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『離婚したので、すべて置いて辺境にきました──夫の浮気も介護も、さよならで!』  作者: 夢窓(ゆめまど)


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眩い光の檻

眩い光の檻

王宮の大広間は、光で溢れかえっていた。

天井から吊るされたシャンデリアが、無数の光を降り注いでいる。


弦楽器の音色に、笑い声とグラスの音が重なって、華やかな新年の祝宴を作り上げていた。

その晴れがましい喧騒の中で、ナンシーはじっと立っていた。


ここ数年、こうした社交の場に出ることはほとんどなかった。屋敷の奥で静かに過ごすことを選んできた彼女には、もう人と交わる気力も理由もなかったからだ。


けれど、今夜は違う。

新年の舞踏会は、夫婦揃っての出席が義務づけられている。伯爵夫人として、形だけの”妻”として、彼女はここに立たされていた。


「お久しぶりですわ」

「お元気そうで」


何度も繰り返される、空っぽの挨拶。笑顔を作り続ける頬が、少しずつ痛くなってくる。


そんな時、知り合いの貴婦人が扇の陰から囁いた。

「あら、旦那様なら、下のフロアにいらっしゃいましたわよ」

下のフロア――。

ナンシーは軽く微笑んで頷いた。


胸が騒いだわけではない。夫を疑う気持ちも、誰かに嫉妬する感情も、もう残っていないはずだった。


ただ、確かめなければ、と思った。

夫婦揃っての出席を求められるこの夜、夫がどこにいるかも知らない妻では、完璧な「仮面」が崩れてしまうから。


ナンシーは人混みをすり抜け、大広間の奥にある階段へ向かった。


階段を下がるたび、景色が変わっていく。階段の上は照明が落とされ、さっきまでの賑やかさが嘘のように遠のいた。


降りて二段目で、足が止まる。


吹き抜けになった階段からは、下のフロアがよく見えた。

そこは大広間より親密な空気が漂い、甘く滑らかな音楽が流れている。

視線の先に、夫がいた。


夫は、一人の女性の腰に手を回していた。

顔と顔が触れ合いそうなほど近く、音楽に合わせてゆっくりと身体を揺らしている。

その距離は、近すぎた。 


その仕草は、あまりにも自然で、手の位置は、慣れたもののようだった。


相手の女性の顔は見えない。知らない人だ、とナンシーは思った。

その「知らない」という事実が、じわじわと胸に沁みていく。


ナンシーは、階段の途中で立ち尽くした。

声が出ない。怒りも、涙も、まだ湧いてこない。

ただ、見てしまった。

見てはいけないものを。二人の関係の「本当の姿」を。


階下では、音楽が続いている。

笑い声も、祝福の拍手も、すぐそこで響いている。

けれど薄暗い階段の上で、ナンシーだけが影に縫い付けられたように、動けなくなっていた。



終わりの始まり

夫は、一度もこちらを見なかった。

視線は、腕の中の女性と、周りで見ている人たちに向けられている。


彼の華やかな世界に、妻であるナンシーの居場所はどこにもなかった。

――私は、あの人の世界のどこにも存在していない。

その事実が、冷たくナンシーの胸を刺した。

けれど、ナンシーは泣かなかった。

怒りで我を忘れることもなかった。

ただ静かに目を閉じ、視線を落とした。

(……そう、これが私の居場所なのね)


階段を降りて、二人の前に出るつもりはなかった。

夫を問い詰めて、裏切りを責めて、惨めな妻を演じること――それは、また「妻としての役割」を続けることになるから。


ナンシーは、背を向けた。


下から聞こえる音楽を振り払い、暗い方へと歩いていく。冷たい夜風だけが、今の彼女にとって確かなものだった。


バルコニーへ出ると、冷え切った空気の中で、長く息を吐いた。


(政略結婚という枠があったから、耐えられたのに)


それは言い訳ではなく、事実だった。

お互いに利益を求める関係だからこそ、彼女は「伯爵夫人」の役を完璧に演じてきた。

(向こうが先に、約束を破るというなら……)


そこで思考が止まり、胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっと解けた。

心が軽くなったわけではない。

ただ、「もう、絶えなくてもいいのだ」という自由が初めて目の前に現れただけだった。


(……準備を、始めなくては)

まだ、具体的な計画があるわけではない。

けれど、彼女の中で何かが決定的に崩壊し、同時に新しい輪郭が結び始めていた。


ナンシーはもう一度、暗い階段の向こう側――喧騒の残響に目を向け、深く息を吸い込んだ。

「……さあ、落ち着いて少し考えましょうか。会場を」


誰に聞かせるでもない独り言が、夜の闇に溶ける。


彼女は再び、光の渦へと戻るために背筋を伸ばした。


一人の女が、華やかな舞踏会場を静かに横切っていく。

床を払うドレスの裾は、先ほどまでとは違うリズムを刻んでいた。


それは決して、敗北による逃走ではない。

妻という名の重すぎる鎖を、自らの意思で少しだけ緩めた、新しい一歩だった。



バルコニーの冷気が肺を洗い流し、ナンシーは再び廊下へと足を踏み入れた。


半開きのサロンの扉からは、浮かれた笑い声と衣擦れの音が漏れ聞こえる。何一つ変わらない、狂騒の中の平穏。


その時、廊下の向こうから歩いてくる人影と、視線が真っ向から衝突した。


夫の、恋人。

若さが放つ残酷なまでの輝き。彼女が歩くたび、周囲の空気までが甘ったるい香水に支配されていく。


女は、相手が「伯爵夫人」であることを即座に理解した。そして――隠す気もない嘲笑を浮かべ、唇の端をわずかに吊り上げた。

「……あら」

声にはならない吐息が、鼓膜に届いた気がした。


勝ち誇ったその微笑みには、正妻への罪悪感も、立場を弁えた遠慮も、微塵も存在しない。


そこにあるのは、「彼に選ばれているのは、私」という傲慢なまでの確信だけ。


ナンシーの心臓が、急速に凍りついていくのを感じた。

(……ああ。私が見ていても、構わないのね)

存在を無視されるよりも、その露骨なまでの優越感の方が、ナンシーの価値を完膚無きまでに否定していた。


けれど、ナンシーは立ち止まらなかった。


一度だけ、静かに瞬きを交わすと、そのまま前へと足を運ぶ。

一歩、歩くたびに。

重いはずのドレスの裾が、不思議と軽くなっていく感覚があった。


(……夫から、逃げ出さなくては)

それは衝動ではなく、生存本能に近い予感だった。


今すぐではない。まだ何も準備は整っていない。

けれど、この場所に留まり続ければ、自分の心は少しずつ、音も立てずに削り取られ、最後には何も残らなくなってしまう。


観葉植物の深い影に差し掛かったとき、彼女は小さく息を吐いた。


けれど、それは決して引き返せない境界線を越えた者だけが漏らす、静かな離別の音だった。


ナンシーはもう、後ろを振り返らなかった。

ただ、今から、逃げる。そう決めただけ。


妻としての役割を演じ続ける余力は、まだ残っている。


けれど――この眩い光の檻の中に、自分の居場所は一片たりとも残されていない。

その残酷な真実を、彼女は今、完全に受け入れたのだ。



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