【第百七十一話】潼関の戦い・前夜
217年初夏 司隷弘農郡・潼関
黄河の流れを見下ろす山間に、天下の要衝があった。
潼関。
函谷関と並び、関中と中原を隔てる西方の門である。
本来、この関は東から関中へ攻め込もうとする敵を防ぐために築かれた関である。
東側には幾重もの柵。
険しい山々と河川。
狭い谷間を利用した堅固な防御陣地。
しかし、今その潼関へ迫っている敵は東からではなかった。
張遼は城壁の上から西方を見つめていた。
「……このままでは使えぬな」
隣に立つ甘寧が腕を組む。
「確かに。東向きの関故な。西から来る奴らを止めるには、少々心許ない」
張遼は頷いた。
「急ぎ補強するぞ。西側の斜面に柵を増設する。城壁も補強しろ。弩兵の射座を西へ向けるのだ」
「承知!」
兵士たちが一斉に動き始める。
石を運ぶ者、土を盛る者、丸太を削る者、柵を組む者。
鄭軍先鋒隊一万は潼関を戦場に合わせて造り替えていく。
甘寧はその様子を眺めながら笑った。
「敵が来る前に関ごと作り替えるとは、流石張遼殿だ」
張遼が横目で見る。
「面白がっている場合ではない」
「そう言うな。敵は十万を越えるという。これほどの大軍と戦える機会など、そうあるものではない」
「……貴公は本当に懲りぬな」
そう言った張遼の口元にも、わずかな笑みが浮かんでいた。
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その日の夕刻。
潼関の東方より大地を震わせるような軍靴の音が響いた。
「孫堅様本隊、到着!」
関の上から兵士が叫ぶ。
程なくして巨大な軍勢が姿を現した。
先頭に掲げられたのは『鄭』の大旗。
孫堅率いる本隊五万である。
孫堅が潼関へ入ると張遼と甘寧が出迎えた。
「二人とも臨機応変の対応見事だ」
張遼が拱手する。
「先鋒として当然の務めにございます」
甘寧も笑って頭を下げる。
「しかし、長安を失ったと聞いた時には肝を冷やしましたな」
孫堅の表情がわずかに曇る。
だが、すぐに二人を見て頷いた。
「それでも潼関を押さえられた。二人とも、よくぞこの地をおさえてくれた」
「ありがたきお言葉」
孫堅は城壁を見上げた。
西側には急造された柵と土塁が並び始めている。
「すでに改修を始めているのか?」
張遼が答える。
「はっ!この関は本来東からの敵を防ぐためのもの。西からの守りは補強する必要があると考えております」
孫堅は西方を見つめた。
「流石は我が張遼!」
孫堅は後ろを振り返り、腰の剣を抜き城壁の外を指す。
「周瑜、司馬懿、法正!我らも加わるのだ!」
「はっ!」
孫堅の命令とともに五万の兵が改修作業へ加わった。
石垣を積み直し土塁を築く。
西側の斜面には逆茂木を幾重にも設け、城門前には深い堀を掘る。
弩兵の射座を増設し、長矛兵が密集できる広場も作られた。
潼関は一夜ごとに姿を変えていった。
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数日が過ぎた。
朝靄の中、一隊の兵が西から姿を現した。
「何者だ!」
張遼が城壁から見下ろす。
それは疲労しきった張既や司馬孚ら文官達であり先頭には鍾繇の姿があった。
城門が開かれる。
「鍾繇殿!」
孫堅自らが迎えに出ると、そこには下馬し自ら縄で両手を縛った鍾繇が跪いていた。
「孫堅様……」
その顔には深い疲労が刻まれていた。
「長安総督たる身でありながら、これを失った責は重大。どうか処断を」
長安を失った、その事実は重い。
しかし――。
鍾繇の前に立った孫堅は静かに手を伸ばした。
「縄を解け」
「……は?」
鍾繇が顔を上げる。
孫堅は自ら鍾繇の縄を解いた。
「長安を失ったことを悔いるのは後でよい。まずは生きて戻ったことを喜ぼう」
鍾繇の目がわずかに潤む。
「孫堅様……」
「お主が命を落とすことなく戻った。それだけで今は十分だ」
鍾繇は頭を垂れた。
「この御恩、決して忘れませぬ」
長安からの敗残兵を迎え、潼関には再起を誓う鄭軍の旗が林立していた。
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司隷京兆尹・長安
長安の城門を蒼い旗を立てた軍勢がくぐっていく。
