叫び声が
音楽の旋律が途切れたわけではない。
けれど、ナンシーの世界だけが、恐ろしいほどの静寂に包まれた。
視線の先、階段の下。
そこには、
夫と、その腕に甘えるように指を這わせる若い女。
言葉を交わすまでもなく、二人は当然のように指を絡め合い、互いの体温を確かめるように笑い合っている。
そこには、ナンシーという存在が入り込む隙間など一ミリもなかった。
その瞬間。
彼女の胸の奥で、張り詰めていた何かが「ぶちり」と、修復不能な音を立てて千切れた。
◆
「いやあああああああッ!!」
鼓膜を突き破るような絶叫が、華やかな舞踏会の空気を無残に引き裂いた。
彼女が、手にしていた扇が指から滑り落ち、磨き抜かれた床に乾いた音を立てて弾ねる。
その音を合図にするかのように、会場の熱狂が凍りつき、周囲の貴婦人たちが狼狽しながら駆け寄ってきた。
「奥様!? いったいどうなさいましたの!」
「誰か、お水を持ってきて!」
ナンシーは、これまで守り抜いてきた気高さも、伯爵夫人としての矜持も、すべてをかなぐり捨てた。
涙で視界を歪ませ、子供のように肩を激しく震わせる。
そして、震える指先で階下の二人を差し、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「私の夫が……! あの方が、私を裏切って浮気をなさっていますの!!」
静寂は、一瞬にしてどよめきへと変わった。
何百もの好奇の視線が、一斉にナンシーから、夫へ、そしてその腕にすがる女へと突き刺さる。
◆
「ナンシー!!」
夫が顔を真っ青に染め、階段を駆け上がってくる。その表情には焦燥と、隠しきれない怒りが混じっていた。
「やめろ、狂ったのか! 何を言っている! この方は……ただの、単なる知り合いだ!」
必死の弁明。けれど、その言葉はあまりにも空虚だった。
なぜなら、彼の隣に立つ女は、混乱する会場の中でもなお、男の袖を離さずに固く握りしめていたからだ。
醜く言い逃れをする男。
そして、人前で男の腕を放そうとしない、無遠慮な女。
その歪んだ光景は、どんな長編の告発文よりも雄弁に「不貞」を証明していた。
ナンシーは、なおも激しく、派手に泣き喚いた。
この夜の主役を、彼女は最悪な形で奪い取ったのだ。
静かな我慢も、契約という名の諦めも、すべてを火の中に投げ込んで。
燃え上がるスキャンダルの中心で、彼女はただ、自身の崩壊を叫び続けていた。
ナンシーの涙は止まらなかった。
しかし、その慟哭は不思議なほどに透き通り、広間の隅々にまで染み渡っていった。
「……知りませんでしたわ。何も、存じ上げませんでした……」
しゃくりあげながら紡がれる言葉は、湿っているのにはっきりとした輪郭を持って会場に響く。
「毎日……毎日、あの旦那様の、義理のお母様の介護に明け暮れておりましたのに……!」
ざわっ、と波が引くように空気が揺れた。
華美な装飾に彩られた貴族たちの顔が、驚愕にこわばる。
「お義母様は、もう……お独りでは、お手洗いにも行けませんのよ……!」
誰かが短く息を呑む。シャンデリアの光が、あまりに生々しい告白に色を失った。
「淑女の嗜みなど……もう、どこにも残されてはおりませんのに……!」
「ナンシー! やめろ、頼むから、やめてくれ……!」
夫の制止は、もはや濁流に投げられた小枝のように無力だった。
「……オムツを替えるたびに……」
ナンシーの声が、絶望に震える。
「あの方は、わざと私に向けて……放屁なさるのですわ……っ」
一瞬、会場の時が止まった。
あまりにも醜悪で、あまりにも卑近な現実。この煌めきやかな舞踏会から最も遠い場所にある「汚辱」が、彼女の口から語られた。
「……わざとなのです。わざとなの……!」
誰も、言葉を挟めない。
「それを……毎日……」
ナンシーは力なく肩を落とし、苦しげに呼吸を整える。
「私は、不平ひとつ言わず、耐えて……旦那様の仕事さえ手伝って、煩雑な書類もすべて整理して……」
声が嗄れ、消え入りそうになる。
「それなのに……! それなのに、あのかたは……!」
ナンシーはたまらず両手で顔を覆った。指の隙間から、止めどなく涙がこぼれ落ち、床を濡らす。
「あなたが、外でそんなことをなさっていたなんて……」
ひきつるような、か細い声。
「……そんなの……あまりにも、酷すぎますわ……!!」
その場にいた全員の視線が、もはや呪縛のように彼女に釘付けになっていた。
そこへ、一人の年配の貴婦人が、静かにナンシーの背へ手を添えた。
「奥様……」
その声は慈愛に満ち、同時に深い憤りを含んでいた。
「あなた……お独りで、そこまでの苦労を背負わされていたのですか……?」
その一言が、審判の鐘となった。
会場の空気は、完全に、そして決定的にナンシーの側へと雪崩れ込んだ。
向けられるのは、痛切な同情と驚愕、そして言い逃れのできない憐れみ。
夫の恋人は、その場の「正義」が自分を噛み殺そうとしているのを察したのか、みるみるうちに顔を引きつらせていく。
先ほどまでの傲慢な笑みは消え失せ、蛇に睨まれた獲物のように視線を彷徨わせた。
舞踏会の中心で、この世で最も“哀れな妻”は、誰一人として疑いようのない「完全なる被害者」として存在していた。
「今日は『お前も、気分転換だ』っておっしゃったけれど……。本当は、パーティーに妻の同伴が必要があったから。会場に入ってしまえば私は用済みで、掘り出されて、ただ、この方とお会いになりたかったから……利用されただけなんですのね……」
ナンシーはしゃくり上げ、深く、深く俯いた。
「しくしく……しくしく……。私……こんな結婚生活、もう、続けられませんわ……」
その一言が放たれた瞬間、会場を支配していた空気が、目に見えるほどの重圧となって夫と恋人にのしかかった。
周囲の貴婦人たちの瞳には、夫に対する冷徹な軽蔑と、ナンシーへの強固な連帯感が宿っている。
涙の幕の向こう側で、ナンシーは確信していた。
今、この場所で、何かが完全に壊れた。そして同時に、何かが新しく生まれようとしている。
彼女の足元が、静かに、けれど決定的な力強さを持って、かつてない方向へと向き始めていた。
夫が、崩れゆく保身のために何かを言い募ろうとした、その時。ナンシーは拭おうともしない涙をそのままに、魂の叫びをぶつけた。
「私……もう、一刻も耐えられませんわ……!」
貴婦人たちが一斉に息を呑む。夫の恋人は、あまりに劇的な形勢逆転に、もはや青ざめた唇を震わせることしかできない。
ナンシーは胸を強く押さえ、込み上げる震えをすべて吐き出すように続けた。
「伯爵夫人としての名誉も、この贅沢な暮らしも、何もいりません!
ただ、静かに息ができる場所へ……。私は、ここから逃げ出しますわ……!」
その宣言は、弱々しい女の泣き言ではなく、檻を壊し、自由を求める者の号令だった。
彼女の瞳はまだ濡れていたが、その奥にある光は、もう誰にも消すことはできない。
今、この煌びやかな舞踏会を後にするナンシーの背中は、もはや「見捨てられた妻」のそれではない。自らの手で人生の舵を切った、一人の女の勇姿だった。




