第45話 久我燈真、本気の点数
冬休み明けの白鷺坂高校は、少しだけ空気が固かった。
年明けの浮かれた感じはまだ残っている。黒瀬陸斗は朝から「餅食いすぎた」と騒いでいるし、鷹宮蓮はどこかの店で買ったらしい小さな焼き菓子を、静かに鞄へしまっている。篠宮怜央はいつも通り、机の上をまっすぐ整えていた。
ただ、教室の後ろの掲示板には、冬期講習と自習室開放の案内が貼られている。
年が明けた。
冬休みが終わった。
だから、学校は急に先のことを見せてくる。
黒瀬は掲示を見て、朝から深いため息をついた。
「冬休み、終わったの早すぎない?」
依央はマフラーを外しながら答えた。
「毎年そう言ってる」
「毎年終わるのが早いからな」
「黒瀬くん、理屈が雑」
篠宮が後ろを振り返る。
「冬期講習の申し込み、今日までだぞ」
「篠宮、朝から現実を出すな」
「締切は朝でも夕方でも同じ」
「冷たい!」
鷹宮が笑った。
「でも、黒瀬は追い込まれた方が動けそうだよね」
「鷹宮、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんって何!」
教室に笑いが起きる。
依央も笑った。
けれど、笑いながら視線は後ろへ向かっていた。
燈真が席についている。
机の上には、返却されたばかりの模試の答案が重ねられていた。まだ全員に全部が返ったわけではない。科目ごとに先生が回収袋から取り出し、順番に渡しているところだ。
燈真は、返ってきた答案を静かに見ている。
それだけで、依央の胸が少し速くなる。
(はい、出た。久我くんと答案用紙。好きな人の答案にときめく高校生活、続行中。何これ。俺、点数に恋してるわけじゃないのに、久我くんが紙を見るだけで心臓が反応する。やば♡)
「花宮」
燈真が顔を上げた。
依央はびくっとしそうになるのを、ぎりぎりで止めた。
「はい」
「見てた?」
「見てました」
即答した。
燈真が少しだけ目を細める。
「今日は言うんだ」
「もう否定する方が弱いので」
「弱い?」
「いえ、何でもないです」
自分で言って、自分で少し慌てた。
燈真は追及しなかった。
けれど、口元が少しだけ笑っている。
それだけで依央は机の上の自分の答案を見下ろした。
(やめて。その顔やめて。久我くん、答案見るより俺を見る方が心臓に悪い。模試より難しい。採点できない♡)
返却が進むにつれて、教室のあちこちから声が上がった。
黒瀬は数学の答案を見て、机に倒れた。
「終わった」
篠宮が横から覗く。
「前よりは上がっている」
「それ慰め?」
「事実」
「今日の事実、ちょっと優しい!」
鷹宮は答案を見て、少し首を傾げた。
「英語、思ったより取れてた」
「鷹宮くん、それで思ったよりなの怖い」
「花宮は?」
「まあ、普通」
「花宮の普通、たぶん高い方だよ」
「鷹宮くん、そういう褒め方、さらっと来るね」
「本当のことだし」
依央は笑って受けた。
でも、気になっているのは自分の点数ではない。
燈真の答案だ。
先生が最後に返した答案を、燈真が受け取る。
ぱら、と紙がめくられる。
依央は、見ないようにした。
見ないようにして、見た。
点数。
高い。
思った以上に。
依央は息を止めた。
(なにあれ。点数でイケメンムーブするな。静かに数字で殴ってくるな。久我くん、答案まで地味に強いの何。やばい。かっこいい。点数見てかっこいいって思う俺も終わってる♡)
燈真は騒がない。
高い点数を見ても、少しだけ目を通して、机の端にそっと置くだけだった。
その静けさが、余計に強い。
黒瀬がちらっと見て、固まった。
「久我」
「何」
「それ、何点?」
燈真は少しだけ答案を裏返した。
「普通」
「普通じゃない顔してたぞ、点数が」
「点数に顔はない」
「ある! 今のは強者の顔!」
