(2)ワルファリンとDOAC
「わー、クラゲー! とっても幻想的ですねー!」
美亜はクラゲの水槽を見て目を輝かせる。マリ子たちが案内されたテーブルは、クラゲの水槽を間近で鑑賞できる個室だった。
「美亜ちゃん、クラゲ好きなんだ? あっ、そういえばバッグにもクラゲのキーホルダーついてるよね」
「そですですー、見るのも食べるのも好きですよ」
いつも愛想のいい美亜だが、今はより一層うきうきした表情で、心から楽しんでいる様子だった。
「あはは、食べるのも……ね」
苦笑して、鈴音はマリ子に顔を向ける。
「マリ子先輩、普段からこういうお店を利用してるんですか?」
言いながら、長方形のテーブル席に腰を下ろす。鈴音と美亜が手前の席に座ると、マリ子は奥の席にそっと座った。
「……月に、二三回くらい」
マリ子は落ち着き払っているが、鈴音は落ち着かずに店内をきょろきょろと見回す。
「……別な店の方が、よかった?」
「い、いえいえっ! 水槽も見てて楽しいですし! でもお会計、大丈夫かなって……」
鈴音と美亜は割り勘を提案したが、先輩としてここは奢ると強く主張するマリ子に押され、二人は奢ってもらうことになったのだった。
「心配ない、支払いはカード、遠慮しないで」
特に気にした様子もなく、手慣れた様子でメニューを開く。鈴音は「そういう話ではないのだけど」と思ったが、ここは素直に先輩の言葉に甘えることにした。
「……」
静かにメニューに目を落とすマリ子を、鈴音はぼーっと眺る。
「……決まった?」
「あっ! すみません、これからです」
放心状態になっていたので、慌ててメニューに目を通す鈴音。想像した通り、学生時代には考えられないような値段が並ぶメニューを見て、目が滑ってしまう。
「えっと、メニュー見てもよく分からなくて……マリ子先輩のオススメとかあります?」
「オススメ……」
マリ子はしばらく口に手を添え、考える仕草を見せる。
「このお店のメインは、カニ料理だから、このあたりのコースがオススメ……かな」
「じゃあ、これにします」
マリ子が示した中で、一番安いコースを選ぶ。
「……こっちでも、いいよ?」
そう言うと、マリ子はその中で一番高いコースを指さす。
「い、いえいえっ! 私、腹八分目と決めてるので!」
「残念。遠慮はいらないのに……」
表情が変わらないので、本当に残念に思っているのかどうかは分からない。
「じゃあわたしは、遠慮せずそっちのコースを選びますねー」
美亜は憚ることなく、一番高いコースを選ぶ。
「マリ子せんせー、割り勘に切り替えるなら今のうちですよー?」
「大丈夫……マリ子先生に、二言はない……任せて」
掌屈した手を胸に当て、胸を張って断言するマリ子。自分で自分のことをマリ子先生と呼んでいる。仕事中には決して見せないマリ子の姿を、鈴音は新鮮な気持ちで見つめていた。表情には出ていないけれど、マリ子も浮かれているのかも知れない。
「……アルコールは、どうする?」
メニューが決まった後、お酒の一覧ページを開く。
「わたしはー、レッドアイで」
チラッとページを見ただけで、美亜は秒で即決する。
「美亜ちゃん、決めるの早い! レッドアイって飲んだことないけど、美味しいの?」
「トマトジュースみたいな感じですねー」
「……レッドアイは、ビールとトマトジュースの、カクテル」
美亜の言葉をマリ子が補足する。
「そうなんだ……私はレモンサワーでいいかな。マリ子先輩は何にするんですか?」
「……私は、白ワインで」
飲み物も三者三様、好みはバラバラだった。
