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男子校のポンコツ姫が通ります♡  作者: いちみりヒビキ
3rdシーズン:~姫の素顔は地味男にだけ見せたい~
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第35話 後夜祭、飾った姫が崩れる夜

後夜祭の明かりが落ちると、白鷺坂高校は急に素の顔に戻り始めた。


昼間あれだけ人で埋まっていた廊下には、丸めた模造紙と空の段ボールが積まれている。教室の窓に貼られていた飾りは端から外され、黒板の文字も少しずつ消えていく。どこかの教室から、最後の拍手みたいな笑い声が聞こえた。


二年三組も、片づけの真っ最中だった。


黒瀬陸斗は、看板を外しながらまだ元気だった。


「終わったな!」

「黒瀬くん、看板持ちながら叫ばないで。危ない」


「おう!」

「返事だけ元気」


篠宮怜央は売上表と備品の数を確認している。


「黒瀬、その看板は廊下側じゃなくて教室の後ろ。あと、テープの残りは箱へ」

「篠宮、最後まで司令塔」


「最後まで片づけないと帰れない」

「現実!」


鷹宮蓮は飾りのリボンを丁寧に外していた。雑に引っ張ればすぐ終わるものを、来年も使えるかもしれないからと、きれいに巻いている。


「花宮、このリボン、残しておく?」

「うん。色、きれいだし。ありがとう」


「今日の花宮にも合ってたよ」

「片づけ中まで褒めるのやめて」


「本当だから」


近くにいた男子たちが笑う。


「花宮、今日もすごかったな」

「入口にいるだけで人止まってた」


「花の生徒会でも案内してたろ」

「雑部の腕章も似合ってた」


褒められる。


声をかけられる。


見られる。


依央は笑った。


「ありがとう。みんなもお疲れさま」


その笑顔は、ちゃんと出た。


文化祭の間ずっと使っていた、明るくて、やわらかくて、少しあざとい、白鷺坂の姫の顔。


(出る。まだ出る。花宮依央、最後まで営業可能。すごい。いや、すごいけど、そろそろ顔の内側が限界。頬が筋肉痛。心も筋肉痛。文化祭、強かった)


嫌ではなかった。


本当に、嫌ではない。


見られるのも、頼られるのも、褒められるのも、楽しかった。クラスの入口に立つのも、花の生徒会の腕章をつけるのも、雑部の巡回で校内を歩くのも、全部、依央の中にちゃんと残っている。


けれど、楽しかったものほど、終わったあとに体へ来る。


黒板の文字が消えていくのを見た時、依央は少しだけ息を吐いた。


その瞬間、教室の入口に燈真が立っているのが見えた。

雑部の腕章は外している。


鞄のファスナーには、銀色の星形ストラップが小さく揺れていた。

依央の鞄の薄い青の星も、机の横で揺れている。


目が合う。


燈真は何も言わない。


ただ、依央の顔を見た。


入口で笑っていた時の顔ではなく、片づけの途中で一瞬ゆるんだ顔を。


依央は反射で笑顔を作り直しかけた。

でも、燈真の目を見たら、その途中で止まった。


(今、作り直すところだった。危な。いや、危ないって何。いつものことじゃん。なのに久我くんの前だと、作り直すのがちょっとしんどい。見られた。崩れる手前を見られた)


「花宮」


燈真が短く呼ぶ。


「はい」

「雑部、先に行ってる」


「あ、はい。俺もあとで」

「うん」


それだけ言って、燈真は旧校舎へ向かった。


依央はしばらくその背中を見ていた。


黒瀬が横から顔を出す。


「花宮、顔ゆるんでる」

「黒瀬くん、片づけ」


「はい!」


篠宮が静かに言う。


「花宮、残りはこっちで大丈夫。花の生徒会の片づけもあるなら、先に行っていい」

「え、でも」


「入口と案内をかなりやってた。これ以上残ると、逆に明日の片づけが増える」

「篠宮くん、その言い方、優しいのか現実なのか分からない」


「両方」


鷹宮もリボンを箱に入れながら言った。


「行っておいで。花宮、今日ずっと立ってたし」

「鷹宮くんまで」


「姫にも閉店時間はあるよ」

「その表現はちょっと好き」


依央は笑った。


笑って、ありがとうと言って、教室を出た。


****


廊下は、さっきより静かだった。


後夜祭の名残がまだ少しだけ校舎に残っている。遠くで椅子を引く音、誰かの笑い声、段ボールを運ぶ足音。窓の外には、秋の夜が広がっていた。瑞城市の夜は、東京の夜より暗い。その分、校舎の明かりがやけに温かく見える。


