姑が屋敷を徘徊し、夫と恋人が、限界に
夜明け前の屋敷に、
ぺた……ぺた……と不気味な足音が響く。
「ナンシー……?
ナンシー……どこ……?」
姑が薄い寝間着のまま廊下を徘徊していた。
髪はぼさぼさ、
手には湿ったオシメの布。
その口元は赤子のように緩んでいる。
「ナンシー……
おしめ……かえて……」
夫は青ざめた顔で廊下を飛び出す。
「母上!? どうしてお部屋にいないんです!」
「ナンシー……が……いない……
さっき……おしめ……持っていった……
ナンシー……どこ……?」
その声は、
まるで迷子の子どものようだった。
アンは腕を組んで震える。
「わ、わたくしにはムリですわ!
そんな……おしめなんて……!」
姑が恋人の袖を掴む。
「……ナンシーの……におい……しない……
おまえ……だれ……?」
アン
「きゃあああああ!? 触らないで!!」
夫
「やめろ! 母上!! そこは恋人の……!」
(※恋人の呼び方は間違っているが、本人は気づかない)
姑
「ナンシー……ナンシー……
おまえじゃない……うわあああん……」
泣き出しながら床に転がり、
手足をばたつかせる。
夫は頭を抱え、
アンは泣きながら部屋の隅に逃げる。
──ナンシーが抱えていた地獄が、
夫とアンにそのまま襲いかかっていた。
「……ど、どうすれば……!」
「知りませんわ!! あなたの家族でしょう!?
ナンシー様に全部押しつけてたくせに!!」
恋人の怒声が廊下に響く。
夫は言い返せない。
姑は泣きながら叫び続ける。
「ナンシー……
ナンシー……どこ……?
おしめ……かえて……?」
屋敷全体が、
まるでナンシーのいなくなった“穴”に呑み込まれたようだった。
一方そのころ、ナンシーは別邸で未来の準備を始めていた
朝の柔らかな光が差す別邸の客間。
温かい紅茶に手を添えながら、
ナンシーはそっと独り言をつぶやいた。
「逃げるなら……辺境かしら」
夫の恋人がどうなろうと、
姑がどうなろうと、
もう関係ない。
(私は、私の人生を取り戻すだけ)
伯爵夫人が朝食を運びながら言った。
「奥様、ひとまず身を隠すのなら、
王都より“辺境”が安全ですわ。
人手不足で、家政婦も料理人も常に募集しております」
「家政婦募集……って、どこかしら」
ナンシーはパンをかじりながら、
生まれて初めて“自分のためだけの計画”を立て始めた。
指先が震えた。
(ああ……自由って、こんなに軽いものなのね)
机の上には、
伯爵夫人から渡された紙束があった。
•辺境領・子爵家の家政募集
•養護施設の調理担当
•辺境伯家・家事・裁縫担当(急募)
「……家政婦……
裁縫も料理も、得意ですものね」
ナンシーは静かに微笑んだ。
ナンシー、辺境行きの応募文を書く
別邸の静かな客間で、
ナンシーはインク壺と羽ペンを前に座っていた。
「……面接、ですって。
私、そういうの初めてだわ」
ぽつりと独り言をこぼしながら、
手元の求人票を読み直す。
『辺境伯家・家政取締り担当(急募)
住み込み、食事支給、給与応相談』
「この“応相談”って、
高いのか安いのか……わからないのよね」
苦笑しつつ、紙を指でとんとんと整える。
住む場所、食事、衣服──
すべて“自分のために”選ばなければならない。
今まで、そんなことを考えたこともなかった。
「……ちゃんと、考えないとね。
介護と家政と書類整理……
それくらいなら、できますものね」
小さく深呼吸して、
ナンシーは羽ペンを紙に走らせた。
『お目に留めていただきたく、
家政婦の応募に際し、自己紹介を申し上げます──』
ペン先が滑らかに進む。
義母の介護、
夫の書類整理、
家政一式、
来客対応、
財務計算。
書き出してみると、
自分がどれだけ働いていたかがわかる。
「……私、これだけできるのね」
ぽつりと漏れた言葉に、
ナンシー自身が少し驚いた。
「子ども……?
子どもは、正直よく知らないけれど……
まあ、介護よりはマシね」
軽く肩をすくめて、
「浮気して遊び回ってる男の親なんて、
もう面倒見れないもの」
と、一気に表情が冷める。
「さして夫に愛情なかったから……
冷めるのも早かったわね」
心底どうでもよくなっている自分に気づき、
思わず笑ってしまった。
「義母なんて……意地悪しかしてこなかったし、
そういう方こそ、看護師さんに見てもらったほうがいいわ。
他人の方がいいかもね。私じゃなくて」
インクを乾かしながら、
ナンシーは手紙を読み返した。
きちんとした字、
誠実な言葉、
過不足のない経歴。
「……うん。
これなら、通るかもしれないわね」
そして手紙を封筒に入れ、
静かに唇がほころぶ。
(ナンシー・アルレインではなく……
“ナンシー”としての人生が、やっと始まる)
そのとき、伯爵夫人が扉をノックした。
「ナンシー様、お手紙は出来ました?」
「はい。
これを、辺境伯家にお送りしたいのです」
伯爵夫人は満足げに微笑んだ。
「では、すぐに使いの者を出しましょう。
向こうも人手不足ですし、
あなたほどの方なら、喜んで迎えるでしょうね」
ナンシーは軽く頭を下げる。
胸の奥で、
小さな、でも確かな希望が灯っていた。




