第46話 依央、姫営業を失敗する
冬の朝は、教室に入る前から少しだけ気合いがいる。
白鷺坂高校の廊下は冷えていて、窓の外には瑞城市の山の稜線が青く沈んでいた。駅前商店街のイルミは朝には消えているのに、昨日の光の名残だけが、依央の中にまだ少し残っている。
燈真の名前が掲示板に出た日。
答案を一緒に見た日。
かっこよかったです、と言ってしまった日。
そこから、依央の心臓はかなり扱いづらくなっていた。
(好きって認めた後の学校生活、難易度高すぎ。久我くんがいるだけで視界が勝手にそっち行く。廊下にいる。教室にいる。雑部にいる。多い。いや、同じ学校だから当たり前。久我くん、当たり前みたいに存在しないでほしい♡)
依央は教室の前で一度息を整えた。
今日は花の生徒会の後輩対応がある。
冬休み明けから、来年度に向けた準備が少しずつ始まっていた。新しく入るかもしれない生徒向けの案内、校内掲示の整理、春先の説明会の仮案。千紘が卒業に向けて少しずつ手を離しているぶん、依央が前に立つ場面も増えている。
ちゃんとしなければ。
男子校の姫として。
花の生徒会の先輩として。
(はい、今日も姫。完璧に整える。後輩に頼られる先輩。余裕の笑顔。品のある返し。久我くんの答案を思い出して机に沈む男じゃない。切り替えろ、俺)
教室へ入ると、黒瀬陸斗がすでに騒いでいた。
「花宮! 聞いてくれ!」
「朝から声が大きい」
「購買の新作パン、売り切れてた!」
「平和な事件だね」
「平和じゃない。俺の朝が崩れた」
篠宮怜央が本を閉じる。
「買うのが遅い」
「篠宮、そういう正しさはパンの前では冷たい」
鷹宮蓮は黒瀬の手元を見て、さらっと言った。
「代わりに買ったメロンパン、花宮に似合いそう」
「なぜ俺に似合うパンを探すの」
「白くて丸いから」
「俺はパンではありません」
黒瀬が笑う。
「でも花宮、購買に立ってたら売れるだろ」
「俺を商品棚に置かないで」
いつもの教室。
いつもの軽口。
依央は自然に笑えた。
少し前なら、こういう場面で自分の笑顔を整えることに意識が向いていた。今も整える。そこは変わらない。けれど、少しだけ力の入り方が違う。
完璧な顔だけでなく、ツッコミを入れる自分も、周囲は普通に受け取っている。
それを、少しずつ知ってきた。
「花宮」
後ろから燈真の声がする。
依央の心臓は、すぐ反応した。
「はい」
「今日、花の生徒会?」
「放課後に少し。旧校舎の掲示物も回ってきます」
「手伝う」
「雑部の方ですか」
「うん」
「助かります」
言ってから、依央は少しだけ止まった。
助かります。
普通の言葉だ。
でも、燈真に言うと妙に胸が鳴る。
燈真が少しだけ依央を見る。
「顔」
「朝の冷えです」
「教室、暖房ついてる」
「心の冷えです」
「何それ」
燈真が少し笑った。
その笑いを見て、依央は机に手を置いた。
(無理。朝から久我くんが笑った。俺の心の冷え、秒で溶けた。何この人。暖房器具? いや違う。好きな人。はい、終わり♡)
放課後、花の生徒会の部屋には、後輩たちが集まっていた。
机の上には、次の校内案内用の資料、春先の掲示案、部活動紹介の仮リスト。千紘は受験関係の用事で途中から合流する予定で、最初の確認は依央が任されていた。
一年生の後輩が、少し緊張した顔で資料を差し出す。
「花宮先輩、ここ、どう直したらいいですか」
「見せて」
依央は資料を受け取った。
校内案内の文面。
丁寧だが、少し固い。
「ここは、もう少し話しかける感じでいいと思う。初めて来る子が読むから」
「話しかける感じ……」
「例えば、図書室なら『静かに勉強できます』だけじゃなくて、『テスト前に使う人も多いです』とか」
「なるほど」
別の後輩がメモを取る。
「花宮先輩、すごいですね」
依央は笑った。
「慣れだよ」
「先輩みたいに、自然に話せる気がしないです」
