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この調剤、お断りします ~薬局薬剤師・薬師川マリ子の調剤録~  作者: 霧南
■3■ 「疑義照会した理由」

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(3)調剤を断ること

「……その、逆」

「逆……?」


 マリ子はそっと目を伏せ、説明を続ける。


「ワルファリンはカット、残薬なし、DOAC(ドアック)の処方もなし、次回受診日は一か月後……」

「それって……」


 鈴音は真剣に考えこむ。


「ワルファリンの半減期(はんげんき)は確かに長いですけど……」


 鈴音は開いたままになっている医薬品集のページに目を落とし、ワルファリンの半減期を確認する。


「半減期……って何ですかー?」


 美亜も鈴音と一緒になって医薬品集を覗き込む。しかし、書かれている内容は理解できない。


「えっと、血液の中にある薬の濃度が半分になるまでの時間……かな」

「じゃあ、半減期の時間を二倍にすると、完全に消えるんですねー」

「あぁ……そうじゃないの。半減期が二十四時間なら、一日後に濃度は半分、二日後には半分の半分だから四分の一、三日後にはその更に半分だから八分の一……って感じで、少しずつ血液の中から薬は抜けていくの」


 実際の血中濃度推移はもっと複雑なのだが、それを説明すると長くなるので、ここは簡単な説明だけに留める。


「へぇー、わたし、また一つ賢くなりました!」

「うん、えらいえらい」


 鈴音に頭を撫でられ、美亜は猫のようにじゃれて喜びの表情を見せる。美亜も結構酔っているらしい。その後、鈴音はすっと真剣な表情に戻ると、マリ子に向き直った。


「ワルファリンの半減期は長く見積もって百時間ちょっとはありますけど、それでも数日で血中濃度が半分になるとすると、中止して数日後には一度、血液凝固能を測る検査を実施した方がいい……と思いますけど……」

「そう……ね」


 マリ子は小さくうなずき、続ける。


「病院の言い分は『患者は体調や検査数値も極めて安定しており、また、高頻度の通院は難しいと言っている。処方せん通り調剤しろ』だった」

「……」


 患者さんの要望に寄り添った、でもリスクのある処方。


「二度目以降の確認は、門前払い……事務員から、医師に取り次がれなくなった」

「……」

「患者側も『医者がいいと言ってるなら、それで調剤しろ』と」

「……」

「……なので、どうしようも、なかった」


 淡々と、いつもの調子で語るマリ子。


「それって……でも、それでも、患者さんを引き留めるべきだったんじゃないですか?」

「今すぐ出せないなら、処方せんを捨てていくと言われた」


 鈴音の言葉にマリ子は間髪入れず返し、続ける。


「いつもの定期薬すら飲まなくなるのは、患者にとってデメリットしかない。患者の、薬局を選ぶ権利を侵害することも、許されない」


 刺すような口調で、厳しく言い放つマリ子。氷柱(つらら)の女帝、という言葉が鈴音の脳裏によぎった。


「それは……それは、そうかも、知れないですけどっ!」

「す、鈴音せんせー、どーどーッ!」


 思わず声が大きくなってしまった鈴音を、美亜が慌ててなだめる。そんな二人を気にする様子もなく、マリ子はいつも通りの無表情を保っていた。


「薬剤師が誰も調剤しなければ、薬が患者に渡ることは、ない」


 マリ子は静かに目を閉じ、言葉を続ける。


「そうなれば、医師も、処方を再考せざるを得ない……はず」

「本当に……本当に、マリ子先輩はそうなると思っていますか?」

「……」


 マリ子は目を閉じたまま、肯定も否定もしなかった。


「私、まだ新人だけど、知ってます。薬剤師が処方せんに疑問を持って病院に疑義照会しても、医師が処方通りでいいと言えば、それだけの理由で医師の指示通り調剤してしまう人が、少なからずいます」


 鈴音が大学時代に薬局実習で行った薬局がそうだった。処方せんに疑問を持って医師に疑義照会をしても、医師にそのままでいいと言われたら、その回答について薬剤師自身はそれ以上考えることなく、そのまま調剤して患者に渡す──それが当たり前の薬局だった。




『医者がいいって言ってるんだから、大丈夫でしょ』




 薬局実習の期間に何度か聞いた、この言葉。患者ではなく、薬剤師の言葉。聞くたびに、鈴音の心にモヤモヤした気持ちが湧き上がって来るのを感じていた。




『疑義照会はできても、その回答にまで反論できるマリちゃんみたいな薬剤師はそう多くないから……』




 あかねの言っていた言葉が、鈴音の脳内に響く。鈴音の心に湧き上がるモヤモヤの正体が分かったのは、マリ子に出会ってからだった。マリ子は疑義照会の回答を自身で吟味する。薬剤師として、医師の回答を聞いた後、その回答について吟味する。場合によってはその回答について医師に反論もする。マリ子自身が納得できるまで、調剤はしない。そんなマリ子の姿を、出会ってまだ短い期間ではあるが、鈴音は何度も見ていた。


