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【第百六十九話】長安陥落

217年仲春 秦嶺・子午道


秦嶺の山中。

そこには人の世から忘れ去られたかのような細道が伸びていた。

道――と呼ぶには、あまりにも険しい。

切り立った岩壁。

足を踏み外せば谷底まで落ちる断崖。

頭上からは巨大な岩が張り出し、昼なお薄暗い。

一人の兵が足を滑らせれば、後続の兵まで巻き込まれる。

馬を進ませることすら容易ではない。

ましてや一万の兵を通すなど、通常ならば到底考えられぬことであった。


しかし――。

その先頭を進む者たちはこのような山道を恐れなかった。

張衛率いる天師衛。

その中でも山中での行軍に慣れた兵たちが鉈や斧を手にして道を切り開いていた。

「ここを広げろ!」

「岩を落とせ!」

「後続が通れるように足場を固めよ!」

掛け声が山中に響く。

木々を切り倒し、蔓を払い、崩れた岩を除いていく。

それでも進軍は遅々として進まなかった。

「……これは、想像以上だな」

後方からその光景を見ていた徐庶が呟いた。

隣では夏侯淵が険しい表情で山道を見上げている。

「これほどとはな……」

二人とも幾多の戦場を経験してきた。

しかし、目の前にあるのは敵軍ではない。

山そのものが敵であった。

夏侯淵が前方を見た。

「張衛の兵はこのような道をよく進めるものだ」

徐庶は頷く。

「漢中の山岳地帯に慣れた者達、さすが板楯蛮ですな」

先頭では朴胡ら天師衛の兵たちが、さらに険しい岩場へ取り付いている。

夏侯淵も頷いた。

「なるほど。これでは鄭軍も我らがこの道から攻めてくるとは夢にも思うまい」


子午道。

古来より漢中と関中を結ぶ道の一つ。

しかし、その険しさゆえに大軍の通行には適さない。

だからこそ――。

奇襲にはこれ以上ない道でもあった。

「急げ!」

張衛の声が響く。

天師衛が再び道を切り開く。

その後ろを夏侯淵、さらに劉封率いる東州兵達が黙々と進む。

兵達は自分たちが何を成そうとしているのかを知っていた。

この険阻な道の先にあるもの。

長安を攻め落とすことである。



---


217年晩春 司隷長安


かつて前漢の都として天下にその名を轟かせた大城は、今も関中の中心として巨大な城壁を誇っていた。

その城内に突如として警鐘が鳴り響いた。

「敵襲!」

「何だと!?」

「南より楚軍が現れたぞ!」

「楚軍だと!?」

兵士たちが一斉に走り出す。

城門へ向かう者。

武器を取りに戻る者。

城壁へ駆け上がる者。

長安の街は瞬く間に混乱へと包まれた。


これまで鄭軍が警戒していたのは西方から迫る馬超・韓遂の大軍。

そして南西から迫る曹洪率いる楚軍であった。

だからこそ――。

誰も秦嶺の奥から楚軍が現れるなどとは考えていなかった。


「敵軍、南門方面へ接近!」

「数は!?」

「……一万ほど!」

報告を受けた兵が叫ぶ。

「一万だと!?」

長安城内には五千の鄭軍がいた。

寡兵なれど高い城壁に守られており恐れる必要はない。

――本来ならば。

だが、問題はその一万がどこから現れたかであった。

「子午道からそんな大軍が……?」

守将孟達の前に集まった将兵たちは、皆、信じられぬものを聞いたような顔をしていた。

孟達自身も、しばらく言葉を失っていた。

「……子午道」

その名を呟く。

まさか、あの道を大軍が越えてくるとは。



---


夜。

迎撃準備が終わり休息をとる孟達。

そのときであった。

影より染みだすように一人の男が現れた。

「孟達様」

「何者だ!」

「孟達様宛ての書状を預かっております」

「俺に?」

孟達は怪訝な顔をした。

差し出された書状を受け取り、封を開く。

その筆跡を見た瞬間、孟達の手が震えた。

「……鄧賢」

甥の名であった。

孟達は黙って書状を読み進める。

“叔父上。

長安の将として、叔父上ほどこの地を知る者はおりませぬ。しかし、今のまま鄭に留まれば、叔父上の才は決して報われぬでしょう”

