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【第百六十八話】韓信の裏

217年仲春 益州漢中郡・南鄭


時は少し遡り楚軍五万が陳倉道へ向けて進発した頃。

表向きには曹洪率いる大軍が関中へ侵攻し、馬超率いる関中連合軍と合流して鄭軍を圧迫する。

誰が見ても楚軍の狙いは明白だった。


だが――。

夜の曹操の私室に一人の漢(おとこ)が招かれていた。

賈詡、楚随一の謀臣である。


卓上には灯火が一つ。

その明かりが部屋の主と謀臣、二人の顔を半ば照らし、半ば闇へ沈めていた。


曹操は地図を眺めながら口を開く。

「曹洪は今頃どの辺りだ?」

「陳倉道の半ばかと」

「馬超との合流も間もなくか」

「はい」

賈詡は淡々と答えた。


曹操は地図へ視線を落としたまま、しばらく沈黙する。

やがて口元に笑みが浮かんだ。

「……しかし賈詡よ」

「はい」

「このまま曹洪に戦わせるだけでは少々芸がないと思わぬか?」

賈詡は目を細めた。

「殿もそうお考えでしたか」

曹操が笑う。

「天下の謀臣の奇策を述べよ」


賈詡は卓上の地図を指でなぞった。

陳倉。

長安。

そして、その南に連なる秦嶺の山々。

「韓信をご存じでしょう」

「無論だ」

「高祖劉邦が項羽と天下を争った折、韓信はこの地より関中へ出ました」

賈詡は静かに語り始める。

「世にいう――明修桟道、暗渡陳倉」


曹操は頷く。

「表では桟道を修繕する姿を見せ、陳倉より関中へ奇襲を仕掛けたな」

「その通り」

賈詡は陳倉を指した。

「天下の者が皆、その故事を知っております。ならば我らはその韓信の逆を行えば裏をかけましょう」

曹操の目が鋭くなる。

「逆、だと?」

「はい」


賈詡は地図上の陳倉道を指で叩く。

「陽道陳倉、陰襲子午」

その言葉とともに賈詡の指が南へ滑っていく。

漢中から秦嶺を越え長安へ通じる険路、子午道。

「曹洪殿率いる楚軍五万を助攻とし、その間に――」

賈詡の指が子午道で止まった。

「主攻として別部隊を子午道より北上させましょう」

曹操の目が細くなる。

「……長安を直接突く、か」

「はい」


室内に沈黙が落ちた。

しばらくして曹操が問う。

「しかし子午道の険しさは筆舌に尽くしがたいと言うではないか」

「承知しております」

「そのような道に大軍は送れぬぞ。少数の兵で長安を落とせるのか?」

賈詡は即答した。

「策なくば落とせぬでしょう」


曹操が呆れた顔になる。

「おまえの頭には更なる策があるのか?」

「この賈詡の脳髄には千の策、万の謀がございます」

賈詡は陰笑を浮かべ続ける。

「一人、殿に会わせたき者がおります。招き入れてもよろしいでしょうか?」

「許す」

賈詡は立ち上がり扉に向かい声を掛けた。

「入れ」

すると扉の奥、闇の中より一人の男が姿を現した。

賈詡は男を曹操の前へ進ませる。

「此度の策の鍵となる男でございます」


男は深々と頭を下げた。

「鄧賢と申します。鄭に仕えし我が親族・孟達より私への手紙、賈詡様にお見せしたものにございます」

曹操は書状を受け取り灯火の下で読み始める。


そこには孟達の胸中が赤裸々に記されていた。

曰く、

“長安を守るため、長きにわたり段煨、そして孫河の副将としてこの地に駐屯してきたこと。

幾度も長安の防備を整え、関中の地勢を知り尽くしてきたこと。

二人の後は自分こそが長安を任されると信じていたこと。

それにもかかわらず――。

後から来た徐晃にその座を奪われたこと”

