が止まるかと思った。
燈真は、いつもの顔で、そう言った。
「派手じゃないけど、ちゃんと目に残る」
依央はマグを握る手に力を入れた。
(何それ。チョコの説明? 俺の説明? やばい。無理。久我くん、バレンタインにそういうこと言うな。甘さがチョコを超える♡)
「……久我くんは」
「うん」
「俺、久我くんに似合うと思って選びました」
「グレーと銀?」
「はい」
「地味?」
「静かで、強くて、きれいなので」
言った。
言ってしまった。
でも、戻さなかった。
燈真は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そっか」
その声が、少し柔らかい。
依央はそれだけで、胸が苦しくなる。
「あと」
燈真が言う。
「何ですか」
「渡したかった」
依央は顔を上げた。
燈真は、同じチョコの箱を見ている。
「理由は、雑部とか、お礼とか、いろいろ言えるけど」
短い間。
「渡したかった」
その言葉が、まっすぐ胸に来た。
依央は、すぐには返せなかった。
チョコ売り場で迷った時間。
友人、雑部仲間、いつものお礼。
いくつも名前をつけようとして、結局どれも足りなかった気持ち。
燈真も、同じところにいたのかもしれない。
依央はゆっくり息をした。
「俺もです」
声は小さかった。
でも、ちゃんと出た。
「理由、いろいろ考えたんですけど」
「うん」
「渡したかったです」
燈真が依央を見る。
「うん」
その一音で、部室の中が少しだけ静かに甘くなる。
告げたい言葉は、まだ奥にある。
でも、今日渡したかったことは、言えた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
依央はチョコの箱をそっとマグの横に置いた。
深いグレーの箱。
薄い青のマグ。
その隣に、燈真のグレーのマグ。
晴臣のオレンジのマグは、少し離れたところで湯気を立てている。
三人の場所。
その中で、二人だけが少しだけ違う温度を持っている。
依央は、胸の奥で小さく笑った。
(同じチョコ。渡したかった。同じこと考えてた。やばい。嬉しい。好き。もう好きしか出てこない。でも今日は、ここまででいい。チョコ、強すぎ)
廊下から晴臣の声が聞こえた。
「千紘さん、めっちゃ笑ってる!」
依央は額に手を当てた。
「報告したんだ」
燈真が少し笑う。
「榎本だし」
「それで通りますね」
扉が開き、晴臣が満面の笑みで戻ってきた。
「千紘さんが、三人で食べる時は写真送ってって」
「白石先輩まで」
「あと、俺へのチョコが二つあるの、めちゃくちゃ笑ってた」
「でしょうね」
晴臣は自分のオレンジのマグを持った。
「いやー、今年のバレンタイン、最高だな」
依央は薄い青のマグを持つ。
「晴臣が一番楽しんでる」
「だって、千紘さんのチョコもあるし、依央と久我から同じ友チョコもらったし、二人は同じチョコで真っ赤だし」
「最後いらない」
「いるだろ」
燈真は深いグレーのマグを持って、短く言った。
「うるさい」
晴臣が笑う。
「久我が照れてる!」
「うるさい」
二回目。
依央は笑った。
バレンタイン。
チョコ。
同じ箱。
渡したかった。
いろいろな理由をつけなくても、その言葉だけで十分な日がある。
****
旧校舎の外は、もう暗くなり始めていた。
瑞城市の冬の夕方は早い。
けれど、雑部室には三つのマグと、同じチョコの箱と、晴臣の笑い声と、燈真の少し赤い耳がある。
依央は、自分の胸の奥で溶けかけている甘さを、静かに受け取った。
恋は、まだ言葉になりきっていない。
でも、今日のチョコみたいに、ちゃんと手渡せるものもある。
それが、たまらなく嬉しかった。




