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『離婚したので、すべて置いて辺境にきました──夫の浮気も介護も、さよならで!』  作者: 夢窓(ゆめまど)


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叫び声が

音楽の旋律が途切れたわけではない。

けれど、ナンシーの世界だけが、恐ろしいほどの静寂に包まれた。


視線の先、階段の下。

そこには、

夫と、その腕に甘えるように指を這わせる若い女。


言葉を交わすまでもなく、二人は当然のように指を絡め合い、互いの体温を確かめるように笑い合っている。


そこには、ナンシーという存在が入り込む隙間など一ミリもなかった。

その瞬間。

彼女の胸の奥で、張り詰めていた何かが「ぶちり」と、修復不能な音を立てて千切れた。



「いやあああああああッ!!」 


鼓膜を突き破るような絶叫が、華やかな舞踏会の空気を無残に引き裂いた。


彼女が、手にしていた扇が指から滑り落ち、磨き抜かれた床に乾いた音を立てて弾ねる。


その音を合図にするかのように、会場の熱狂が凍りつき、周囲の貴婦人たちが狼狽しながら駆け寄ってきた。


「奥様!? いったいどうなさいましたの!」

「誰か、お水を持ってきて!」


ナンシーは、これまで守り抜いてきた気高さも、伯爵夫人としての矜持も、すべてをかなぐり捨てた。


涙で視界を歪ませ、子供のように肩を激しく震わせる。


そして、震える指先で階下の二人を差し、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。


「私の夫が……! あの方が、私を裏切って浮気をなさっていますの!!」


静寂は、一瞬にしてどよめきへと変わった。

何百もの好奇の視線が、一斉にナンシーから、夫へ、そしてその腕にすがる女へと突き刺さる。



「ナンシー!!」

夫が顔を真っ青に染め、階段を駆け上がってくる。その表情には焦燥と、隠しきれない怒りが混じっていた。


「やめろ、狂ったのか! 何を言っている! この方は……ただの、単なる知り合いだ!」

必死の弁明。けれど、その言葉はあまりにも空虚だった。



なぜなら、彼の隣に立つ女は、混乱する会場の中でもなお、男の袖を離さずに固く握りしめていたからだ。


醜く言い逃れをする男。

そして、人前で男の腕を放そうとしない、無遠慮な女。


その歪んだ光景は、どんな長編の告発文よりも雄弁に「不貞」を証明していた。 


ナンシーは、なおも激しく、派手に泣き喚いた。

この夜の主役を、彼女は最悪な形で奪い取ったのだ。

静かな我慢も、契約という名の諦めも、すべてを火の中に投げ込んで。


燃え上がるスキャンダルの中心で、彼女はただ、自身の崩壊を叫び続けていた。



ナンシーの涙は止まらなかった。

しかし、その慟哭どうこくは不思議なほどに透き通り、広間の隅々にまで染み渡っていった。


「……知りませんでしたわ。何も、存じ上げませんでした……」

しゃくりあげながら紡がれる言葉は、湿っているのにはっきりとした輪郭を持って会場に響く。


「毎日……毎日、あの旦那様の、義理のお母様の介護に明け暮れておりましたのに……!」

ざわっ、と波が引くように空気が揺れた。


華美な装飾に彩られた貴族たちの顔が、驚愕にこわばる。


「お義母様は、もう……お独りでは、お手洗いにも行けませんのよ……!」

誰かが短く息を呑む。シャンデリアの光が、あまりに生々しい告白に色を失った。


「淑女の嗜みなど……もう、どこにも残されてはおりませんのに……!」


「ナンシー! やめろ、頼むから、やめてくれ……!」

夫の制止は、もはや濁流に投げられた小枝のように無力だった。


「……オムツを替えるたびに……」

ナンシーの声が、絶望に震える。

「あの方は、わざと私に向けて……放屁なさるのですわ……っ」


一瞬、会場の時が止まった。

あまりにも醜悪で、あまりにも卑近な現実。この煌めきやかな舞踏会から最も遠い場所にある「汚辱」が、彼女の口から語られた。

「……わざとなのです。わざとなの……!」

誰も、言葉を挟めない。

「それを……毎日……」

ナンシーは力なく肩を落とし、苦しげに呼吸を整える。


「私は、不平ひとつ言わず、耐えて……旦那様の仕事さえ手伝って、煩雑な書類もすべて整理して……」

声が嗄れ、消え入りそうになる。


「それなのに……! それなのに、あのかたは……!」

ナンシーはたまらず両手で顔を覆った。指の隙間から、止めどなく涙がこぼれ落ち、床を濡らす。


「あなたが、外でそんなことをなさっていたなんて……」

ひきつるような、か細い声。

「……そんなの……あまりにも、酷すぎますわ……!!」


その場にいた全員の視線が、もはや呪縛のように彼女に釘付けになっていた。

そこへ、一人の年配の貴婦人が、静かにナンシーの背へ手を添えた。


「奥様……」

その声は慈愛に満ち、同時に深い憤りを含んでいた。

「あなた……お独りで、そこまでの苦労を背負わされていたのですか……?」

その一言が、審判の鐘となった。

会場の空気は、完全に、そして決定的にナンシーの側へと雪崩れ込んだ。


向けられるのは、痛切な同情と驚愕、そして言い逃れのできない憐れみ。


夫の恋人は、その場の「正義」が自分を噛み殺そうとしているのを察したのか、みるみるうちに顔を引きつらせていく。


先ほどまでの傲慢な笑みは消え失せ、蛇に睨まれた獲物のように視線を彷徨わせた。

舞踏会の中心で、この世で最も“哀れな妻”は、誰一人として疑いようのない「完全なる被害者」として存在していた。




「今日は『お前も、気分転換だ』っておっしゃったけれど……。本当は、パーティーに妻の同伴が必要があったから。会場に入ってしまえば私は用済みで、掘り出されて、ただ、この方とお会いになりたかったから……利用されただけなんですのね……」


ナンシーはしゃくり上げ、深く、深く俯いた。

「しくしく……しくしく……。私……こんな結婚生活、もう、続けられませんわ……」


その一言が放たれた瞬間、会場を支配していた空気が、目に見えるほどの重圧となって夫と恋人にのしかかった。


周囲の貴婦人たちの瞳には、夫に対する冷徹な軽蔑と、ナンシーへの強固な連帯感が宿っている。


涙の幕の向こう側で、ナンシーは確信していた。

今、この場所で、何かが完全に壊れた。そして同時に、何かが新しく生まれようとしている。


彼女の足元が、静かに、けれど決定的な力強さを持って、かつてない方向へと向き始めていた。


夫が、崩れゆく保身のために何かを言い募ろうとした、その時。ナンシーは拭おうともしない涙をそのままに、魂の叫びをぶつけた。

「私……もう、一刻も耐えられませんわ……!」


貴婦人たちが一斉に息を呑む。夫の恋人は、あまりに劇的な形勢逆転に、もはや青ざめた唇を震わせることしかできない。


ナンシーは胸を強く押さえ、込み上げる震えをすべて吐き出すように続けた。

「伯爵夫人としての名誉も、この贅沢な暮らしも、何もいりません!

ただ、静かに息ができる場所へ……。私は、ここから逃げ出しますわ……!」

その宣言は、弱々しい女の泣き言ではなく、檻を壊し、自由を求める者の号令だった。


彼女の瞳はまだ濡れていたが、その奥にある光は、もう誰にも消すことはできない。

今、この煌びやかな舞踏会を後にするナンシーの背中は、もはや「見捨てられた妻」のそれではない。自らの手で人生の舵を切った、一人の女の勇姿だった。


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