「マリ子先輩は、特別です。マリ子先輩みたいに強い薬剤師は、特別です。世の中には、疑義照会したという事実だけで満足して、あとは医師の言う通りに調剤してしまう人も、少なからずいるんです。いえ、むしろそういう薬剤師の方が多数派かも知れません。そのことは、私よりも薬剤師経験の長いマリ子先輩の方が、よく知ってるんじゃないですか?」


 止まれ止まれと鈴音の理性が警鐘を鳴らしたが、無駄だった。一度決壊してしまった感情と言葉は、ただただ(あふ)れて(こぼ)れていく。


「……」


 マリ子は静かに、目を閉じたまま黙っている。美亜は口を挟まず、心配そうな表情で鈴音とマリ子の顔を見比べていた。


「薬剤師法第一条……マリ子先輩は、当然知ってますよね……?」

「…………薬剤師は、調剤、医薬品の供給その他薬事衛生をつかさどることによって、公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するものとする……」


 マリ子は(よど)みなくすらすらと条文をそらんじる。


「……調剤拒否された処方せんを持ち込まれた他の薬局では、疑義照会しただけで満足して……下手したら、疑義照会すらせずに、そのまま調剤してしまうかも知れません。それを分かった上で患者さんを帰してしまうのは、みんなの健康な生活を守るという、一番大事な薬剤師の任務を、マリ子先輩は放棄してしまってるんじゃないですか?」


 鈴音は言いながら、胸の前で右手の拳をぎゅっと握る。


「…………そうかもね」


 しばらくの沈黙を挟んだ後、いつも通りの無表情で、ただ一言、マリ子は肯定した。


「……マリ子先輩は正しいです。患者さんには薬局を選ぶ権利がある……マリ子先輩は、いつだって正論です。でも……だから……」

「……」


 湧き上がってくる感情に言葉の組み立てが追い付かず、鈴音は苦々しい表情を浮かべる。こんなぐちゃぐちゃな感情をマリ子にぶつけて、自分は何がしたいのか、自分はどうしたいのか、鈴音自身にも分からない。そんな鈴音を、マリ子はいつも通りの冷静な眼差しでじっと見つめ、鈴音の言葉を待ち続けた。


「だから……マリ子先輩には……」


 マリ子が調剤を断った時に感じた、チクッとする心のトゲを思い出しながら、自分の気持ちに形を与え、整えていく。


「マリ子先輩には……もっと、頑張ってほしかった……」


 言葉にして、すとん、と鈴音の胸のつかえが取れた気がした。鈴音の中にあった感情が、少しずつ形を持った言葉になっていく。


「そう……ちょっとくらい患者さんがゴネても、いつもの氷柱(つらら)女帝(じょてい)らしく、毅然とした態度で、患者さんを引き留めてほしかった……」

「……」

「患者さんの権利を侵害してはいけない、それは分かります……分かるけど、それよりも……そんなことよりも、他の薬剤師には真似できない、薬剤師としてマリ子先輩だけができることを、やってほしかった……」

「……」

「……」


 悲痛な表情の鈴音と、そんな鈴音を心配そうな表情で見る美亜、そして変わらず無表情のマリ子。


 鈴音の心の奥底にあった感情──それはマリ子に対する尊敬と憧れだった。鈴音はマリ子に、薬剤師としての一種の理想像を見ていた。だから、あっさりと患者さんを突き放して帰してしまったことに、モヤモヤした感情を抱いてしまった。あの時感じたズキッとした心のトゲの原因は、これだったのだ。そのことに気付き、鈴音の気持ちがすーっと落ち着いていく。