店員を呼んで注文を終えると、その後はしばらく和やかな雑談が続く。前菜とサラダ、そしてスープ、カニピラフ、メイン料理が順番に運ばれてくる。それが終わると、最後にデザートとしてアイスクリームが運ばれてきた。
「んーっ、この舌の上で溶けて転がって、じーんわり口の中に広がっていく感覚が幸せなんですよねー」
アイスクリームを口に運び、頬に手を当てて恍惚の表情を見せる美亜。バニラアイスだけでここまで感動してる人を見たのは初めてかも知れない。
「わたしは断然、バニラ派ですねー。マリ子せんせーは何派ですか?」
「……私は、ラムレーズン……かな」
「わ、大人ーっ! 鈴音せんせーは?」
「んー……抹茶かな」
「うんうん、抹茶もいいよねー! ほんのりした自然で優しい風味に、繊細でまろやかな口当たり……」
目を閉じて、恍惚に浸り始める美亜。
「み、美亜ちゃん……?」
「甘いと思えば微かに苦く、苦いと思えば微かに甘い、これは妖精の悪戯……奥行きのある甘さと苦さの二重奏が奏でる、寄せては返す小波のようなグラデーション……時おり混じる粉っぽさは風味のスタッカート……そう、これは静かに舞う粉雪のように儚く、そして精緻を極めた味の芸術……大切な景色をスノードームにそっと閉じ込めたような、煌びやかで美しい世界が、抹茶アイスの中で調和し、そして完結している……そうですよね、鈴音せんせー?」
美亜は目を輝かせながら鈴音に手を差し伸べる。
「あはは……美亜ちゃんは感性豊かだね」
鈴音は戸惑い半分、笑い半分で返す。
「私はそこまで抹茶を愛してるわけじゃないけど……むしろ、私より美亜ちゃんの方が抹茶好きなんじゃない?」
「いえ、わたしは抹茶より断然バニラ派なのでー」
「あ、そうなんだ」
バニラより抹茶の方が熱量すごかったけど……と思った鈴音だが、それは心の中に留めておく。
「……感動した。ラムレーズンアイスでも、お願い」
「ラムレーズン、リクエストいただきましたー」
「美亜ちゃん、ノリノリだね」
苦笑する鈴音を尻目に、美亜は「こほん」とわざとらしく咳をすると、静かに語り始める。
「ラムレーズンアイス……それはバニラの海の宝探し……一口めの主役はバニラ、そのまろやかな甘さが舌に広がり、下地を作る……二口めはラム酒の香り、バニラの中にそっと隠された、その微かな酸味がほんのり揺蕩い、後を引く……そう、これは洗練された大人だけに許された、甘酸っぱい味覚の調律時間……静かに崩れるバニラの海の底、見つけたレーズンは星空の落とし物……すやすや眠るその粒ひとつ、そっとすくって甘噛みすれば、甘い酸っぱい柔らかい、縄のように折り重なって天へと昇る、これは空への贈り物……って、こんな感じでどうですか、マリ子せんせー?」
鈴音にした時と同じように、最後はマリ子に手を差し伸べる。
「……詩人、リリカル、素敵」
両手の指を突き合わせ、感動した様子で褒めるマリ子。少し酔っているのか、微かに頬が上気している。
「んーっ、マリ子せんせー、もっと褒めてー!」
「……美亜様、耽美で幻想的、素晴らしい詩でした」
「きゃっ、マリ子せんせー、大好きっ!」
そんな他愛もない会話をしつつ、三人は和やかに食事を終えたのだった。
……
…
「もうすぐ、お開き……だけど」
食後に頼んでいたホットコーヒーを一口飲んだ後、マリ子は少し改まった様子で鈴音に向き直る。酔いはすっかり覚めた様子だ。
「あっ、わたし少し席を外した方がいい感じですかー?」
「……大丈夫、問題ない」
シリアスな空気を読んだ美亜の言葉に、マリ子は落ち着き払った様子で返答する。
「……鏡橋さん、聞きたいこと、あるよね。言ってみて」
「えっと、それじゃあ……」
マリ子に促された鈴音は静かに一呼吸おき、意を決して口を開く。
