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【第百七十話】潼関へ

217年晩春 司隷右扶風郡・眉県


度重なる戦いで疲労がつのり、重苦しい空気が漂う鄭軍陣営。

徐晃達が集う陣幕に一人の兵が駆け込んでくる。

「徐晃将軍!」

「何事だ!」

「玄鴉より緊急の報告がございます!」

その言葉に徐晃が顔を上げた。

「通せ!」

ほどなくして黒衣の男が陣幕へ入ってきた。

「申し上げます!昨夜――」

玄鴉は一瞬、言葉を詰まらせた。

そして低い声で告げた。

「長安が……陥落いたしました」

「……何?」

陣幕の中にいた将兵たちが一斉に玄鴉を見る。

徐晃もまた言葉を失っていた。

「長安が……?」

「はっ」

「どういうことだ?敵は?」

「楚軍、およそ一万」

呂蒙が眉をひそめる。

「楚軍だと……?」

「はい」

「楚軍は我らの目の前にいるぞ!どこから現れたのだ!」

「子午道より侵入したものと思われます」


その瞬間、徐晃の脳裏に昨日までの戦況が一気に蘇った。

馬超軍十万、曹洪率いる楚軍五万。

かつてない大軍での侵攻。

「……そういうことか」

徐晃が呟く。

「我らは完全に欺かれたのだ」

呂蒙も拳を握った。

「しかしあの長安がたった一万ごときで陥落するなど信じられぬ」

「はっ、楚軍一万が着陣した夜に、守将・孟達の裏切りにあい抵抗する間もなく陥落しました」


机を叩く音が陣幕に響く。

その音に衆目が集まる中、徐晃が鬼のような形相で拳を打ち付けていた。

「孟達め……」

怒りに震える徐晃。

その凄まじい怒気にも怯まず、賈逵が進言する。

「徐晃殿。孟達への怒りは分かりますが、今は一刻を争います。早急に対策を」

賈逵の指摘に冷静さを取り戻した徐晃はすぐに地図を広げた。

眉県から長安。

そしてその東に伸びる街道。

「長安が落ちた以上……」

徐晃は地図を見つめる。

「我らは敵軍のただ中にいる」

絶望的な状況に誰も口を開けなかった。


背後には長安を占領した楚軍。

正面には馬超・韓遂・曹洪の大軍。

援軍はまだ遠い。

このままこの地で戦っても壊滅は必至。

かといって五万を一つにまとめて撤退すれば、追撃を受けて壊滅する可能性が高い。


徐晃は即座に決断した。

「……全軍を解く」

呂蒙が顔を上げる。

「将軍?」

「ここからまとまって退けば、機動力に勝る関中軍に追いつかれる」

徐晃は地図を指した。

「分散して退く。武具が邪魔な者は置いていけ」

「しかし、それでは……」

「分かっている」

徐晃は静かに答えた。

「軍としての形は失われる」

それでも――。

「兵の命を残すが大事だ」



---


同じ頃、司隷弘農郡・弘農

そこには鄭軍の援軍一万を率いた張遼と甘寧が進んでいた。

「張遼殿!」

玄鴉の兵が駆けてくる。

「何事だ?」

「緊急の報告です!」

張遼が馬上から見下ろす。

「申せ」

玄鴉は息を整えた。

「長安が……陥落いたしました」

「……!」

張遼の顔から表情が消えた。

「長安が?」

「はっ。昨夜、楚軍一万が子午道より侵入。城内の守将、孟達の内応により城門が破られ、陥落したとのこと」

隣にいた甘寧が目を見開く。

「孟達が裏切っただと……?」

「はっ」

甘寧はしばらく黙っていた。

そして拳を握りしめる。

「……まさか」

張遼は目を閉じた。

長安は漢の旧都にして関中の要衝。

そこを失えば関中における鄭軍の退路は極めて危うくなる。

「徐晃殿は?」

「眉県にて馬超、韓遂、曹洪の軍と交戦中とのことです」