依央は旧校舎へ向かって歩いた。


歩くたびに、今日一日が少しずつ肩から落ちていく。


クラスの入口。


花の生徒会。


校内巡回。


後夜祭の拍手。


「似合ってた」と言った燈真。


「全部」と言った燈真。


あれから、ずっと胸の奥に残っている。


(今日の俺、どれが本物だったんだろ)


ふと、そんなことを思った。


入口で笑っていた自分。


後輩に指示していた自分。


晴臣を茶化していた自分。


燈真と歩いて、少しだけ素直になった自分。


全部、自分ではある。


でも、どれが一番見られたい顔だったのか。


考えた瞬間、答えが出かけて、依央は少しだけ歩く速度を落とした。


(いや、そこまで考えるな。文化祭終わりで情緒が変。疲れてる。たぶん疲れてるだけ)


****


旧校舎の雑部室には、燈真と晴臣がいた。


晴臣は机に突っ伏している。別クラスの飾りがまだ肩についていて、完全に力尽きた顔をしていた。


「お、依央」

「晴臣、飾りついてる」


「知ってる。取る気力がない」

「文化祭に負けた?」


「千紘さんに褒められたから勝ち」

「なら、その顔は何」


「勝った後の燃え尽き」


燈真が机の上に、小さな紙袋を置いた。


「これ」


依央は覗き込む。


「何ですか」

「差し入れの残り」


晴臣が顔を上げた。


「三年のカフェのティラミス。千紘さんが、雑部のみんなでってくれた」


依央は少し目を丸くした。


「白石先輩が?」

「うん」


晴臣は照れた顔で言う。


「あと、依央にお疲れさまって」


依央は紙袋を見た。


小さなカップのティラミスが三つ入っている。


甘いもの。


でも、今日はそれが主役ではない気がした。


千紘からの「お疲れさま」。


晴臣の照れた顔。


燈真が何も言わずに紙袋を開ける手。


それだけで、少し肩の力が抜けた。


「……ありがたいですね」

「だろ」


晴臣はにやっとした。


「千紘さん、今日の花宮よかったって言ってたぞ」

「白石先輩まで」


「頼もしくなったって」


依央は、椅子に座りながら目を伏せた。


嬉しい。


本当に嬉しい。


でも、嬉しさの受け皿がもういっぱいで、こぼれそうだった。


燈真がその顔を見ていた。


「花宮」

「はい」


「食べる?」

「食べます」


晴臣がスプーンを配る。


三人でティラミスを食べた。


ほろ苦い。


甘い。


文化祭の終わりに食べるには、少し大人っぽい味がした。


晴臣は一口食べて、すぐ顔を上げた。


「うま」

「晴臣、単純」


「うまいものはうまい」

「それはそう」


依央も一口食べる。


カカオの苦みとクリームの甘さが、疲れた体にゆっくり入ってくる。


「うま」


燈真が少しだけ笑う。


「戻った?」


依央はスプーンを持ったまま、少しだけ黙った。


戻った。


たしかに、少し戻った。


でも今日は、戻るだけでは足りない。


何かが胸の奥でほどけきらずに残っている。


「……戻った、というか」


晴臣が顔を上げる。


「ん?」


依央は言いかけて、やめた。


晴臣の前で言えることと言えないことがある。


晴臣はそれに気づいたのか、わざとらしくスマホを見た。


「あ、俺、クラスの写真共有見てくる。あと千紘さんに返事する」

「ここでしてもいいのに」


「いや、廊下の方が電波いい」


明らかに雑な理由だった。


でも、今日はその雑さが優しかった。


晴臣は立ち上がり、肩の飾りを揺らしながら扉へ向かう。


「依央」

「何」


「今日はちゃんとすごかったぞ」


依央は一瞬、言葉に詰まった。


「……ありがと」

「うん。じゃ、五分くらい」


晴臣はそう言って、部室を出ていった。


扉が閉まる。


部屋が静かになる。


外では片づけの音がまだ少し聞こえている。でも、雑部室の中だけ、時間が少し遅くなったみたいだった。


依央はティラミスのカップを見つめた。


「晴臣、気を遣いましたね」

「うん」


「分かりやすい」

「でも助かる」


「……はい」


燈真は机の向こうではなく、依央の隣の椅子に座った。


近い。


でも、触れない距離。


依央はその距離に少しだけ息を吐く。


「今日」


燈真が言った。


「うん」

「ずっと見られてたな」


依央は苦笑した。


「まあ、姫なので」

「うん」


「そこは受け入れるんですね」

「事実だし」


前にも似たようなことを言われた。


でも今日は、少し違って聞こえた。


依央はスプーンを置いた。


「俺、今日、ちゃんと姫でした?」

「うん」


「クラスでも?」

「うん」