己こそ長安を知る者であるという自負。

それを理解されなかったことへの不満。

そして最後には恨みとも嘆きともつかぬ言葉が綴られていた。


曹操は最後まで読み終えるとゆっくり書状を畳んだ。

そして――賈詡を見て奸笑(かんしょう)をその口元に浮かべた。 

「……なるほど。」

曹操は立ち上がった。

「長安の内に我らのために門を開く者がいる、ということだな」

「その通りでございます」

「ならば一万で十分か」

「はっ!一万あれば城内へ入り込んだ後は十分にございましょう」

曹操は頷いた。

「よし。夏侯淵と徐庶を呼べ」


ほどなくして二人が召し出された。

曹操は二人に向かい、明日よりの軍務を伝えた。

「明朝、兵を率いて南鄭を出陣せよ。任務は漢中東方、成固に発生した住民反乱の鎮圧だ」


夏侯淵が頷く。

「はっ!承知しました」

「率いる兵は張衛の天師衛五千と劉封の東州兵五千だ。徐庶そなたも同行せよ。」

そして同席していた鄧賢を二人に紹介した。

「この鄧賢も連れて参れ」

「はっ!」

拱手した夏侯淵ではあったが困惑した表情であった。

夜の突然の呼び出しにしては緊急性の低い軍務であったからである。


しかし曹操はそこで声を低くした。

「ただし――」

二人の顔を見渡す。

「成固を過ぎても、決して兵を止めるな。さらに北へ向かえ」

二人の表情が変わる。

「これは成固の反乱鎮圧ではない」


曹操は地図を広げた。

そして漢中から北へ伸びる一本の細い道を指す。

「子午道」

その名を聞いた瞬間、徐庶の目が見開かれた。

「やはり……」

曹操は笑った。

「そうだ。長安を獲る」



---


翌朝。

南鄭の東門が開いた。

先頭には夏侯淵。

従うは張衛率いる天師衛五千と劉封率いる東州兵五千。

総勢一万の兵が整然と並んでいる。

徐庶と鄧賢もその軍列に加わっていた。


兵士たちには漢中東方・成固における住民反乱の討伐軍と伝えられている。

誰もがそう信じていた。


夏侯淵が馬腹を蹴る。

「出陣!」

一万の兵が南鄭を出る。


その姿を城壁の上から見送る曹操。

その隣には賈詡。

曹操が小さく呟く。

「賈詡よ」

「はい」

「国士無双の策の裏をかくとは痛快な策だ」

「まことに」

二人は北の空を見ながら大笑した。



---


数日後。

漢中東方・成固。

反乱鎮圧を命じられた楚軍は、ほとんど抵抗を受けることなくこの地を通過した。

やがて兵たちは気付く。

進路が違う、と。

成固を過ぎても進軍が止まらず、進路は北へ向かっている。


一人の天師衛の将、朴胡が馬を寄せる。

「張衛殿」

「何だ」

「我らはどこへ向かっているのです?」

張衛は答えない。

朴胡は訝(いぶか)しげに前方を見る。

そこには天を突くような秦嶺の山々が聳(そび)えている。

「成固の反乱鎮圧に向かっているのでは?」

「その通りだ」

「ではなぜ我らはさらに北へ?」


張衛はしばらく沈黙していた。

やがて前方を見つめたまま、静かに答える。

「曹操様の深謀遠慮だ」

「深謀……?」

張衛は馬を進める。

そして秦嶺の山中へ続く細い道を指した。

「これより我らは子午道へ入る」

朴胡の顔から血の気が引いた。

「子午道……」

張衛は頷く。

「そうだ。我らはこれより長安を陥とす」


一万の兵が険しい山道へ吸い込まれていく。

その行軍を知る者は漢中の外には誰もいなかった。

陳倉道では曹洪の五万が軍旗を掲げて進んでいる。

馬超十万騎もまた長安へ向けて猛進している。

鄭軍の目はすべてそちらへ向いていた。


その背後。

誰も警戒していない秦嶺の深奥を――。

楚軍一万が静かに北へ進んでいた。

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