張遼はすぐに地図を広げた。

眉県、長安、弘農。

張遼の目はその間にある潼関で止まった。

「……潼関」

甘寧も同じ場所を見る。

「ここだな」

張遼が頷いた。

「長安を失った今、我らが確保すべき場所は潼関だ」

張遼は潼関を指した。

「潼関を抑えねば敵が中原へなだれ込んでくる。ここをおさえれば、徐晃達の退路を保つことも出来よう」

甘寧が笑う。

「好機逸すべからず、だな」

「そうだ」

張遼は兵に向かって叫んだ。

「全軍、進路を潼関へ!」

二人は並んで西へ駆けた。

敗北の報を受けても二人の足は止まらなかった。



---


同じ頃、眉県。

徐晃は全軍へ命令を下していた。

「各隊、聞け!」

五万の兵が静かに耳を傾ける。

「これより我らは軍を解く!」

兵士たちの間にざわめきが広がる。

「各々、身一つでもかまわぬ。街道を避け山野を抜け、とにかく東へ向かえ!」

徐晃の声が響く。

「生きて潼関でまた会おう!」

それが――徐晃の最後の命令だった。


兵たちは次々と隊列を解いていく。

兵糧が分けられ、それぞれが自らの道を探して東へ向かっていく。

一つだった五万の軍が、瞬く間に無数の小さな集団へと分かれていった。

敗残兵たちが山へ、村へ、街道の脇へ。

それぞれの道を歩き始める。

誰もが不安の中、希望の地・潼関を目指して。


「……」

徐晃は黙って兵たちを見送った。

その隣に呂蒙が立つ。

「将軍」

「何だ」

「これでよかったのでしょうか」

徐晃はしばらく答えなかった。

やがて静かに言った。

「分からぬ」

そして、兵たちの背中を見つめる。

「だが、死なせるよりはよい」

呂蒙は黙って頷いた。



---


夜。

眉県から少し離れた山中。

小さな火が一つ、焚かれていた。

その周囲には徐晃、呂蒙、周泰、賈逵、毌丘興、孫韶、孫桓。

わずかな将たちだけが集まっていた。

皆、疲れ果てていた。

泥にまみれ、傷を負い、鎧には血が付着している。

それでも――。

誰一人、希望を捨ててはいなかった。


徐晃が酒を取り出した。

「……一杯やるか」

呂蒙が苦笑する。

「こんな時に酒ですか」

「こんな時だからこそだ」

徐晃は笑いながら酒を杯へ注いだ。

「長安を失った。軍も解いた。だが――まだ戦が終わったわけではない」

呂蒙が杯を受け取る。

「その通りですな」

周泰も笑った。

「こんなところで終われるか」

賈逵が静かに頷く。

「我らにはまだ守るべきものがあります」

孫韶も頷く。

「ならば、ここで一時(ひととき)別れるだけですな」

徐晃は皆を見渡した。

「そうだ」

そして東を見た。

その先には潼関がある。

「潼関へ向かうぞ」

呂蒙が頷く。

「援軍として張遼殿と甘寧殿もすでに弘農まで来ていると言います」

「ならば――」

徐晃は杯を掲げた。

「潼関で会おう」

一同が杯を掲げる。

「潼関で」

「必ず」

「また会おう」

杯が触れ合う。

乾いた音が、夜の山中に響いた。

酒を飲み干した者が一人、また一人とその場を離れていく。

徐晃は最後に残り火を見つめながら呟いた。

「生きて……また会おう」


潼関。

関中と中原を結ぶ天下の要衝。

そこへ向けて張遼と甘寧は駆けている。

そして徐晃たちもまた、別々の道から東を目指す。

長安を失った鄭軍に残された最後の希望の地。


この地を巡ってやがて天下の諸侯が再び相まみえることとなる。

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