「大丈夫。最初からうまくやろうとしなくていいから」
依央は、いつもの先輩の顔で言った。
ここまではよかった。
問題は、その後だった。
後輩の一人が、部活動紹介のリストを見ながら首をかしげた。
「この同好会って、何をしてるんですか? 校内生活改善同好会」
依央の手が止まった。
雑部。
後輩は真剣な顔で続ける。
「名前だけ見ると、すごく立派なんですけど」
「立派……」
「はい。校内を改善するんですよね?」
依央の脳内に、電子レンジ、ココア、三つのマグ、おでん要相談、晴臣の笑顔、燈真のグレーのマグが一気に浮かんだ。
立派。
たしかに掲示物も貼る。
落とし物も整理する。
備品台帳も見る。
でも、それだけではない。
依央は反射で言った。
「名前ほど立派じゃないよ」
言ってから、固まった。
後輩も固まった。
部屋の空気が一瞬止まる。
依央は内心で頭を抱えた。
(出た。素。花の生徒会の先輩として、今の返しは何。もっとあるでしょ。校内の小さな困りごとを手伝う同好会です、とか。旧校舎の掲示管理もしています、とか。何で名前ほど立派じゃないよって言った。終わった)
後輩の一人が、ぷっと笑った。
それにつられて、もう一人も笑う。
「花宮先輩、そういうこと言うんですね」
「え」
「なんか、ちょっと安心しました」
「安心?」
「先輩、いつもきれいで完璧だから。何でも上品に言うのかと思ってました」
依央は資料を持ったまま固まった。
別の後輩が言う。
「でも、分かりやすいです。名前は立派だけど、小さいことをちゃんとやってる同好会ってことですよね」
「……そう。そういうこと」
「じゃあ、紹介文は『旧校舎の掲示物整理や落とし物確認など、校内の小さな不便を整える同好会です』とかどうですか」
依央は目を瞬いた。
「いいと思う」
「やった」
後輩たちが笑う。
緊張していた空気が、少しゆるんだ。
依央は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
失敗したと思った言葉が、後輩たちを遠ざけなかった。
むしろ、近づいた。
(え。今のもありなの? 俺、また素で言ったのに。後輩、引いてない。むしろ笑ってる。完璧じゃない方が話しやすいって、こういうこと?)
その後も、依央は少しだけ肩の力を抜いて資料確認を進めた。
「ここ、文章が固い」
「え、固いですか」
「うん。先生に提出する文みたい」
「じゃあ、どうすれば」
「読む相手を中学生にする。先生に褒められる文じゃなくて、見た子が少し安心する文」
「花宮先輩、今の分かりやすいです」
「さっきより先輩っぽいです」
「さっきよりって何」
後輩たちが笑う。
依央も、少しだけ素で笑った。
資料確認が終わる頃、千紘が部屋に顔を出した。
「お疲れさま。順調?」
後輩たちが一斉にうなずく。
「はい。花宮先輩、すごく分かりやすかったです」
「ちょっと面白かったです」
「話しやすかったです」
依央は慌てて言う。
「白石先輩、今のは後半だけ聞いてください」
千紘はやわらかく笑った。
「全部聞きたいな」
「聞かなくていいです」
「花宮くんが、ちゃんと頼られてるのは分かったよ」
その言葉に、依央は黙った。
頼られている。
完璧な笑顔だけではなく、少し雑な言葉も含めて。
後輩たちが笑ってくれる。
千紘が受け取ってくれる。
それが、嬉しくて、少し怖いくらいだった。
千紘は机の上の資料を見て、静かに頷いた。
「いい紹介文だね。雑部らしい」
「雑部、名前ほど立派じゃないらしいです」
後輩の一人が言って、依央は顔を覆いかけた。
「そこ共有しないで」
千紘は笑った。
「でも、伝わるよ」
「白石先輩まで」
「小さいことを整えるって、けっこう大事だから」
その言葉で、依央は少しだけ背筋を伸ばした。
雑部。
旧校舎。
掲示物。
落とし物。
電子レンジ。
三つのマグ。