「改めて、先日の疑義照会について、いいですか?」
「……うん」
「マリ子先輩が、あの処方せんで何に引っかかっていたのか……疑義照会の具体的な内容が、知りたいです」
気を取り直して、鈴音はストレートに聞く。マリ子はそれに対して小さく頷いた。
「……疑義照会したのは、ワルファリンとDOACについて……だった」
「ワルファリンとDOAC、ですか……」
鈴音は少し考えこむ。
「ワルファリンって確か、血液を固まりにくくする薬ですよねー?」
鈴音の隣にいた美亜が、鈴音の顔を覗き込みながら尋ねる。
「そう、美亜ちゃんよく知ってるね」
「はい、せんせー達が話してるのを聞いたので! でも、ドアックって何ですか? そんな名前の薬ありましたっけ?」
「DOACというのは、えっと……何の略だったっけ……」
「ダイレクト・オーラル・アンチコアギュラント……直接経口抗凝固薬……ね」
「そうです、それです!」
マリ子の口からすらすらと出てくる。こういうのがあっさりと出てくるのは流石だ。鈴音が言葉を続ける。
「えっと、そのDOACっていうのは、ワルファリンと同じ抗凝固薬──血液が固まって血管が詰まるのを予防する薬に分類されるの。薬で言えば、ダビガトランとかリバーロキサバンとか」
鈴音は薬剤師でない美亜にも分かるよう、なるべく分かりやすい言葉を考えながら説明する。
「あっ、その薬なら知ってますー!」
美亜は嬉しそうにパンッと軽く両手を合わせる。そんな美亜を見て鈴音は軽く頷き、説明を続ける。
「薬の効果が不十分だと、血栓……血管の詰まりができやすくなって、脳梗塞や心筋梗塞のリスクが高まるし、逆に強く効きすぎると出血が止まりにくくなってしまうから、慎重に使う必要がある……で合ってますよね?」
言い終わってからマリ子の顔を見ると、マリ子は小さく頷く。
「へぇ……」
美亜は少しトロンとした目で鈴音の話を聞く。どこまで理解できているのかは、その表情からは分からない。
「……疑義照会した理由は、そのワルファリンからDOACへ切り替え方法に、問題があったから……」
その時のことを思い出すようにしながら、マリ子は静かに話し始める。
「問題……ですか」
鈴音は指を口元に当て、神妙な顔つきで考え込む。
「……抗凝固薬の切り替え……ワルファリンからDOACへの切り替え方法は、覚えてる?」
「えーっと……ちょっと待ってください!」
マリ子に聞かれて、鈴音は慌ててバッグに入っているポケットサイズの薬辞典を開く。マリ子はすっかり後輩の教育モードに入ってしまっている様子だ。
「えっと……ワルファリンからDOACに切り替える場合は、数日の休薬期間を挟んで、PT-INRを測定しながら、治療下限域になったことを確認してDOACの服用を開始する……ですね」
「……よくできました」
「ぴーてぃー、あいえぬあーるって?」
美亜が鈴音に尋ねる。
「あ、PT-INRっていうのは、血液凝固の能力を測る検査値のことだよ。この数値を見てワルファリンの効果がなくなってきたことを確認してから、新しい薬を慎重に開始する必要があるの」
「へー、なるほどー……」
美亜はうんうんと頷いているが、どこまで理解しているのかは未知数だ。鈴音はマリ子に再び向き直る。
「もしかして、マリ子先輩が疑義照会したのは、その休薬期間が設けられていなかった……とかですか?」
十分な休薬期間が設けられていないと抗凝固薬の効果が強く出すぎてしまい、出血が止まらなくなってしまう危険性がある。しかし、鈴音の質問にマリ子は首を振った。
「……その、逆」
「逆……?」
マリ子はそっと目を伏せると、再び口を開いた──