篠宮が燈真の答案に視線を向ける。
「久我、その点なら冬期講習の上位クラスだな」
教室が少しざわついた。
「え、久我?」
「まじ?」
「そんな取ってたの?」
燈真は少しだけ眉を寄せた。
目立つのが好きではない顔だ。
けれど、答案を鞄へしまう動きは普通だった。
隠そうとしているようには見えなかった。
依央はそこを見ていた。
前なら、何もなかったみたいに流したかもしれない。
今は、自分の点数が周囲に見える場所に出ることを、完全には避けていない。
(本気、出したんだ。少しって言うんだろうけど。これは少しじゃない。いや、久我くんの中では少しかもしれない。でも、前に出た。自分で)
****
昼休み、廊下の掲示板の前には人だかりができていた。
冬期講習のクラス分けと、自習室の利用希望者一覧が貼り出されていたからだ。
黒瀬は人の間から掲示を見る。
「俺、補習じゃない! 見ろ、花宮!」
「おめでとう。声は小さく」
「これは祝うべきだろ!」
篠宮は自分の名前を確認して、特に表情を変えない。
「予想通り」
「篠宮くん、かっこいいけど怖い」
「何が」
「揺れなさ」
鷹宮は掲示の上の方を見て、目を細めた。
「久我、篠宮の近くにあるね」
依央は、その言葉で掲示を見た。
久我燈真。
篠宮怜央の名前の少し下にある。
上位クラス。
自習室利用希望にも、久我燈真の名前があった。
黒瀬が思わず声を上げる。
「久我、名前あるじゃん!」
廊下の数人が振り向く。
燈真は掲示の前で、いつものように立っていた。
「見れば分かる」
「いや、分かるけど! 何でそんな普通なんだよ!」
「申し込んだから」
「説明が短い!」
篠宮が掲示を見ながら言った。
「久我の数学、途中式は少ないけど処理が速い。英語も読解の取り方が安定している」
燈真が篠宮を見る。
「よく見てるな」
「見えたから」
黒瀬が篠宮を指さす。
「篠宮が認めた! これは本物!」
「本物という言い方は雑だ」
「雑でもすごいだろ!」
鷹宮がふっと笑う。
「久我は、静かに目立つね」
「目立ちたくない」
燈真の返事は短い。
でも、掲示板の前からすぐには離れなかった。
依央は、それを見ていた。
燈真が自分の名前を見ている。
騒がない。
でも、なかったことにもしていない。
(やばい。かっこいい。点数だけじゃない。名前が出ても、そこにいる。久我くんが、自分でそこに立ってる。何それ。好きが増える。もう増やす場所ある? あるんだな。怖い♡)
燈真の鞄で、銀色の星形ストラップが小さく揺れていた。
依央の鞄には薄い青の星。
二つとも、冬の廊下の光を受けている。
それを見ただけで、少し落ち着いた。
同じ形のものを、それぞれがちゃんと持っている。
今はそれだけで、胸が支えられる。
****
放課後、雑部の仕事は旧校舎の掲示差し替えだった。
本校舎に貼られた冬期講習の掲示を受けて、旧校舎側にも自習室の利用時間と、冬期講習の教室案内を出すことになった。花の生徒会から回ってきた掲示物を確認し、雑部で掲示板の位置を整える。
部室の机の上には、掲示紙、予備のクリップ、備品台帳、三人分のマグが並んでいた。
晴臣は薄い紙の束を持って、眉を寄せる。
「これ、地味に間違えたらまずいやつじゃん」
依央はクリップの数を確認しながら頷いた。
「教室番号が違うと困るからね」
「雑部、責任がある」
「今さら?」
「俺はおでん担当のつもりだった」
「まだ担当じゃない」
燈真は備品台帳の横に、自習室利用時間の紙を置いた。
「旧校舎側は二枚で足りる」
「じゃあ、一階と二階の掲示板ですね」
「うん」
晴臣が電子レンジの横に視線をやる。
「作業終わったらココアな」
「先に作業」
「はいはい」
三人は掲示物を持って廊下へ出た。