孟達の眉が動く。

さらに読み進める。

“楚公曹操は唯才主義を掲げる方。才ある者を決して軽んじませぬ。楚に降れば働き次第で栄耀栄華は思いのまま。今こそ、叔父上が長安を手にする好機にございます”


孟達は書状を握りしめた。

胸の奥に、長い間押し込めてきた感情が蘇ってくる。

段煨、孫河。

二人の副将として長安の防備に心血を注いできた。

二人の跡は自分こそが長安を任される。

そう信じていた。

それなのに――。

後任の徐晃がその座に就いた。


孟達は徐晃を思い浮かべる。

「……徐晃」

その名を呟いた瞬間、胸の奥に澱んでいたものが、再び湧き上がった。

自分は何年この長安を守ってきたのか。

なぜ、自分ではなかったのか。

なぜ、あの男なのか。

孟達は目を閉じた。

「……私が長安を知っている」

誰に聞かせるでもなく呟く。

「私こそがこの城を守るに相応しい」

そして再び書状へ目を落とした。


楚軍一万。

城内は混乱している。

徐晃の主力は長安の外。

今ならば――。

孟達は長い沈黙の末、書状を懐へ収めた。

「……鄧賢」

その声には、もはや迷いはなかった。

「この話……受けよう」



---


長安の南門。

一人の兵がゆっくりと門へ近づいた。

「誰だ?」

門番が声を掛ける。

「……交代だ」

「交代?」

「ああ。守将からの命令だ」

門番は訝しげな顔をした。

だが、さらにその後ろから現れた男が告げる。

「交代せよ」

その声を聞き門番は畏まる。

そこに立っていたのは――孟達であった。

「孟達将軍?」

「そうだ」

孟達は淡々と答えた。

「今夜は私がこの門を預かる」

「はっ!」

門番たちは頭を下げ去っていった。


孟達は静かに門を見つめた。

長安。

自分が長年守ってきた城。

その門を――自らの手で敵に開こうとしていた。

一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ、孟達の手が止まった。

「……」

だが、すぐに目を閉じる。

そして連れてきた兵に命じた。

「開門せよ」


重い門扉が動き始める。

轟……、轟……。

巨大な門が夜の闇の中でゆっくりと開いていく。

その向こう、漆黒の闇の中から無数の兵影が現れた。

先頭に立つ男は鄧賢。

その後ろに夏侯淵率いる楚軍一万。

夏侯淵が馬を進め、剣を抜く。

「長安を獲るぞ!」

「おおおおおお!」

一万の兵が一斉に長安へ雪崩れ込んだ。


「敵襲!」

「楚軍が城内に入ったぞ!」

「門を閉じろ!」

「間に合わん!」

長安は再び混乱に包まれた。

だが、今度の混乱は先ほどとは違った。

敵は――すでに城内にいる。

鄭軍兵士たちが武器を手に集まる。

しかし、どこへ向かえばよいのか分からない。

城門を守るはずの兵は崩れ、楚軍は街路を駆け抜けていく。

天師衛が城門を制圧し、東州兵が城内へ展開する。

夏侯淵はその中央を駆けた。

「進め!」

夜の長安に楚軍の喊声が響き渡る。

やがて、長安の各所で火が上がった。

炎が夜空を赤く染める。

城壁の上からそれを見た鄭軍兵士が、震える声で呟いた。

「……長安が」

その声に誰も答られない中で、ただ炎だけが燃えていた。


その頃、孟達は一人、城門の前に立っていた。

自ら開いた門。

そこから流れ込んだ楚軍。

彼はそれを見つめながら、静かに呟いた。

「これで……私は」

だが、その言葉の続きを孟達自身も知らなかった。

栄耀栄華を得るのか。

それとも――。

この夜の決断によってすべてを失うのか。

ただ一つ確かなことがあった。

長安はもはや鄭の城ではないといこと……。



---


夜明け前。

長安城の各門に楚軍の旗が掲げられた。

漢の旧都、関中の要衝である長安はわずか一万の楚軍によって陥落した。

そしてその報は、やがて眉県にいる徐晃のもとへ届けられることとなる。


関中の戦局はここに大きくその姿を変えたのであった。

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