くだらない会話。
燈真の隣。
全部が、依央の中で少しずつ大事な場所になっている。
****
花の生徒会の作業が終わると、依央は旧校舎へ向かった。
後輩たちが作った校内案内の試し刷りを、旧校舎の掲示板にも貼ってみる必要があった。位置を確認し、文字が見やすいか、古い掲示と重ならないかを見る。
雑部の仕事として、燈真と晴臣が先に部室で準備しているはずだった。
旧校舎の廊下は、夕方の冷えが早い。
部室の扉を開けると、机の上には掲示用のクリップ、小さな水平器、備品台帳、三つのマグが並んでいた。
晴臣は紙を持っていた。
「依央、これが新しいやつ?」
「うん。試し刷り」
「花の生徒会、ちゃんとしてるな」
「雑部もちゃんとして」
「してるだろ。俺、クリップ数えた」
「えらい」
燈真は掲示板用のクリップを小箱に戻しながら、依央を見る。
「お疲れ」
その一言で、依央の胸が少しだけゆるむ。
「お疲れさまです」
晴臣がにやにやする。
「花の生徒会、どうだった?」
「普通」
「その普通、何かあった顔だな」
「晴臣、勘がいい時だけ面倒」
「面倒って言った」
燈真がこちらを見る。
「何かあった?」
依央は試し刷りを机に置いた。
「……ちょっと、姫営業を失敗しました」
晴臣が即座に食いつく。
「何それ聞きたい」
「聞かなくていい」
「久我、聞きたいよな」
燈真は短く言う。
「聞きたい」
依央は二人を見た。
「久我くんまで」
「うん」
「俺が校内生活改善同好会について、名前ほど立派じゃないって言いました」
晴臣が吹き出した。
「合ってる!」
「晴臣」
「いや、合ってるだろ。旧校舎の掲示貼って、落とし物箱見て、電子レンジ守ってる同好会だぞ」
「守ってる?」
「特におでんの権利」
「まだ権利になってない」
燈真が少しだけ笑った。
依央はその笑いを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「後輩たちは、笑ってくれました」
「いいじゃん」
晴臣はあっさり言う。
「依央、最近そっちの方が話しやすいんじゃね?」
依央は黙った。
晴臣の言い方は雑だ。
でも、たまに真ん中を突いてくる。
「そっちって何」
「完璧に姫してる時より、ちょっと素が出てる時」
依央は言葉に詰まった。
燈真が掲示紙を手に取りながら言う。
「俺も、そっち好き」
部室の空気が、一瞬で変わった。
晴臣が目を見開く。
依央は固まった。
「久我くん」
「何」
「今の言い方」
「何」
「雑すぎます」
「そう?」
「そうです」
(好きって言った? そっち好きって。いや、性格の話。素の顔の話。でも好きって言った。久我くんが。部室で。晴臣の前で。やばい。心臓が机から落ちる♡)
晴臣がゆっくり口を開いた。
「俺、今の聞いていいやつ?」
依央は即答した。
「聞かなかったことにして」
「無理」
「晴臣」
「久我が悪い」
燈真は特に悪びれた様子もなく、掲示紙の角をそろえている。
「貼りに行く?」
「行きます。今すぐ行きます」
依央は勢いよく立ち上がった。
****
旧校舎一階の掲示板で、三人は試し刷りを貼った。
依央が紙の位置を見て、燈真がクリップで留め、晴臣が少し離れて文字の見え方を確認する。
「もう少し上」
晴臣が言う。
依央が紙を少し上げる。
燈真の指が近い。
「ここ?」
「うん」
依央は掲示紙を押さえながら、そっと燈真を見る。
「久我くん」
「何」
「今日、ひどかったですよね」
「何が」
「俺の先輩としての顔」
燈真は掲示紙の角を留めた。
「よかった」
「即答」
「うん」
「どこが」
「後輩、笑ってた」
「それは、まあ」
「花宮っぽかった」
依央は、掲示板を見たまま黙った。
前にも似た言葉をもらった。
でも、今日のそれは少し違う。
花の生徒会の先輩として、雑部の一員として、クラスの姫として。