旧校舎の空気は冷たい。窓の外は早い夕方に向かっていて、校庭の端に薄い影が伸びている。三人の足音が、少しだけ響いた。
一階の掲示板で、依央が紙を押さえ、晴臣が古い掲示を外し、燈真がクリップを留め直す。
手慣れてきた。
誰が何をするか、言わなくても分かるようになっている。
「久我、そこまっすぐ?」
晴臣が聞く。
「少し右」
「依央、見て」
「右ですね。もう少し。そこで」
「雑部、連携してる」
「晴臣、急に感動しないで」
「いや、なんか、ちゃんと部活っぽい」
燈真が短く言う。
「部活じゃない」
「同好会だな」
晴臣が笑う。
依央も笑った。
くだらない会話をしながら、冬期講習の案内が掲示板に収まっていく。
その紙に、燈真の名前はない。
けれど、昼間見た掲示の中にはあった。
上位クラス。
自習室利用。
それが、依央の胸にまだ残っている。
二階の掲示も終え、部室に戻ると、晴臣が三つのマグを棚から出した。
オレンジのマグ。
薄い青のマグ。
深いグレーのマグ。
クリスマス前に晴臣が持ってきた三人分のマグは、もう部室にあるのが当たり前になっている。
晴臣は自分のマグを掲げた。
「上位クラスおめでとう会する?」
依央は鞄を置きながら振り返った。
「勝手に会を作らない」
「だってすごいじゃん」
燈真は机の端で、自習室利用の控えを見ている。
「別に」
「その別にがすごいんだよ」
晴臣はココアの粉を入れながら続けた。
「俺なら、三日は胸張って歩く」
「晴臣はすぐ顔に出るからね」
「依央も出てたぞ」
「何が」
「久我の名前見た時」
依央は薄い青のマグを持ったまま止まった。
「出てません」
「出てた」
「出てない」
燈真が静かに言う。
「出てた」
依央は燈真を見た。
「久我くんまで」
「うん」
「何が出てました?」
「嬉しそう」
依央は完全に固まった。
晴臣が爆笑した。
「依央、顔!」
「晴臣、ココアこぼすよ」
「今のでこぼすの依央だろ」
依央はマグを机に置いた。
危ない。
本当に少し揺れた。
(嬉しそう。出てた? 出てたの? いや、嬉しかったけど。久我くんが本気出して、名前が出て、自習室申し込んで、それを俺が嬉しいと思うの、もう完全に好きじゃん。知ってた。知ってるけど、人に見えるな♡)
晴臣は三つのマグを電子レンジの近くに並べた。
「俺、千紘さんに久我がすごいって送っていい?」
「何で白石先輩に」
「雑部ニュース」
「そんなニュースいりません」
燈真が少しだけ笑う。
晴臣はその顔を見て、にやっとした。
「久我、今日ちょっと機嫌いい?」
「普通」
「普通じゃない顔してる」
「黒瀬みたいなこと言うな」
「黒瀬の勢い、たまに借りると楽」
依央は笑ってしまった。
晴臣がいると、重くなりすぎない。
模試も、冬期講習も、自習室も、全部まじめなことなのに、雑部では少しだけ息ができる。
ココアが温まると、晴臣は深いグレーのマグを燈真に、薄い青のマグを依央に渡した。
「はい、上位クラスの人と、それを見て嬉しそうだった人」
「晴臣」
「はいはい」
ちょうどその時、晴臣のスマホが鳴った。
画面を見た瞬間、晴臣の顔が緩む。
「千紘さんからだ」
「分かりやすい」
「廊下で返してくる。俺がいると二人が答案見ながら変な空気になりそうだし」
「晴臣」
「何も言ってない」
「今、かなり言った」
晴臣は笑いながら部室を出ていった。
扉が閉まる。
部室が静かになる。
依央は薄い青のマグを両手で包んだ。
燈真は、自習室利用の控えを机に置いたまま、しばらく黙っていた。
依央は、その紙を見た。
名前。
利用日。
時間。
燈真の字はやっぱり読みやすい。
「久我くん」
「うん」
「本気、出したんですね」
燈真はココアを見た。
「少し」
依央は小さく息を吐いた。
この「少し」は、もうただのごまかしには聞こえなかった。
燈真なりの、最初の一歩。
