十歳の誓い
ルシアンの熱が出たあの日から、私たちの関係は少しだけ変わった。
相変わらず私は「究極のニート」を目指して隙あらば隠れ家でゴロゴロしていたいし、ルシアンはそんな私を全力で日よけになり、膝枕をし、甘やかしてくれていた。
けれど、彼の甘やかし方には、以前のような「一方的に守ろうとする頑なさ」がなくなっていた。私が前世の職業病でふいに疲れた顔を見せれば「今日もお疲れさま」と寄り添い、逆に彼が貴族としての勉強や剣術の訓練で疲れた日は、私の隣で「エリアノーラが足りない。補給させて」と素直に頭を預けてくるようになったのだ。
そうしてあっという間に二年の月日が流れ、私は十歳になった。
十歳という年齢は、この世界の貴族にとって一つの大きな節目だ。
魔力の適性検査と、初めての社交界デビュー(お披露目会)が控えている。
「あぁ……嫌だわ……ドレスを着て、お辞儀の練習をして、大勢の大人に囲まれて愛想笑い……。前世の結婚式や親戚の集まりを思い出すだけで気が重いよ〜……頭が痛い……」
部屋で一人、お披露目会のための重たいドレスを前にして、私はベッドに突っ伏していた。
前世での私は、どこへ行っても「しっかり者の看護師さん」「よくできたお嫁さん・お母さん」であることを求められてきたし、完璧に演じてきた。
だれかの期待に応えるために、自分の感情を押し殺して笑顔を作り続ける疲労感を、私は誰よりも知っている。
(またあの「完璧な演技」をしなきゃいけないのね……。お父様やお母様を失望させたくないものね……)
ため息をつき、隠れ家へ逃げ込もうと部屋を出たときだった。
廊下の曲がり角で、父とルシアンが話し込んでいる声が聞こえてきた。
「……ルシアンくん、エリアノーラの『能力』についてだが」
「はい、公爵様。彼女の治癒魔法の精度と知識は、間違いなく国宝級です。……ですが、僕はお披露目会で彼女の魔力特性を『生活魔法程度の微弱なもの』として申請することを望んできます」
(えっ……?)
私は物陰に身をひそめた。
父の重々しい声が続く。
「……よいのか? 娘の才能を発表すれば、ルシアン、君にとっても侯爵家にとっても大きな利益になる。エリアノーラは『聖女』として国から称賛されるのだぞ」
「必要ありません」
ルシアンの声には、十歳とは思えないほど毅然とした、強い響きがあった。
「エリアノーラを『聖女』にすれば、彼女は一生、国や民のために働かされることになります。傷ついた人々を救うために召集され、いつでも『立派な公爵令嬢』でいることを強要される。……そんなの、彼女が一番望んでいないことです」
「ルシアンくん……」
「彼女は、前世で……ううん、僕の知らないどこかで、きっと誰よりも頑張って、誰よりも疲れてここに生まれてきたんです。……僕の前にいる時の彼女は、いつだって『ただだらだらしていることこそ至福』と全身で言っています。」
私の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
ルシアンは静かに、けれど熱を帯びた声で言葉を重ねる。
「僕は、彼女にこれ以上『責任』を背負わせたくありません。彼女が望むなら、僕が一生かけて彼女を匿います。誰に何を言われようと、彼女がただ日だまりの中でまどろんでいられる場所を守る。それが僕の……ルシアン・アークライトの誓いです」
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静かにその場を離れた私は、走って隠れ家のベンチへと向かった。
冷たい風が頬を叩く。
ベンチに倒れ込んだ瞬間、目からポロポロと大きな涙があふれ出してきた。
(なによ……なによそれ……)
前世の五十九年間。
「娘だから」「母だから」「看護師だから」と、いつだって私は自分の感情より「責任」を優先してきた。
「本当はだらだらしたい」「休みたい」という本音は誰にも言えず、ただ「完璧に役割を果たして終わること」だけを目標に走ってきた。
生きることは、義務だった。
頑張ることは、当たり前だった。
それなのに。
今世で出会った小さな男の子は、私が言葉にすらできなかった「疲れ」と「本音」を、すべて分かってくれていたのだ。
私の手柄も、才能もいらない。ただ私が何もしないで、だらだらと幸せに生きていることだけを願ってくれている。
「エリアノーラ?」
草むらを分けて、ルシアンが現れた。
私が泣いているのを見て、彼は目を見開き、慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたの!? どこか痛い? それともマナーの練習が嫌だった……?」
しゃがみ込んで顔を覗き込んできたルシアンの首に、私はがばりと抱きついた。
「わ……ワガママ言ってもいいの……!?」
「え……?」
「私……本当はお披露目会なんて出たくない……! 『完璧なお嬢様』なんてやりたくないの……! ずっとここで、ルシアンの膝の上でゴロゴロしていたいの……っ!」
前世を含めて、人生で初めて叫んだ「我が儘」。
ルシアンは一瞬あっけにとられた後、心底愛おしそうに目を細め、私の背中を力強く抱き返してくれた。
「いいよ。いくらでも我が儘言って」
「……私、何の役にも立たない『究極のニート』になるのよ!?公爵令嬢なのに……」
「うん。最高のニート姫様だね。僕が一生、養ってあげる」
「……責任なんて、二度と背負いたくないの……!」
「背負わなくていい。君の責任は全部僕がもらうから。……君はただ、僕のそばで笑って、怠けていてくれればそれでいいんだ」
ルシアンの耳元で囁かれる言葉が、前世からずっと私の胸の奥にこびりついていた「冷たい責任感」を、あたたかく溶かしていく。
あぁ、そうか。
私は、このために生まれ変わったんだ。
誰かのために生きるためじゃない。
責任を果たして静かに消えるためでもない。
この温かい腕の中で、ただ愛されて、幸せになるために――。
涙を拭った私は、ルシアンの膝の上にすっぽりと頭を乗せた。
「……ルシアン」
「なぁに?」
「……お腹すいた。クッキー食べさせて」
「ふふ、はいはい。あーんして?」
秋のやわらかな日差しの中、私は生まれて初めて「自分のための幸せ」を噛み締めながら、彼の膝の上で深く、安らかな眠りについたのだった。