先頭に立つのは黒衣をまとい、鋭い眼差しを持つ漢。
楚公――曹操。
その後ろには二万の楚軍。
城内で迎えるのは十万の騎兵を率いる関中連合軍・馬超、韓遂。
楚軍本隊五万を率いる曹洪。
そして長安急襲軍一万を率いる夏侯淵。
長安へ入城した曹操は城壁の上へ立った。
眼下に広がる長安。
かつて前漢の都として栄えた巨大な都市。
曹操はその光景をしばし無言で眺めていた。
やがて背後から一人の漢が歩み寄る。
白銀の鎧に身を包む長身の将・馬超である。
曹操は振り返った。
「馬超殿か」
「……曹操殿」
二人は初めて真正面から相対した。
馬超は目の前の漢を見つめた。
父・馬騰とは背格好も顔立ちもまるで違う。
馬騰は大柄で豪放な男だった。
対する曹操は小柄であり、外見だけを見れば英雄然とした威容があるわけではない。
しかし――。
馬超は無意識に息を呑んだ。
目の前の漢から発せられる覇気。
戦場を幾度も潜り抜け、幾多の英雄と相対してきた者だけが持つ、凄み。
「……」
馬超は初めて知った。
この漢がなぜ乱世にその名を轟かせているのか。
曹操はそんな馬超を見て笑った。
「なるほど。確かに馬騰殿の息子だ」
馬超の眉が動く。
「父を知っているのか」
「若き頃に……な」
曹操は遠くを見る。
「豪胆な漢だった。あれほど真っ直ぐな漢はそうはいない」
馬超は黙っていた。
やがて低い声で答える。
「父の仇は、必ず討つ」
曹操は馬超を見た。
「ならば、我らも共に討とうではないか」
馬超はしばし曹操を見つめた。
二人の間に奇妙な緊張が流れた。
だがその緊張を破るように斥候が駆け込んできた。
「申し上げます!」
曹操が振り返る。
「潼関方面より報告!鄭軍が潼関へ集結しております!」
「兵力は?」
「少なくとも五万以上!」
曹操の目が細くなる。
「孫堅……」
政庁に二人が向かうとそこには既に緒将が集まっていた。
曹操が主座に馬超が左列筆頭に並ぶ。
「潼関を取らねば中原へ進めぬな」
黄権が進み出て地図を指し示す。
「潼関は西側の防御が急造されている模様。しかし、急造とはいえ正面から攻めれば、これを陥とすは容易ではありますまい」
龐統も頷く。
「なれど、我が軍は関中の勇将の方々もおり、物資も敵軍の残したものが十分にあります。十全なる準備を行うことで突破は可能と考えます」
曹操は即座に命じた。
「黄権、龐統」
「はっ」
「攻城兵器の準備にかかれ。投石器、雲梯、衝車。考えられるもの、全て用意しろ」
「はっ!」
続いて曹操は曹洪と夏侯淵を見る。
「曹洪、夏侯淵」
「はっ!」
「兵の再編を行え。関中連合軍と楚軍、指揮系統を整理する」
二人が拱手する。
「御意!」
最後に馬超と韓遂達、関中連合軍の緒将を見て雄笑を浮かべた。
「勇猛なる関中の方々には申し訳ないが、準備が出来るまでしばしお待ちいただきたい」
軍議が終わるやいなや、楚軍の緒将は足早に持ち場へ散っていく。
長安では潼関攻略に向けた準備が始まった。
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出陣準備が続く長安の一角。
関中連合軍の兵たちが休息を取っていた。
楚軍が攻城兵器を作る中で、関中連合軍の緒将はしばし手持ち無沙汰となっていた。
そんな休息をとる緒将の元に一人の若武者が現れた。
「馬超殿!」
馬超が振り返る。
そこに立っていたのは黄色の髭を蓄えた漢。
鋭い眼差しと逞しい体躯。
その手には剛槍が握られている。
曹彰、曹操の次男である。
「何だ?」
馬超が憮然とした様子で尋ねる。
曹彰は胸を張って答える。
「錦馬超と名高き貴殿との手合わせを願いたい!」
周囲の兵たちがざわめく。
「曹操の次男坊が馬超様に?」
「無茶なことを」
しかし馬超は興味をもった様子であった。
そんな馬超に曹彰は続ける。
「天下に聞こえた錦馬超。その武が如何ほどのものか、この目で確かめたい!」
「……よかろう」
馬超は槍を手に取った。
「相手をしてやる」
韓遂が遠くからその様子を見ていた。
「やれやれ……」
だが止めることはしなかった。
周囲の兵たちが円を作る。
二人は馬に跨がりそれぞれの愛槍を構える。
「来い!」
「参る!」
双方の馬が駆け最初の一撃が重なる。
ガキィン!