全部をきれいに整えられない日があっても、燈真はそれを見て、花宮っぽいと言う。
「久我くん」
「うん」
「俺、きれいな顔だけじゃないですよ」
「知ってる」
「口も悪いです」
「知ってる」
「けっこう雑です」
「知ってる」
「たまに、何でそれを知ってる顔するんですか」
燈真は少しだけ笑った。
「見てるから」
依央は、掲示紙を押さえる指に力を入れた。
(見てるから。そうだよな。久我くん、ずっと見てる。俺が整えた顔も、崩れた顔も、雑部で机に沈むところも。全部見て、その上で花宮っぽいって言う。……やばい。信じそうになる)
晴臣が後ろで咳払いした。
「すみません、俺、旧校舎の空気になります?」
「晴臣」
「今の会話、甘さが掲示板に染みる」
「染みません」
「染みてる。文字が読めない」
燈真が淡々と言う。
「読める」
「久我、そういう問題じゃない」
依央は笑ってしまった。
その笑いは、作ったものではなかった。
でも、廊下の冷たい空気の中で、ちゃんと響いた。
掲示物を貼り終えて部室へ戻ると、晴臣が三つのマグを棚から出していた。
「仕事終わりのココア」
「晴臣、定着したね」
「マグがあると飲みたくなる」
「分かる」
依央は薄い青のマグを手に取った。
燈真は深いグレーのマグ。
晴臣はオレンジのマグ。
三つ並ぶと、やっぱり部室らしくなる。
電子レンジが低く鳴る間、晴臣はスマホを見ていた。
「千紘さん、今日の紹介文見たいって」
「白石先輩に送っていいよ」
「いいんだ」
「後輩たち、頑張ってたし」
「じゃ、送る」
晴臣が少し離れたところでスマホを操作する。
燈真は机の端で、掲示用のクリップを小箱へ戻していた。
依央はその横に座る。
「久我くん」
「何」
「今日の俺、ほんとに大丈夫でした?」
燈真は手を止めずに答える。
「うん」
「もう少し詳しく」
「後輩が話しやすそうだった」
「はい」
「晴臣も笑ってた」
「晴臣は大体笑います」
「俺も」
依央は顔を上げた。
燈真はクリップを戻し終え、小箱のふたを閉める。
「好き」
その言葉が、まっすぐ落ちた。
依央の中で、さっきよりずっと深く。
「……何を、ですか」
何とか聞いた。
燈真は依央を見る。
「花宮が、気を抜いて笑うところ」
依央は呼吸を忘れかけた。
晴臣が遠くでスマホを持ったまま固まっているのが、視界の端に見えた。
「久我くん」
「うん」
「今の、だいぶ強いです」
「そう?」
「そうです」
(好き。気を抜いて笑うところが好き。久我くんが。俺の。何それ。無理。泣くとかじゃない。叫ぶでもない。胸の中が全部あったかくなる。やばい。俺、今の言葉、たぶん一生覚えてる)
電子レンジが鳴った。
晴臣がものすごく不自然に動き出す。
「はい! ココア! 甘い空気に甘い飲み物!」
「晴臣」
「俺、今かなり頑張ってる」
「何を」
「場を通常運転に戻す努力」
依央は笑った。
燈真も少し笑った。
三つのマグから湯気が上がる。
依央は薄い青のマグを両手で包んだ。
今日、姫営業は少し崩れた。
後輩の前で、雑な言い方をした。
完璧な先輩には見えなかったかもしれない。
でも、後輩は笑った。
千紘は頼られていると言った。
晴臣はそっちの方が話しやすいと言った。
燈真は、好きだと言った。
気を抜いて笑うところが。
依央はマグの温度を指先で感じながら、胸の奥で小さく息をした。
全部をきれいに飾らなくても、ここに座っていられる。
それは、思っていたよりずっと、あたたかかった。
窓の外はもう暗い。
瑞城市の冬の夕方は早い。
けれど、旧校舎の部室には、三つのマグと、低く鳴る電子レンジと、晴臣の雑なツッコミと、燈真の静かな視線がある。
依央は少しだけ笑った。
作った顔ではなく、気を抜いた顔で。
燈真がそれを見て、ほんの少しだけ目元をゆるめた。
その反応だけで、依央はまた胸がいっぱいになった。