「鈴音ちゃんせんせー、涙出てる」

「えっ、嘘? って、鈴音ちゃんせんせーって何……」


 美亜に指摘されて、鈴音は自分が涙を流していることに気付き、指で拭う。


「鈴音ちゃんせんせー、今考えたー」

「何それ……ふふっ」


 泣きながらも、少し笑いが混じる鈴音。そんな鈴音を見て、マリ子は少し顔を伏せる。


「……鏡橋さんが、言いたいことは、分かった」

「ご、ごめんなさい……こんな……」


 止まらない涙を袖で(ぬぐ)う鈴音と、心配そうに支える美亜。そんな二人の様子を見て、マリ子は静かに目を閉じる。


「……ハードルの高い要求を、してくれる、わね……」


 マリ子はそう言うと、小さく一つため息をついた。


「それは、その、ごめんなさい……」


 今更ながら、ものすごく子供じみた感情をぶつけてしまったことに気付き、鈴音の胸に罪悪感と恥ずかしさがこみあげてくる。


「いえ、気にしないで……高いハードルを越えることで、人は成長するから……」


 小さく首を振り、少しの間をおいてからマリ子は続ける。


「ただ、鏡橋さん……後学のために、覚えておいて。どうしても納得いかない時、薬剤師に残された、最後の手段……それは、調剤を断ること、それだけだから……」

「それは、そうですけど……患者さんのことを考えると、私……」

「……」


 鈴音は悲しそうな表情を見せる。そんな鈴音に対して、マリ子は口元に手を当て、じっと考え込む仕草を見せる。


「……私の負け、ね」


 マリ子は小さくため息をつき、軽く首を降ると、鈴音に向き直った。


「鏡橋さんの意見は、私自身に対する、今後の課題……そういうことで、この場は納得していただけるかしら?」

「は、はい……」


 鈴音が弱弱しく答えたところで、しばらく黙って二人のやりとりを見ていた美亜が突然、パンッと手を叩く。


「お話がまとまったみたいで、よかったです。結局、患者さんがちゃんとした病院や薬局を選ばないとダメってことですねー」


 明るく言う美亜に釣られて、場の雰囲気が少しだけ緩む。


「ちなみにわたしはー、薬剤師として鈴音ちゃんせんせーを推しときます!」

「えっ? 何それ、推し活?」

「そのとーりー!」


 まだ浮上しきれない鈴音を励まそうとしているのか、美亜は満面笑顔で宣言した。


「……私も、鏡橋さんが、推し薬剤師……今決めた」


 そんな美亜にマリ子も便乗する。


「ちょっと、マリ子先輩まで!」


 それまで泣きじゃくっていた鈴音の顔が、どんどん笑顔になっていく。


「おやおや鈴音せんせー、大人気(だいにんき)ですねー!」


 けらけらと無邪気に笑う美亜。


「私は……マリ子先輩みたいに、なりたいです。私の推しは、マリ子先輩です!」

「……そっか」


 すっかり涙の止まった鈴音の宣言を聞いて、マリ子はまんざらでもなさそうに優しく微笑む。


「あ! マリ子せんせー、笑った!」

「……笑ってない」


 すんっと一瞬でいつも通りの無表情に戻るマリ子。


「いーえ、絶対に笑ったー! 笑顔のマリ子せんせー、いただきました!」

「……笑ってない」

「あっ、私も見ました、マリ子先輩の笑顔!」

「これで二対一ですねー」

「……笑ってない」

「照れることないと思いますけど……凛としつつも優しくて、素敵な笑顔でしたよ?」

「……」


 ストレートな鈴音の言葉に、マリ子は少し頬を上気させながら黙り込む。そんなマリ子を見て、きゃっきゃと盛り上がる鈴音と美亜。いつの間にか、鈴音の気分もすっかり浮上していた。


「と、ところで、鏡橋さん……」


 マリ子は耳まで真っ赤にしながら、平静を取り繕うように食後のコーヒーにそっと口をつける。


「……一つだけ、聞いても、いいかしら?」

「はい、何でも聞いてくださいっ!」


 マリ子は笑顔満面の鈴音に流れるような視線を向けると、すっと静かに表情を消す。


「……少し前に言ってた、氷柱(つらら)女帝(じょてい)って、何?」

「あっ……」


 自分が陰で氷柱の女帝と呼ばれていることを、マリ子は知らない。


「あーあ、鈴音せんせー……わたし知ーらない」


 鋭い視線で鈴音を見据えるマリ子と、一瞬で表情が固まる鈴音、そして静かに鈴音から距離を置く美亜。


「……詳しく、教えて」

「あー……マリ子先輩ー……それはー……ねぇ、美亜ちゃん?」

「食後のコーヒー……それは幸せな微睡(まどろ)みの(とき)を一つ上に導く、安寧(あんねい)の時間の管理人(コンシェルジュ)……」


 コーヒーカップに口をつけ、美亜はそっと呟く。


「美亜ちゃん、私を見捨てたねっ!?」


 美亜に助けを求めた鈴音だったが、美亜は素知らぬ顔で食の詩人モードに入ってしまっている。


「……鏡橋さん、詳しく、教えて」

「それはー……えっとー……あのー……ですねー……」

「一口飲んで一段、一口飲んでもう一段……それは洗練された香りが(さそ)う、理想郷(ユートピア)への招待状(インビテーション)……」


 時に和やかに、時にピリリと緊張が走る……そんな女子会がその後も続く。ほんのりした切なさを感じながら、その夜は穏やかに解散することになった。

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