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『離婚したので、すべて置いて辺境にきました──夫の浮気も介護も、さよならで!』  作者: 夢窓(ゆめまど)


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逃げたナンシー

控室で目を覚ますナンシー


どこかで布のすれる音がする。

誰かのかすれた呼吸。

ほのかな香水の香り。


重たい瞼をゆっくり上げると、

柔らかな灯りに包まれた控室の天井が見えた。


「ナンシー様……! よかった、気がつかれましたわ」


視界が安定すると、

周りに 4~5人の貴婦人たちが取り囲んでいた。

皆、心底ほっとした顔をしている。


ナンシーは瞬きを繰り返し、状況を理解しようとした。


「わたくし……?」


「階段で倒れられたのよ。

本当に危なかったの。

もう、あの場に立っていられる状態ではなかったわ……」


「水を。口を湿らせるだけでも」


一人の貴婦人が、

震えるナンシーの指にそっと触れた。


その手は、温かかった。


ナンシーはようやく身体を起こしながら、

かすれた声でつぶやく。


「ご迷惑……おかけして……」


「何を言っているの、奥様」

と最年長と思われる貴婦人が眉を寄せる。

「あなた、ずっと一人で頑張りすぎていたのよ」


「ええ、本当に……。

お義母様の介護をして、家のこと全部背負って……。

あんな暮らし、とても普通にできるものではございませんわ」


別の貴婦人が手を握る。


「わたくしたち、先ほどのお話……ぜんぶ聞きましたの」


ナンシーの喉がかすかに震える。


「ぜ……んぶ……」


「ええ。

あなたがどれほどの思いでご家族を支えてきたか。

そして旦那様が、どれほどあなたを軽んじてきたか」


最年長の婦人は、

その指先でナンシーの涙をそっと拭った。


「あなたは悪くありませんわ。

むしろ……よく、ここまで持ちこたえましたの」


その言葉は、

初めて聞く“自分を肯定する音”だった。


胸の奥がじん、と熱くなる。


「……わたし……」


涙があふれそうになるのをこらえ、

ナンシーはかすかに首を振った。


「わたし……もう帰りますわ。

……家には、戻りませんけれど」


「ご心配なく」

と一人の婦人が微笑む。


「馬車のご用意は済ませてあります。

旦那様には“しばらくお一人にして差し上げて”と伝えておきましたわ」


「わたくしからも言いましたの。

“追いかける価値のある女を手放しましたね”と」


控室が静かに笑いに包まれた。


そのやさしさに胸が締めつけられ、

ナンシーは唇を噛む。


(……優しくされると……余計につらいわ)


けれど同時に、

心がふわりと軽くなるのを感じた。


(逃げるなら……今しかないわ)


控室の扉が、静かに開いた。


外には、

ナンシー専用に手配された馬車が待っていた。


貴婦人に救われ、別邸へ避難するナンシー


「ナンシー様。

今夜は、わたくしの別邸へお行きなさいな」


落ち着いた声で言ったのは、

社交界でも名のある伯爵夫人だった。


「あなたは休まねばなりませんのよ。

家に戻る必要はありませんわ」


ナンシーは涙の跡をそっと指で押さえた。


「ですが……荷物だけ……」


「荷物なら、すぐ回収して差し上げます。

“逃げる時のためにまとめてある”のでしょう?」


図星を突かれ、ナンシーはかすかに頷いた。


伯爵夫人は満足げに微笑む。


「では、もう決まりですわ。

残りはあなたが気にすることではありません。

旦那様のことも、お義母様のことも──

もうあなたの責務ではございません」


その言葉に、

ナンシーの胸からふっと何かが抜けていった。


(……あとは知らないわ。

私は逃げるだけ)


馬車が静かに会場を離れていく。

控室で見た温かい光景が、頭の奥でまだ揺れていた。




◆そのころ、夫と恋人の部屋では──


「奥様、いなくなりましたの?

じゃあ……じゃあ私と、暮らして!!」


恋人アンが目を輝かせて夫の腕にしがみついた。


「な、なにを急に……」


「だって奥様、きっと帰ってこないでしょ?

あの人、地味だけど、なんでもできちゃうから、

浮気くらいじゃ怒らないと思ってたのに……」


夫は頭を抱えた。


「と、とりあえず今日は……うちに泊まっていきなさい。

母上の世話も……今日は……」


アンはにっこり微笑む。


「任せて♡

私、介護もできますわっ!」


(※できません)


ふたりは甘い空気に包まれ、

迎えた夜──


夜中、


廊下で「ペタ……ペタ……ペタ……」と

布の引きずる音がした。


恋人アンが身をすくませる。


「い、今の音……?」


「気のせいだ。寝ろ」


ペタ……ペタ……

とても気のせいではない。


ドアが、きい、と開いた。


「…………ナンシーはどこ……?」


薄暗い中、

布のオシメを口にくわえた姑が立っていた。


髪はボサボサ、

目は泣き腫らしたように真っ赤。


下半身は、無防備。

手にはナンシーがいつも使っていたお湯の桶。


「ナンシー……ナンシーの匂いがしない……

どこ……?」


恋人アン

「ひっ……!?」


夫:

「ま、母上!? なぜここに──!!」


姑はよろよろと部屋に入ってきて、

恋人のベッドの端に腰を下ろした。


そして、恋人のドレスの袖を

よだれまみれの指でつまむ。


「ナンシー……おしめ……かえて……」


恋人はガタガタ震えながら叫んだ。


「──無理ですわああああああ!!」


夫は青ざめた。


(ナンシーが……

こんな地獄を毎日ひとりで……?)

今さら気づくな。


「ナンシー……!」

姑は泣きながらアンに抱きつこうとする。


「いやああああああ!!!!」


部屋は阿鼻叫喚。

アンは逃げて転倒。

夫はパニック。

姑は床を這いながらナンシーを探し続ける。


ナンシーのいない屋敷は、

その夜から地獄に変わった。



一方そのころ、ナンシーは──


暖かな毛布、

落ち着いた別邸の部屋、

優しい香りの紅茶。


伯爵夫人が静かに告げる。


「ここでは、誰もあなたを追いませんわ。

どうぞごゆっくり……離婚の準備を始めましょう」


ナンシーは微笑む。


(……ああ、本当に逃げられたのね)


胸の奥で、

初めて自由が息をした。


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