(1)仕事ですから
それから数日後、雲一つない晴天の日、薬局は初夏の閑散期に入っていた。
「あっ……これって……」
患者さんが誰もいない待合室で、テーブルに置いてあった新聞を片付けようとした鈴音は、一つの記事に目を留める。
「あ、それ去年あった医療事故だろ。判決出たのか」
鈴音の横から記事を覗き込んだ連は、いつもの軽いノリで言う。
「抗凝固薬の切り替えは薬局でも気を付けないとな。くわばらくわばら……」
新聞に書かれていたのは、一年前にワルファリンからDOACへ切り替える際に起きた、一つの医療事故についての記事だった。ワルファリン中止後、DOACの服用開始が遅れたことにより、心原性脳梗塞を発症、入院、そして最終的に死亡してしまったことに関して、ワルファリンの効果が切れた空白期間と脳梗塞発症との因果関係を認める判決が出た、という内容だった。
「……」
鈴音は調剤室の中にいるマリ子を見る。マリ子は鈴音の視線に気づかず、ただ淡々と薬歴を書いていた。この記事にある医療事故が起きたのは一年前のことなので、数日前にマリ子が調剤拒否した患者とは関係ない。
「でも……」
ぞわぞわとした不安が湧き上がり、鈴音は思わず胸を押さえて俯く。その時、不意に閑散とした薬局のドアが開いた。
「あの……こんにちは」
控えめな声とともに入ってきたのは、先日マリ子が調剤を断った中年の女性だった。
「あっ!」
驚いた鈴音は、慌てて薬局の入り口に向かう。
「あの……先日は失礼しました、一文字早苗と申します。この処方せんを、お願いしたいと思って伺ったのですが……」
早苗が遠慮がちに処方せんを差し出す。そこにはDOACが一種類だけ記載されていた。
「この薬……」
「はい。あの後、別な薬局に処方せんを持っていったのですが……」
話が長くなりそうなので待合室の椅子へと案内すると、早苗は静かに腰を下ろした。そして、丁寧な口調で今までの経緯を語り始める。
「あの後、別な薬局に処方せんを持っていったところ、すぐに薬は用意してもらえました」
「それは……」
よかったですね、と続けることはできず、鈴音は言葉に詰まってしまった。そんな鈴音の様子を見て小さく一つ頷くと、早苗は話を続ける。
「私は実家で暮らす父の世話をしておりまして、病院への付き添いや薬の受け取り、薬の管理は私が行っています。こちらに持参した処方せんは、その父のものです」
早苗は一つ一つ、言葉を選びながら説明していく。鈴音はそんな早苗に対して静かに頷きつつ、話の先を促した。
「血液の薬……ワルファリンは数日前から中止していて、今は飲んでいません。それ以外の薬は継続して服用しています。なので次回の受診は、今飲んでいる薬がなくなる頃にしようと思っていたのですが……」
そこで早苗は少し言葉に詰まったが、すぐに説明を再開する。
「今朝の新聞を読んでいたら、ある医療事故の記事を目にしまして……」
「……この記事、ですね」
鈴音は目の前のテーブルに置いてある新聞を見下ろす。早苗もその新聞に目を向けると、小さく頷いた。
「はい。あまりに今の父の状況と同じだったので、心配になってしまいまして……病院に行きたがらない父を必死に説得して、なんとか病院を受診させました」
ぽつりぽつりと話を続ける早苗。
「父は最後まで文句を言っていましたが、無事に検査も済ませまして……開始しても大丈夫とのことで、新しい薬を処方していただくことができました」
「そうでしたか……ありがとうございます。だいたいの事情は理解できました」
話を聞いた鈴音は、大きく一つため息をつく。
「先日の薬剤師……薬師川マリ子さんには、失礼な物言いをしてしまい、すみませんでした。薬師川さんにも、直接謝りたいのですが……」
先日の激高からは想像できないような、とても丁寧な口調。
「あ、はい、そうですねっ! マリ子師匠ー!」
調剤室のドアを開き、マリ子を呼ぶ鈴音。
「……聞こえてる。あと、師匠は恥ずかしい」
マリ子はいつも通りの無駄のない淡々とした所作で調剤室から出てくると、受付カウンターの中に立った。
「薬師川さん……せっかく父のために頑張ってくれていたのに、私ったらそれを無下にしてしまって……本当に、ごめんなさい」
受付カウンターの正面に立ち、早苗は恭しく頭を下げる。
「いえ、気にしてません、仕事ですから」
本当に気にも留めていない様子で、マリ子はあっさりとした口調で言う。
「この処方せん……貴女にお願いしてもよろしいですか?」
顔を上げると、早苗は静かに処方せんを差し出した。
「……承知しました」
マリ子は差し出された処方せんを丁寧に受け取ると、再び口を開く。
「それでは、一文字さん……」
そっと手を胸に添え、堂々と胸を張ると、薬師川マリ子は晴れやかに言い放つ。
「この調剤……責任を持って、この薬師川マリ子が引き受けます」
~Fin.~