大きく叫ぶわけでも、全部を語るわけでもない。
でも、自分で紙に名前を書いて、自分でそこに立った。
依央は、それを見ていた。
「その少し、ちゃんと見えました」
燈真がこちらを見る。
「見えた?」
「はい」
「そっか」
燈真は少しだけ目を伏せた。
依央はココアの温度を指先で感じながら、言葉を探した。
重くしすぎたくない。
でも、流したくもない。
「久我くんが決めたなら、俺、ちゃんと見ます」
燈真は黙っていた。
依央は続ける。
「点数とか、クラス分けとか、そういうのだけじゃなくて」
言葉が少しだけ止まる。
「久我くんが、自分でそっちへ行くところ」
燈真の手が、マグを少しだけ握り直した。
「うん」
短い返事。
でも、いつもの「うん」より少しだけ重かった。
依央は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(好きだな。こういうところ。短いのに、ちゃんと受け取ってくれるところ。全部を説明しないところ。俺が見たいって言ったら、目をそらさないでいてくれるところ)
燈真が、ふいに答案を一枚差し出した。
「見る?」
依央は目を瞬いた。
「いいんですか」
「うん」
「俺、点数目当てみたいになりません?」
「もう見てた」
「久我くん」
「字も見てた」
「そこまでばれてるんですか」
燈真が少し笑った。
依央は観念して、答案を受け取った。
近い。
答案を一緒に見るために、燈真が椅子を寄せる。
肩が触れるほどではない。
でも、紙の端を押さえる燈真の指が近い。
計算の跡。
消しゴムで薄くなった線。
無駄のない字。
依央は点数ではなく、そこに目を奪われた。
(答案用紙で距離が近い。何この状況。数字も字もかっこいいし、手も近いし、俺、勉強でこんなに心臓動くことある? やばい。自習室より俺の脳を開放してほしい♡)
「花宮」
「はい」
「顔」
「答案の情報量です」
「そう」
「そうです」
燈真は、少しだけ笑った。
その笑い方が近い。
依央は答案を見つめたまま、思った。
冬休みの駅前で、燈真はちゃんと決めてから言いたいと言った。
今日、その一つが見えた気がする。
全部決まったわけではない。
何もかもがすっきりしたわけでもない。
でも、燈真は前に出た。
静かに。
自分の名前で。
依央は答案を返した。
「久我くん」
「何」
「かっこよかったです」
言った。
言ってしまった。
でも、もう戻さなかった。
燈真が依央を見る。
少しだけ、驚いた顔。
依央はマグを持ち、視線を逸らさないようにした。
「点数だけじゃなくて。掲示板の前にいた時も、自習室の紙に名前を書いてた時も」
言葉が喉で熱くなる。
「かっこよかったです」
燈真はしばらく黙っていた。
その沈黙で、依央の心臓がかなり働いた。
けれど、燈真はやがて短く言った。
「ありがとう」
依央は、マグを持つ手に力を入れた。
その返事が、なぜかとても嬉しかった。
からかわない。
否定しない。
受け取る。
それが、今日の燈真の本気と同じように見えた。
廊下から晴臣の声が聞こえる。
「千紘さん、久我のこと普通に褒めてる!」
依央は思わず笑った。
「晴臣、声」
燈真も少し笑った。
部室の中の空気が、少しだけ軽くなる。
それでも、机の上には答案と自習室の控えがある。
しまい込まず、雑に扱わず、そこに置かれている。
依央はそれを見て、もう一度思った。
ちゃんと見る。
燈真が自分で決めて進むところを。
その隣で、自分もちゃんと立てるように。
冬の外は寒い。
瑞城市の夕方は早く、窓の向こうはもう青暗い。
けれど、雑部室の中にはココアの甘い匂いが残っている。
三つのマグが、机の上に並んでいる。
依央の鞄で、薄い青の星が小さく揺れた。
燈真の銀色の星も、机の横で静かに光っていた。




