(2)氷柱の女帝様
「戻りましたぁ……あと残ってるのは、マリ子先輩が対応してる患者さんだけですね」
嵐のような忙しさは一段落し、薬の説明を終えた鈴音は少し疲れた表情で調剤室に戻る。
「……」
じっと沈黙し、返事をしない連の顔を鈴音はひょいと覗き込む。
「連先輩?」
「……」
ぼーっと虚空を見つめ、放心状態になっている連。一応、目は開いている。
「あ、鈴音せんせー、稲本せんせーは今、何を言っても無駄ですよー」
間延びした声で鈴音の肩をポンッと叩いたのは、鈴音と同時期に入社した新人事務員の桃井美亜だった。ゆるふわのセミロングで小柄な二十歳、小動物のような外見でにこにこと愛想笑いを絶やさない、薬局の受付兼マスコット兼事務員である。
「えっ、何を言っても無駄って、どういうこと?」
美亜に向き直って鈴音は尋ねる。
「えーと……あっ、とりあえず稲本せんせーに何か話しかけてみて」
美亜はにやにやと笑みを浮かべて鈴音を促す。
「美亜ちゃん……この状況、楽しんでる?」
「もちろんろんですー、ささっ、どうぞどうぞ」
美亜は悪びれもせず軽いノリで答えると、鈴音の肩を持って連に向き合わせる。
「もう……相変わらずなんだから」
鈴音は言いながら小さくため息をつく。
「えっと、連先輩……ちゃんと起きてますか?」
「……さあな」
ぼーっと虚空を見つめながら答える連。鈴音はそんな彼を片目を閉じて見下ろす。もしかして目を開けたまま眠ってるのかと思ったが、どうやら起きてはいるらしい。
「あ、今日は起きてたんですね。勤務中に寝ちゃいけないんですよ」
「……知らなかったな」
鈴音は呆れた表情を見せる。連は変わらずぼーっとしたままだ。
「いや、知っててください。この私ですら、授業中や仕事中に居眠りしたことなんて、一度もないんですから」
「……すげーな」
鈴音はふふんと小さく鼻を鳴らす。
「あの……そんな居眠りを繰り返してると、クビになっちゃいますよ?」
「……世知辛いな」
表情を変えず答える連。
「い、いえ、本気で言ってるわけではないんですけど……」
「……そうだな」
何かがおかしいと思い、改めて連の顔を覗き込む鈴音。しかし、鈴音の顔がぐっと近づいても、連は変わらずぼーっと虚空を見つめている。
「あの、連先輩……本当に、起きてます?」
鈴音は訝しげな表情で連の顔をまじまじと見つめる。
「……さあな」
「……」
「……」
しばらくの沈黙。
「はいー、これが稲本せんせーが編み出した自動休息応答モード、通称『さしすせそモード』ですっ」
パンッと胸の前で手を合わせた桃井美亜が、得意げな声で言う。
「さしすせそモード?」
美亜に向き直って鈴音は尋ねる。
「そですです、稲本せんせーが編み出した、究極の休息方法らしいですよー」
「……はぁ」
呆れた表情を見せる鈴音。
「ほら、稲本せんせーって、忙しい修羅場が終わると、木偶の坊……もといナマケモノモードに入っちゃうじゃないですかー」
四つも年上の先輩を木偶の坊と言ってしまう、恐れを知らない子だ。
「そう……だね」
稲本連は忙しさによって働きぶりが天と地ほど変わる。忙しい時はキレッキレの動きと猛烈な勢いで仕事をガンガン処理していくが、仕事が途切れた途端、熱帯雨林のナマケモノみたいに動きがもっさりして鈍くなる。そして、たまに寝落ち──つまり居眠りする。常に同じ速さ、無駄のない動きで淡々と仕事をこなす薬師川マリ子とは正反対だった。
「この前、いきなり『俺は新たな境地に到達した!』とか言い出してー」
明後日の方向を指さし、まるで意気揚々とした船出のような仰々しいポーズをとる美亜。
「なんでもー、居眠りがバレないように受け答えはできるけど、思考は停止して休息している状態、らしいですよー」
言いながら、美亜はすとんっと椅子に腰を下ろす。
「……それが、コレ?」
鈴音は木偶の坊になっている連をジト目で指さす。
「ですですみたいですー、このデクデクさんはしばらく放っておいていいと思いますよー」
美亜は連のこめかみをつんつんとつつく。本当に恐れを知らない子だ。
「……世知辛いな」
この言葉のチョイスは何とかならないのかな……と鈴音は心の中でつぶやいた。
……
…
「鏡橋もだいぶ服薬指導が板についてきたな」
ほどなくして『さしすせそモード』から脱した連は、普通の会話ができる程度には回復した。
「まだまだですよ」
鈴音は苦笑しながら謙遜して答える。
「近くの病院はあらかた昼休みに入ったし、俺らもぼちぼち昼休憩をとっていきたいところだが……薬師川はまだ病院とトラブってるっぽいな」
電話の前で通話している薬師川マリ子を一瞥すると、連は悩まし気につぶやく。お昼の休憩は、薬局に薬剤師が不在にならないよう、混雑具合を見ながら順番にとることになっている。
「……いえ、もう一度医師に確認してください。でないと、調剤を進められません」
マリ子は淡々と感情の起伏なく話している。
「マリ子先輩のアレ、何の問い合わせですかね?」
「さぁな。でもま、薬師川なら放っておいても大丈夫だろ」
「はぁ……」
軽い口調で流す連に、眉をひそめる鈴音。マリ子を信用してるのか、単に放任主義なだけか、鈴音には分からない。
「俺、腹減ったからそろそろ昼飯行きたいんだけど、大丈夫か? 薬師川の疑義照会が終わるまで待とうか?」