「花の生徒会でも?」

「うん」


「雑部でも?」


燈真は少しだけ依央を見た。


「雑部では、ちょっと違った」


依央の胸が少しだけ鳴った。


「……違いました?」

「うん」


「どっちが、いいですか」


言ってから、依央は自分で驚いた。


聞くつもりはなかった。


こんなことを聞いたら、かなり情けない。


でも、言葉はもう出ていた。


燈真は、すぐには答えなかった。


その沈黙が、怖くはなかった。


燈真が考えているのが分かったから。


「どっちも」


短い答え。


依央は息を止めた。


「どっちも?」

「入口で笑ってたのも、花の生徒会で動いてたのも、今みたいに疲れてるのも」


燈真は、依央の顔をまっすぐ見た。


「どれも花宮だろ」


依央は何も言えなくなった。


胸の奥で、何かがほどける。


同時に、苦しくなる。


表の顔。


姫の顔。


雑部で机に沈みそうな顔。


手を重ねる時の顔。


燈真の前でだけ、少しずつ隠しきれなくなっている顔。


それを全部、分けなくていいと言われた気がした。


(やば。無理。これは無理。泣くとかじゃない。泣かないけど、奥がぎゅってなる。どれも花宮だろ、って。そんなの、言われたら、もう)


依央は視線を落とした。


「久我くん」

「何」


「そういうの、後夜祭のあとに言うの、かなり効きます」

「効いた?」


「効きすぎです」

「そっか」


燈真の声は静かだった。


からかわない。


勝ち誇らない。


ただ、そこにいる。


依央は机の上に手を置いた。


さっきまでティラミスのカップを持っていた手。


少しだけ冷えている。


燈真の手が、すぐ近くにある。


「……今日、ずっと見られてました」

「うん」


「みんなに」

「うん」


「でも」


そこから先が、少しだけ難しかった。


依央は言葉を探す。


「久我くんに見られるのが、一番」


言いかけて、止まる。


燈真は急かさない。


依央は指先を丸めた。


「……変です」


ようやく出た言葉は、それだけだった。

でも、燈真はちゃんと受け取った。


「変か」

「はい」


「嫌?」


依央は首を振った。


「嫌じゃないです」


即答だった。


言ってから、顔が熱くなる。

でも、取り消さなかった。


燈真は少しだけ目元をゆるめる。


「ならいい」


その言葉で、依央の中の何かがまた一つほどけた。


机の上の手に、燈真の指先がそっと近づく。


触れるか触れないか。


依央は、自分から少しだけ手を動かした。


指先が触れる。


強く握らない。


ただ、触れる。


文化祭の音が遠くにある。


後夜祭の明かりはもう消えた。


旧校舎の雑部室に、ティラミスの苦みと甘さが残っている。


依央は、燈真の手の温度を受け取りながら、小さく息を吐いた。


「……今日の俺、見てて、変じゃなかったですか」


燈真が答える。


「変でも、いいんじゃない」

「雑」


「花宮だし」


依央は少しだけ笑ってしまった。


「それ、何でも通りません?」

「通る」


「通すな」


燈真も少し笑った。


その笑い方が、静かで、近い。


依央は指先を離さなかった。


晴臣が戻ってくるまで、あと少し。


たぶん、そのくらいの時間だけ。


でも、今はそれで十分だった。


扉の外で、晴臣の声が遠くから聞こえる。


「写真、めっちゃ来てるんだけど!」


依央は笑った。


燈真も少しだけ手を離す。


でも、さっき触れた温度は残っている。


晴臣が扉を開けた時、依央はもう泣きそうでも、崩れそうでもなかった。


ただ、少しだけ素の顔で笑っていた。


「おかえり、晴臣」

「ただいま。……あれ、依央、顔戻ってる」


依央はティラミスのカップを持ち上げた。


「白石先輩の差し入れのおかげ」


晴臣が目を細める。


「ほんとに?」

「あと、雑部」


晴臣はにやっと笑った。


「そっか」


燈真は何も言わず、残りのティラミスを食べている。


依央はその横顔を見た。


入口で笑っていた自分も、花の生徒会で動いていた自分も、雑部で崩れかけた自分も。


全部、花宮。


そう言われた夜のことを、たぶん忘れない。


文化祭の飾りは、明日にはもっと片づいていく。


看板も外され、机も戻される。


でも、今日の夜に燈真が受け取ってくれたものは、依央の中に残る。


依央はスプーンでティラミスの最後をすくった。


ほろ苦くて、甘い。


文化祭の終わりに、よく似ていた。


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