馬超の眉がわずかに動く。
「……!」
思ったより重い。
曹彰はそのまま槍を振り抜いた。
馬超が槍で受け流す。
「やるな!」
「まだだ!」
二合、三合。
十合、二十合。
馬超は次第に獰猛な笑みを浮かべ始めていた。
曹彰もまた歯を食いしばりながら食らいつく。
「錦馬超とやら……!」
剛槍が唸る。
「この程度か!」
馬超は槍を返す。
「ほざけ、小僧!」
両者の馬が交錯する。
三十合。
四十合。
五十合。
それでも決着はつかなかった。
周囲の兵達から歓声が上がる。
「曹彰様!」
「馬超様!」
二人とも息を切らしていた。
馬超は曹彰を見る。
(……強い。単なる若造ではないな)
力だけではなく胆力もある。
一方、曹彰もまた馬超を見つめていた。
(これが……錦馬超)
天下無双の武人、自分こそが最強の武人になる。
そう信じていた。
だが――。
目の前の漢はその自負をいとも簡単に砕いた。
それでも曹彰は倍する戦歴を持つ武人に対して五十合を耐え抜いていた。
「面白い……!」
馬超が再び槍を構えた。
「まだまだこれから――」
「そこまでだ!」
突然、二人の間へ馬を割り込ませる者がいた。
韓遂である。
「二人ともそこまでにせい!」
馬超が不満そうに言う。
「韓遂殿、まだ決着はついていない」
「だから止めたのだ」
韓遂は二人を見渡す。
「このまま続ければ、戦の前に双方とも傷だらけになるぞ」
曹彰が槍を下ろした。
「……確かに」
馬超も槍を収める。
韓遂は笑った。
「それに――」
二人を交互に見る。
「五十合打ち合って勝負がつかぬなら、今日は引き分けでよかろう」
曹彰が馬超を見る。
馬超も曹彰を見る。
やがて曹彰が笑った。
「馬超殿」
「何だ?」
「また手合わせを願いたい」
馬超は豪快に笑う。
「望むところだ!」
その夜。
二人は酒を酌み交わしていた。
「曹彰殿。先ほどの槍さばき、見事だった」
「馬超殿こそ。あれほどの槍を受けたのは初めてです」
「俺もあれほど力のある若者は初めて見た」
二人は顔を見合わせ――笑った。
敵となるか。
味方となるか。
この時の二人には、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは――。
互いの武を認め合ったことであった。
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二十日後、長安城外。
楚軍の陣には巨大な攻城兵器が並んでいた。
衝車、雲梯、井蘭車、投石車。
その周囲では数万の兵が忙しなく動き回っている。
一方、関中連合軍十万騎もまた戦列を整えていた。
馬超が白馬へ跨り韓遂が隣へ並んだ。
「いよいよだな」
「ああ」
馬超は東を見つめた。
その先には――潼関。
そしてその向こうには父の仇、孫堅がいる。
馬超の瞳に炎が宿る。
「行くぞ」
韓遂が笑う。
「応!」
長安の城門が開く。
曹洪率いる軍勢、その後方には夏侯淵らの部隊。
そして両翼には馬超・韓遂率いる騎兵。
楚軍八万、関中連合軍十万。
その軍旗が夏の終わりの湿った空気を切り裂くようにはためいた。
曹操はその中央に立っていた。
遥か東方、潼関を見据える。
「進め」
低い声が響く。
「潼関を落とすぞ」
太鼓が鳴った。
ドン――。
ドン――。
ドン――。
十八万の軍勢が一斉に動き始める。
長安から東、潼関へ。
その向こうにある中原へ。
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一方、潼関の城壁では孫堅が西方を見据えていた。
その隣には趙儼、張遼、甘寧、周瑜、司馬懿達。
六万の鄭軍が武器を手に待ち構えている。
西から迫る、楚・関中連合軍十八万。
東で迎え撃つ、鄭軍六万。
関中を巡る戦いは――。
ついに、天下の要衝・潼関を舞台とする決戦へ移ろうとしていた。