疑義照会というのは、病院から患者に渡された処方せんに何かしらの不備があった時、薬局から病院へ問い合わせをする行為を指す。単純な書き間違いや記載漏れも多いが、中には患者に重大な健康被害を及ぼしかねない内容もある。決して軽視できない業務の一つだ。
そして目下の問題は、病院への疑義照会が解決するまで、基本的にマリ子はその業務にかかりっきりになってしまうことだ。秒で解決することもあれば、数十分から一時間以上かかる場合もある。解決までの時間は処方元の病院の回答速度に依存するので、薬局では時間が読めないことも多い。
今勤務している薬剤師は連、マリ子、そして鈴音の三人だけ。連が休憩でいなくなり、マリ子が疑義照会にかかりっきりになってしまうと、その間、新人の鈴音が一人であらゆる事態に対処しなければいけなくなる。まだ勤務二か月の鈴音にとっては、重い負担だ。
「……いえ、たぶん大丈夫だと思います。連先輩はお昼休憩どうぞ」
「そっか、なら先に行かせてもらうわ。困ったことがあれば、ためらわず薬師川に相談してな」
「はい」
鈴音が答えると、連は素早く準備を整えて調剤室から出て行く。
「……一度先生に確認したから、再度先生に確認する必要はない……ですか。それは処方医の意見ですか? それとも貴女個人の意見ですか? 医師は疑義照会に対して適切な対応をすることが療養担当規則で求められていますが、貴女に何の権限があって、薬剤師から医師への疑義照会を遮っているのですか?」
連が出て行った後も通話は続いていた。事態はこじれているようだが、マリ子はいつもと変わらない淡々とした口調で畳みかけている。
「……貴女の個人的な考えは聞いてませんし、今は心底どうでもいいです。取り次ぎすら満足にできない貴女では話になりません、時間の無駄です。速やかに医師に再確認するか、直接医師に代わるか、あるいは他の事務員に対応を代わってもらってください」
「氷柱の女帝様、また悪い癖が出てるねー」
受付カウンターから調剤室の中に戻って来た桃井美亜は、まるで何かのショーでも見ているかのようにウキウキした表情で言う。
「美亜ちゃんは、また面白がって……」
基本的に淡々と仕事をこなす薬師川マリ子だったが、一つだけ欠点があった。たとえ相手が誰であっても一切引くことはなく、容赦なく言葉の刃で刺して抉る。それが元で病院や患者からクレームが入ることも珍しくなかった。そして、その慇懃無礼で情け容赦のない言動から、氷柱の女帝という二つ名で系列の別店舗にも知れ渡っていた。
「このまま取り合っていただけないようですと……あっ!」
不意に驚きの声を上げるマリ子。そのまま受話器を耳から離すと、静かに電話を見下ろした。
「…………」
数メートル離れた鈴音にも、電話の向こうでガチャンと不躾に電話を切る音が聞こえてきた。いわゆるガチャ切りである。
「マリ子せんせー、大丈夫ですか?」
静かに佇むマリ子に、美亜が声をかける。
「……問題ない。対応してくれるまで、鬼電するだけ」
怒った様子は一切なく、マリ子は無表情のまま淡々と答える。
「営業妨害にならないように、気を付けてくださいねー」
他人事だしどうでもいいという態度を微塵も隠そうとしない美亜。
「……問題ない。毎分はやめて、一分おきに電話する」
「それも十分営業妨害になると思いますけど……せめて五分おきくらいで……」
「……わかった、五分後にもう一度、電話する」
鈴音の提案に、こくりと小さく頷くマリ子。変なところで素直だ。
「わたしは何もできませんけど、頑張ってくださいねー」
まったく応援してるようには見えない美亜に見送られ、マリ子はお薬説明室で待っている患者のところへ、すたすたと戻っていった。
「……一文字さん、お待たせしました。医師に電話を入れてみたのですが、少し時間がかかりそうで……」
調剤に時間がかかる旨を患者に説明するマリ子の様子を見て、心配そうな表情になる鈴音。
「病院の先生がいいって言ってるのに、どうして用意できないのよ! 薬局は病院の指示通りに薬を渡す場所でしょ!」
「その認識は半分は合っていますが、半分は間違っています。薬局は……」
「講釈はいいから、さっさと薬を用意しておくれ! それができないなら、もう処方せんなんていらないから、今すぐ帰るわ!」
患者が一気にまくしたてる声が、ドア越しに鈴音の耳にも届く。
「いえ、この処方せんはまだ一文字さんの所有物なので、ここに捨てていかれても扱いに困ります」
そう言いつつも、マリ子の口ぶりはまったく困っているようには聞こえない。患者の怒りなんてお構いなく、マリ子はいつも通りに淡々と対応していた。対して、患者の怒りは収まりそうになかった。
「それが困るなら、さっさと薬を用意しておくれ! 病院の先生がそれでいいって言ってるんだから、それ以外は一切、認めないわ! 私は、病院の先生を、信用してるの!」
「そう、ですか……」
口元に手を当て、やや考え込む様子のマリ子。
「マリ子先輩……」
「また店舗にクレーム来るかなー。わたしがここに来てまだ二か月だけど、マリ子せんせー宛にもう二桁はクレーム来てるよねー」
マリ子を心配する鈴音とは対照的に、どこか楽しそうな表情を見せる美亜。
「一文字さんのご意向は、理解しました。私では、これ以上の対応はできません……」
ようやく、マリ子と患者の間で結論が出たようだった。
「この調剤、お断りします」




